「くるま村の達人」 PART 2 「鳥海志郎の世界」 THE MODELCAR RACING'S SPIRIT OF SHIROU TORIUMI TOP : The Winner Of Shiro Toriumi. At An All Kanto Districts Champion Ship In 1965( Leftside). Comeback !! Mr.Slotcar's Master "Shiro Toriumi". 60年代を駆け巡った日本モデルカー・レーシング界の達人 “鳥海志郎”氏の凄さを今あえて語る!!
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帰ってきた達人!!
その日は突然やってきた。
この感激のメールを頂いてまだ2週間もたっていないのに、話しがとんとん拍子に進み、今や伝説化していたモデルカー・レーシングの達人 “鳥海志郎”氏になんとお会い出来る事が出来る!!それもスロット・サーキットで・・・。
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鳥海志郎。1948年2月栃木県栃木市に生れる。そして、小学校5年の時に東京目黒区に移り住み現在に至る。
そんな鳥海氏の幼年期についてご本人にうかがってみた。
小学生時代から鉄道模型に憧れて、中学生時代には、東京港区の魚藍坂下にあった「カツミ模型」に出入りする常連となる。その頃のエピソードとして、ある日授業中に勉強そっちのけに鉄道模型雑誌を読みふけっていた鳥海少年に、いきなり隣りに座っていた同級生の女の子が「鳥海君、鉄道模型好きなの!?」と問いかけてきたのだった。鳥海少年はなんだこの女はと思っていたのだがよく事情を聞いてみると、なんとその女の子は、当時の鉄道模型関係出版社の社長の娘だったことが判明、それをきっかけにその日の内にその子の家に押しかけ、親父さんと親しくなってしまう。その後その出版社に入り浸りとなる日々が続いたことは言うまでもない。そこに当時の水道橋にあった鉄道模型社や神田須田町のカワイ模型などの老舗鉄道模型会社が集合し、鳥海少年の交友はさらに深まることとなった。
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ここで再び鳥海氏に当時のモデルカーレーシングについてお聞きする事にする。
さてここで鳥海氏の主なモデルカーレーシングレースの戦績をまとめてみた。
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1965-66
TOP : The Stock Car Class Winner's Shiro Toriumi in the 2nd All Japan Model Car Racing Team Title Race. |
このリザルトは、公式戦の主な戦績であるのだが、鳥海氏の記憶では実に2年間で“88勝”を達成しているという。
さらに、鳥海氏の“ミラクル・アーム”はメーカーさえも注目していた。 もっとも多かったのは、田宮模型から依頼を受けていた試作品テストだろう。 あのダイキャスト・スプリングサスペンション・サイドワインダーシャーシーももちろん鳥海氏のテストを受けて開発されたものだった。
さて、鳥海氏が作られたスロットカーは何故に速かったのだろうか。もちろん、その超越したテクニックによるものだとも言えるのだが、氏の製作技術についてもうかがってみた。
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“エピローグからプロローグへ”
1965年~1966年と数多くの戦績を残した鳥海志郎は、突如モデルカーレーシング界から姿を消してしまう。そして、それ以後のモデルカーレーシングビッグレースに鳥海志郎の名を2度と見ることはなかった。 それでは、この辺の事情も含めて鳥海氏にお話しをうかがってみた。
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あの熱狂的な'60sモデルカーレーシングブームの最中、まさに主役として活躍された鳥海志郎氏はその短い2年間の間にあらゆるタイトルを掴み、そして、去って行きました。
私は、すでに伝説となっていた鳥海志郎氏にお会いして感じたことは、年をとられてもやはり心は少年だったということです。特に、モデルカーレーシングのことを話される鳥海氏は、とてもにこやかに、まるで昨日のことのように当時のレースでのシャーシーセッティングについて説明される様子は、まさに“くるま村の達人”と言って良いのではないでしょうか。 インタビューを終わらせて頂いた後、鳥海氏は秋葉原の電気街に「ちょっと覗いていくので・・・」と消えていかれました。 まだまだ電気好きの少年心をお持ちなんだと、しかと感じさせて頂きました。 私は、つい鳥海氏に、今流の理論に基づいてスロットカーを作って頂けたらと思ってしまいました。 そして最後に、いつまでもお元気で、今後はじっくりとモデルカーレーシングを楽しんでいただけることを切に思わずにはいられませんでした。 最後に、鳥海氏が当時のことを短く語られていますので、ご紹介させて頂き終わりたいと思います。
主宰者
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PART 2 へ続く
(C) 09/APRIL/2002
Text Reports by Hirofumi Makino.
Special
Thanks Dr.K.