プロデューサーたちが語る宮崎駿との違い
スタジオジブリのアニメーション映画で声優経験のある評論家の立花隆と女優の石田ゆり子に加え、ジブリの名物プロデューサーの鈴木敏夫が鼎談したときのこと。石田が、ジブリ設立のきっかけとなった宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』(1984年)のヒロイン・ナウシカは少女にもかかわらず《実は足や腕が太いんですよね》と指摘した。これを受けて鈴木は次のような裏話を披露している。
《鋭い観察ですね。骨格が男っぽいでしょう。あれは宮さん[宮崎の愛称——引用者注]が若きアニメーターだった頃、演出の高畑さんに徹底的に仕込まれたからなんです。もともと宮さんは華奢な女の子を描くほうが好きだったのですが、高畑さんがそんな体格で刀を持って戦えるはずがない、と指摘した。骨格、特に首、腰、腕を太くするべきだと》(『文藝春秋』2013年5月号)
「高畑さん」とは、『ナウシカ』で製作(プロデュース)を担当した高畑勲(2018年4月5日没、82歳)のことだ。映画監督として宮崎駿とともにジブリの2枚看板だった高畑は、宮崎にとっては東映動画(現・東映アニメーション)時代からの先輩で、盟友にしてライバルともいうべき存在であった。
先の『ナウシカ』のエピソードからは、徹底してリアリティを追求する高畑の姿勢がうかがえる。鈴木はまた別の記事で、宮崎が資料をあまり見ずに想像を膨らませて描く「すべてをイメージでつくるタイプ」なのに対し、高畑は正反対で「細部にこだわって、とことん調べるタイプ」だと両者の違いを語っている(『文藝春秋Special』2013年冬号)。たとえば、『火垂るの墓』(1988年)の神戸大空襲の場面では、登場人物が爆音を聞いて空を見上げるときの方向を知るため、米軍の爆撃機B-29が襲来した方角を調べ上げた。
仕事の進め方も両者は対極的だった。高畑の最後の監督作品となった『かぐや姫の物語』(2013年)で製作を担当した西村義明はこんなふうに説明する。
《たとえば宮崎さんを説明するときに僕はよく一意専心という言葉を使うんですが、「これを作りたい!」と強く思ってそれに対して邁進する方だと思うんです。高畑さんはその逆、企画があるとしたらそれが作るに値するものかどうか、一度はとことん否定的にも考える方なんですよ。否定し続けてもなにかが残ったときに「あっ、これはこういうところがあれば映画になるかもしれない」と考える》(『ユリイカ』2013年12月号)
『かぐや姫の物語』は、そもそも1950年代に東映動画で『竹取物語』のアニメ映画化の話が持ち上がった際に、まだ新人だった高畑が思いついたアイデアがもとになっている。だが、それにもかかわらず、彼はこの企画をジブリ側から持ちかけられたとき、《『竹取物語』を映画化するべきだとは言ったが、私が作るとは言っていない》などと言って、なかなか引き受けなかった(前掲)。ようやく検討に入ったあとも、一時は別の企画に変更される。これが頓挫したため再び『かぐや姫』に戻り、今度は脚本家を入れて話し合いを進めたものの、高畑が自分で脚本を書くしかないという結論に達し、書き始めるが、またもや断念。結局、新たな脚本家として坂口理子を招き、高畑の考えを反映させながら彼女がプロットをつくった。こうして高畑のやりたいものを客観的に提示することで、やっと企画がまとまっていったという。
作品に着手するまで時間がかかるうえ、製作に入ってからも完璧を求めるがあまり、公開が大幅に延びることはしょっちゅうであった。1970年代にテレビアニメを宮崎たちと一緒につくっているころも、プロデューサーをつかまえて、《この作品をテレビシリーズとして作るのがいかに無謀か、その理由は——》と延々と説明していたという(『文藝春秋』2014年2月号)。高畑の指示を待っている現場のスタッフからすれば、迷惑以外の何物でもない。この時代について後年、高畑はこんな弁解めいた発言をしている。
《その頃から、いつも宮さんは先のことを考えるんですよ。「こんな時間のかかることをやっていてはダメだ」とか言ってたよね。僕なんかは「先のことを考えても、なるようにしかならないんじゃないの」というタイプ。そこが大きく違った》(前掲)
