はじめに
そのスリリングな論の展開には、推理小説を読むような楽しさがある。
しかしわたしの考えでは、彼の思考モードは、現代の政治哲学や倫理学がかかえる「悪い部分」が、ほとんどすべて登場するといっていいくらい哲学的にはナイーブにすぎるものだ。
多くの現代政治哲学者たちの理論構成が、ほとんどの場合その出発点から誤っていることを、このブログではしばしば論じてきた(詳細はそれぞれの哲学者のページ参照)。
そしてそれに代わるメタ理論を、わたしはこれまで、著書や論文等で解明・提示してきた(たとえば拙著「社会構想のための現象学的アプローチ」岩佐茂・金泰明編『21世紀の思想的課題』国際書院、2013年など)。
あまり激越な批判は好きではないのだが、何十年にもわたって続いてきたこうした「無効」といわざるを得ない議論の数々を読むにつけ、やはりその問題はしっかり指摘し、次のステージへと向かわせる必要があるのではないかと思わずにはいられない。
1.人間の本性=自然法はある
長らく(政治)哲学では、「人間の本性などない」と主張されてきた。それゆえ、人間本性から政治理論を構築するのはやめるべきである、と(たとえばローティ『連帯と自由の哲学』のページ参照)。
しかしロスバードはいう。
「あれほどたくさんの現代の哲学者が「本性[性質・自然]」という言葉自体を神秘主義と超自然の注入として馬鹿にするのは、実際不可解なことである。リンゴは放っておけば地面に落ちるだろう。このことを我々は皆観察して、それがリンゴ(世界一般も)の本性の中にあると認める。〔中略〕ではなぜ「本性」という概念にかみつくのか?」
「もしリンゴや石やバラがそれぞれ固有の本性を持っているならば、人間は本性を持ちえない唯一の実体・存在なのだろうか?」
「人間の本性という概念が現在あっさりと排斥されていることは、それゆえ恣意的でありアプリオリである。」
私自身も、「人間本性」をあまりに敵視した政治哲学は、多くの場合説得的な議論を展開できないとさまざまなところで論じてきた(ローティ『連帯と自由の哲学』のページ参照)。
たしかに、絶対的な人間本性などはない。しかし政治社会を考えるという「関心」からすれば、根本仮説としての人間本性は提示しうるし、またその洞察からしか政治哲学は議論を開始し得ない。
現象学的な「欲望・関心相関性の原理」の観点から、わたしは長らくそう論じてきた(フッサール『イデーンⅡ』、ハイデガー『存在と時間』のページ等参照)。
それはさておき、しかしここでのロスバードの言葉は、哲学者としてはあまりに素朴なものといわざるを得ない。
先述したように、絶対の真理や絶対的な人間本性などというものはない。より正確にいうと、わたしたちにはそれを認識し得ない。これはカント以来の哲学の“常識”だ(カント『純粋理性批判』のページ参照)。
哲学的にいえば、リンゴが地面に落ちることもまた、絶対の真理とは言い得ない。デカルト的にいえば、万人がそのような幻影を見せられているのかもしれないと、疑うことは可能であるからだ(デカルト『省察』のページ参照)。
にもかかわらず、いわゆる自然法則を絶対の真理と捉えた上で、さらにそれを人間に援用し、人間本性もまた捉えることができるなどと主張することは、デカルトからカント、フッサールにいたる哲学的認識論のすぐれた蓄積を無視した、あまりにナイーブな議論というほかない。
2.クルーソー状況
実際彼は、以下において、人間の絶対的本性(自然法)は見出しうる、そしてそれは「自由意志」であると主張する。
この「自由意志」を自然法として取り出す際の手続きも、わたしの考えではきわめて非原理的なものだ。
ロスバードは、まずいわゆる「クルーソー状況」を設定する。無人島に流れ着いたロビンソン・クルーソーの話から、自然法を考えようというわけだ。
わたしの考えでは、この最初の時点で、ロスバードの理論構成は失敗している。
「思考実験」から哲学原理を導出することは、不可能であるからだ。
ロールズの有名な「無知のヴェール」も同じだが、何らかの「仮定」から原理を導出することは不可能だ(ロールズ『正義論』のページ参照)。
なぜならそこには、無数の「前提」が恣意的に込められているからだ。そしてそれは得てして、自分が導き出したい原理にとって都合のよい「前提」となっている。ロスバードの「クルーソー状況」でいえば、無人島におけるたった1人の生活、しかもクルーソーは記憶喪失になっているという前提がある。
リバタリアニズムは個人の自己所有権を絶対不可侵の権利と考えるが、この原理は、まさにこうした、「他者関係のないたった1人の状況」という仮説的前提から導出された原理なのである。きわめて恣意的な理論構成というほかないだろう。
繰り返すが、仮定を置いて考える「思考実験」からは、哲学原理を導出することなどできない。それはあまりに仮説性の高い、恣意的な前提から成り立っているからだ。
にもかかわらず、現代の政治哲学も倫理学も、あまりにしばしば思考実験を多用する。そしてそこから得られた結論を、多くの場合なぜか一足飛びに「原理」として一般化する。
きわめてナイーヴな議論というほかないとわたしは思う。
3.自由意志
ともあれ、ロスバードは、クルーソー状況からわたしたちは「自由意志」という自然法を見出せると主張する。