そんな高畑を評して宮崎はかつて《音楽と勉強が趣味で、稀に見る緻密な構成力と才能の持ち主でありますが、天性のナマケモノの朝寝坊でもあります。(中略)鮮新世の草原をはいまわっていた大ナマケモノの子孫にちがいありません》と書いた(宮崎駿『出発点[1979~1996]』)。あらためてその足跡を、宮崎との出会いも含め振り返ってみよう。
挫折を続けながら新たな表現に挑む
高畑勲は1935年10月、三重県に生まれ、父の転勤により8歳のときに移り住んだ岡山県で高校まですごした。戦時中には岡山空襲を体験している。
東京大学在学中、フランスのポール・グリモー監督の長編アニメーション映画『やぶにらみの暴君』(1952年。のちに改作され『王と鳥』と改題)を観たことが高畑の人生を決めた。フランス文学を専攻していた彼は、卒業論文でも『やぶにらみの暴君』の脚本を手がけた詩人のプレヴェールをテーマに選んでいる。
大学を卒業した1959年、東映動画に入社する。宮崎駿が入ってきたのはそれから4年後である。「日本のディズニー」を標榜し、劇場用の長編アニメーションを製作してきた東映動画だが、1963年に手塚治虫の虫プロダクションによる国産初の本格的な連続テレビアニメ『鉄腕アトム』が放送開始、ヒットしたのを受け、テレビに進出。高畑は、東映動画初のテレビアニメ『狼少年ケン』で演出助手から演出に昇格している。
宮崎は入社2年目の1964年、東映動画労働組合の書記長に就任し、労組の副委員長だった高畑と親交を深めていく。同時期の65年、会社から劇場用長編アニメーション『太陽の王子』の作画監督に抜擢された大塚康生が、演出に高畑を指名する。宮崎もこの企画に自主参加した。なお、大塚は東映動画1期生のアニメーターで、同社をやめてからも高畑や宮崎に大きな影響をおよぼすことになる。
高畑たちは『太陽の王子』に全力で取り組むが、作画枚数の超過とスケジュールの遅延により製作はいったん中断。それでも3年がかりで完成し、1968年7月、『太陽の王子 ホルスの大冒険』というタイトルで公開にいたる。アイヌの叙事詩「ユーカラ」などを原典とするこの映画は、悪魔の侵略を受けた村を舞台に、それに立ち向かう村の青年で主人公のホルスと悪魔の妹ヒルダを軸に物語が展開する。高畑は後年、製作当時を次のように振り返っている。
《一部で言われているように、労組が作ったわけじゃないし、直接の関係があったとは言えない。にも関わらず僕はスタッフを同志と考えていましたから、そういう人たちが心の中に共通して持っていて、一致して共感しうる企画のつもりで『ホルス』をやったんです。でも、その中で、いろんな技法も、心理描写も、日常描写もお祭りも、やみくもにみんなやってみたかったんですね》(『dankaiパンチ』2008年8月号)
それほど力を注いだにもかかわらず、興行成績は散々で、東映動画史上最低を記録する。高畑は製作大幅遅延の責任も問われ、演出助手に一時降格された。
時代は下り、1971年、高畑はアニメーターの宮崎と
1973年には、翌年放送されるテレビアニメ『アルプスの少女ハイジ』の製作のため、今度はズイヨー映像(現・日本アニメーション)へやはり宮崎と小田部と一緒に移る。製作を前にスイスとドイツでロケハンも行なう徹底ぶりだった。
もっとも、『ハイジ』の演出を引き受けるとき、高畑は例によって、プロデューサーに企画を提案されてから決断するまでに3カ月くらいかかったという。スイスの児童文学者シュピーリの原作は彼も子供のころから愛読していて、もし可能ならばやりたい気持ちは大いにあった。しかし、原作にはアニメーション化するにふさわしい飛躍もファンタスティックな要素もない。高畑が悩んだのは、《こういう実写でやればよいようなものを敢えてアニメーションにする意味は何なのか。アニメーションでなければ表現できないものとしてこれを作れるだろうか。要するに表現上の可能性や意義を見いだすことができるのか》ということだった(『MOE』2001年6月号)。
考えに考えた末、主人公のハイジをはじめ人物の感情などに表現の可能性があるのではないかと思いいたる。たとえば、物語の冒頭、初めてアルプスの山に連れて来られたハイジが、重ね着していた服を脱いでいくシーン。原作のハイジは脱いだ服をちゃんとたたんでいくが、アニメでは、パッと脱ぎ捨てて、45度近い急斜面を駆け上がって行く。現実には幼い少女がそんなところを走って登ることなど無理だが、それを高畑は、美しい山を見たハイジの躍る心、解放感を表現するため、アニメーションならではの「動き」を採用したのである。
盟友との分かれ道
『ハイジ』のあとも高畑と宮崎は一緒に仕事を続けたが、しだいに方向性に違いが生じるようになる。『母をたずねて三千里』(1976年)の製作にあたり、高畑は、主人公の少年マルコが旅のなかで大人顔負けの能力を発揮しながら、危機を乗り越えたり、人助けをしたりするような、いわゆる股旅ものにはしたくなかった。やる以上、原作どおり悲惨な部分も受け入れようと考えたのだが、ここで宮崎と衝突する。
《僕がやったのは、行く先々で世話ばかりかけて、他人の恩義に自尊心を押し潰されながら、のたうち回って探し続けるって話(笑)。宮さんは、そんなこと嫌でたまらんかったんだね。「こんなスタジオ燃えてしまえばいいんだ!」とか叫んでたね(笑)》(『週刊文春』1994年7月14日号)
その後、『赤毛のアン』(1979年)で宮崎は場面設定・画面構成を担当するも、15話まで手がけたところで降板し、直後には日本アニメーションをやめて東京ムービー新社(現トムス・エンタテインメント)に移った。降板の理由の一つは、宮崎が『アン』も『ハイジ』と同様に主人公に感情移入してつくったほうがいいのではないかと主張したのに対し、演出の高畑はそれを排し、クールに描こうとしたためだった。のちに彼は次のように説明している。
《少女はアンに直接感情移入するでしょうが、大人はむしろマリラ[アンの養母——引用者注]の立場に立って、アンの言動を馬鹿馬鹿しいと思う。そのどちらも等距離で描いてユーモアを出そうと。だから登場人物を平等に描いて、客観性を持たせるためにナレーションも男声にした訳です》(『キネマ旬報』1992年12月下旬号)
そんなふうに衝突しながらも、高畑はその後、宮崎が先に移籍していた東京ムービー新社の関連会社テレコム・アニメーションフィルムを経て、宮崎監督の『風の谷のナウシカ』と続く『天空の城ラピュタ』(1986年)で製作を担当する。この間、1985年には二人の製作拠点としてスタジオジブリが設立された(ただし、高畑はジブリには「顧問」という形で参加、一度も正式なメンバーになったことはない)。高畑が宮崎との対比をはっきりと意識するようになったのは、ジブリで『火垂るの墓』を手がけてからだという。
《宮さんはファンタジー型なんですね。(中略)世界が閉じていて、その完結した世界の中で、思うさま心を解放させたり遊ぶ。それに対して、僕は少し快くないものが入っていてもいいんじゃないかと思ってる。もし、完結した世界がファンタジーだとすると、僕はその世界に穴が開いていて、ちょっと軋みが生じても現実と触れ合わざるを得ない作品を作り続けているつもりなんです》(『週刊文春』1994年7月14日号)
それでも後年、宮崎について《考え方が違ってきた今も、いつも大胆不敵なアイデアを現実化する能力に感服してるし、やっぱり仲間のつもりなんです》と語ったように(『ブルータス』2010年8月10日号)、二人の友情は終生変わることはなかった。
「僕がOKと言ったら映画は終わりですか?」
「現実と触れ合わざるを得ない作品」を志向し続けた高畑は、とりわけ市井の人々の何気ない日常を描くことに力を注いだ。はるき悦巳の同名マンガを原作に監督した映画『じゃりン子チエ』(1981年)では、大阪の下町でホルモン焼き屋を手伝う少女チエと、暴れん坊の父・テツなどが活躍する作品世界を忠実に再現した。米ウォルト・ディズニー・プロダクションの大御所アニメーター、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンは、日本のあるプロデューサーからこの映画を見せられて非常に驚き、《これは私たちがこれまで見た日本のアニメーションで最高の作品です。(中略)暖かい視線としっかりした人間描写は、私たちディズニーが到達し得なかった素晴らしい作品です。アニメーションに異次元の世界を期待する人たちには戸惑いを与えるかもしれませんが、いつかかならず理解されます》と称賛したという(大塚康生『作画汗まみれ 改訂最新版』)。
後年、ディズニーは高畑監督の『ホーホケキョ となりの山田くん』(1999年)の製作に参画する。同作はジブリ作品では初めてニューヨーク近代美術館(MoMA)に所蔵され、日本の庶民生活を通して普遍性を描き出す高畑の才能をあらためて証明した。アメリカの脚本家マイケル・アーントは、かつて脚本の道をあきらめようとしていたとき、MoMAで開かれていたジブリの回顧展で『となりの山田くん』を観て勇気づけられたという。アーントがそれまでに書いた脚本も、『山田くん』と同じく家族のささいな日常を描いたものであり、こういう映画をつくり続けている監督がいる以上、自分もやれると思い直したのだ。このあと彼が書き上げた『リトル・ミス・サンシャイン』(2006年)はアカデミー脚本賞を獲得する(『ユリイカ』2013年12月号)。