「個々の人間は、彼自身の意識を内観する際、同時に彼の自由という原初的な自然的事実をも発見しているのである。すなわち彼の選択の自由、ある主体に対し彼の理性を用いる、あるいは用いない自由、を。要するに、彼の「自由意志」という自然的事実をである。」
わたしも、自由意志は政治哲学を展開するにあたっての土台であると考えている。しかしロスバードのように、それを絶対的な自然法とは考えない。
それは絶対的なものではなく、人がもし自分の自由意志を尊重されたいのであれば、他者の自由意志もまた尊重しようという、「相互承認」関係において成立するものなのだ。
自分の自由意志が絶対なのではない。それはあくまで、相互承認関係において尊重されるべき概念なのである。
先述したように、ロスバードは、無人島におけるたった1人の人間というモデルからこの「自由意志」という「自然法」を導出した。
しかしわたしたちは、現実世界においてはつねにすでに他者関係の中に置かれている。したがって考えるべきは、個人の絶対的権利ではなく、承認関係によって成り立つ権利の概念であるはずだ。そもそも先述したように、何らかの「絶対的」権利など決して前提しえない哲学的誤謬なのである。
4.自己所有権と財産権
ともあれ、ロスバードは以上見た「自由意志」という自然法から、個人の絶対的権利を次のように導出する。
「かくして、我々が述べてきた自由社会においては、全ての所有は究極的には各人の自然に与えられた自分自身に対する所有権、および人が変化を加え生産開始に至らせた土地資源に還元される。」
要するに、自己所有権と財産権、これが絶対不可侵の権利だと主張するのだ。
そしてまたもや、これは「科学」に並ぶ「絶対」の法則であると主張する。
「最重要なポイント。すなわち、もし我々が人間のための倫理(我々の場合では暴力を取り扱う倫理のサブセット)を設定しようとするのであれば、妥当性ある倫理であるためには、理論は時空を問わず全ての人間にとって真でなければならない。これは自然法の顕著な属性の一つである――時代や場所を問わず全ての人間に適用可能だということ。こうして、倫理的自然法は物理的、あるいは「科学的」自然法と並ぶ位置を得るのである。」
5.入植原理
では、この財産権はどのように決まるのか。ロスバードはいう。
「すべての資源、すべての財は、無主の状態では、それらを最初に発見して有用な財に変形する人物に正当に属する(「入植」原理)。」
しかし、もし彼がそれを犯罪によって手に入れたとするなら、それはもとの持ち主へ返されなければならない。その犯罪者がはるか昔の先祖だった場合も、もしそのことが証明できるなら、被害者の子孫に返されなければならない。
しかし、もし彼あるいは彼の先祖の犯罪が証明できないのであれば、彼はそれを占有し続けることができる。
ロスバードはそのように主張する。
6.子供と権利
以上の「原理」から、ロスバードは実際のさまざまな権利のあり方を演繹的に論じていく。
たとえば妊娠中絶に関して、彼は次のようにいう。
「もし母親が、もはや胎児にはそこにいてほしくないと決意したら、胎児は母親の人身に寄生する「侵略者」になり、母親はこの侵略者を自分の領域から追放する完全な権利を持つ。妊娠中絶は、生きた人格の「殺人」ではなく、母親の身体からの望まれざる侵略者の追放として見られるべきである。それゆえ妊娠中絶を制限あるいは禁止するいかなる法律も、母親の権利の侵害である。」
おそるべき主張だとわたしは思う。というのも、彼は続けて次のようにいうからだ。
「反中絶論者の別の議論は、胎児は生きた人間であって、それゆえ人権のすべてを持っている、というものである。大いに結構。議論の目的上、胎児は人間――あるいはもっと広く、可能的な人間――であって、それゆえ人権のすべてを持っていると譲歩しよう。しかしいかなる人間が、宿主である人の意に反してその身体内部の強制的な寄生者になる権利を持っているだろうか、と我々は質問することができる。明らかに、すでに生まれてきたいかなる人間もそのような権利を持っていない。それゆえ、まして胎児はそのような権利を持つことができない。」
胎児の「生きる権利」に対して、母親の「自己所有権」が勝る。ロスバードはそういうのだが、これこそまさに、何らかの権利を「絶対化」する弊害だとわたしは思う。
先述したように、「権利」は、それがなんであるにせよ「絶対」であることはない。それはつねに「承認」に支えられており、それゆえ一定の幅をもって調整することができるものだ。
にもかかわらず、何らかの権利を絶対化した時、そこにはぬきさしならない対立が起こることになる。
胎児の「生きる権利」も、母親の「自己所有権」も、どちらが絶対に正しいかと問うかぎり、決着はつかない。それは本来、「絶対」問題ではなく「調整」問題なのだ。
にもかかわらず、ロスバードは、母親の「自己所有権」こそが絶対だと強弁する。あまりにおそろしく、ナイーブな発想といわざるを得ない。
このほか、「言論の自由」は本来「財産権」の一部にすぎないとか、国家は財産権を侵害しているがゆえに巨大犯罪者集団だとかいったことが縷々述べられていく。
しかし、「財産権」絶対主義のロスバードからしてみればそれは妥当な議論かもしれないが、その前提からして間違っていることが指摘されれば、これらはすべて崩れ去る理屈といわざるを得ないだろう。
(苫野一徳)
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