映画のなかで世界を完結させず、必ずどこかで現実と通じていた高畑作品には、観客に自らを省みさせたり、社会などについて考えさせたりする意図が常に込められていた。『火垂るの墓』はその最たる例だろう。反戦映画と扱われることの多い同作だが、高畑は製作時からずっとそれを否定し続けた。同作が描いたように、戦争がもたらした惨禍と悲劇をいくら伝えたところで、《将来の戦争を防ぐためには大して役に立たないだろう》と考えていたからだ。戦争の惨禍よりも《もっと学ばなければならないのは、そうなる前のこと、どうして戦争を始めてしまったのか、であり、どうしたら始めないで済むのか、そしていったん始まってしまったあと、為政者は、国民は、いったいどう振る舞ったのか、なのではないでしょうか》とも彼は語っている(高畑勲『君が戦争を欲しないならば』)。逆にいえば、『火垂るの墓』という作品は、映画のなかでは描かれなかったそうした部分も含めて、私たちに考えるよう突きつけているともいえる。
最後の作品となった『かぐや姫の物語』も、平安時代的な世界を舞台にしながら、高畑がプロデューサーの西村義明と完成までずっと話していたのは現代の女性のことだったという。西村の言葉から引用すれば、それはこういうことであった。
《月から来たかぐや姫は、急に成長したわけですから、当時の風習は何も知らないまま大人になっていく。だから、現代に生きる普通の子として描いたんです。となると、彼女が生きて感じることは現代の女性に通じるはずですし、つくり手の意識とは別にどうしたって今日性を帯びてしまうんです》(『美術手帖』2014年1月号)
企画から完成まで8年がかりとなった『かぐや姫』の最後の作業が終わったとき、高畑は西村に《もう終わりなんですか? 僕が今OKと言ったら映画は終わりですか?》と訊ねたという。当然ながら《ええ、完成です》と返されたものの、彼は《まだやってたい》と、その後もしばらくのあいだ、ほとんど必要のない直しを続けた。それをようやく終えたかと思うと、帰りの車のなかでいきなり、かねてから構想していた『平家物語』の映画化について西村に話し始める。このとき、自ら監督するかどうかは例のごとく言葉を濁しつつも、高畑はあきらかにやる気だったようだ(『Switch』2013年12月号)。作品づくりにおいて妥協を許さず、完璧を求め続けた彼にとって、仕事とは死ぬまで完成しないものであったのかもしれない。
■参考文献
高畑勲『映画を作りながら考えたこと』(徳間書店、1991年)、「日本の映画監督 第41回 高畑勲」(『キネマ旬報』1992年12月下旬号)、『映画を作りながら考えたことⅡ』(徳間書店・スタジオジブリ、1999年)、「プレヴェールというリアル 高畑勲訳および注解『ことばたち』をめぐって」(中条省平との対談、『ユリイカ』2004年12月号)、『王と鳥 スタジオジブリの原点』(大塚康生・叶精二・藤本一勇との共著、大月書店、2006年)、『漫画映画(アニメーション)の志——『やぶにらみの暴君』と『王と鳥』』(岩波書店、2007年)、「高畑勲が昭和を描く理由 「過去を振り返ることを快感にはしたくない」」(『dankaiパンチ』2008年8月号)、『アニメーション、折にふれて』(岩波書店、2013年)、「話題の人に迫る 人物交差点 高畑勲」(『中央公論』2014年1月号)、「スタジオジブリ30年目の初鼎談」(宮崎駿・鈴木敏夫との鼎談、『文藝春秋』2014年2月号)、『君が戦争を欲しないならば』(岩波ブックレット、2015年)
大塚康生『作画汗まみれ 改訂最新版』(文春ウェブ文庫、2013年)
叶精二『日本のアニメーションを築いた人々』(若草書房、2004年)
キネマ旬報ムック『キネマ旬報セレクション 高畑勲 「太陽の王子 ホルスの大冒険」から「かぐや姫の物語」まで』(キネマ旬報社、2013年)
鈴木敏夫「ジブリ名作の「舞台裏」を話そう」(立花隆・石田ゆり子との鼎談、『文藝春秋』2013年5月号)、「スペシャルインタビュー 鈴木敏夫 スタジオジブリの名参謀」(『文藝春秋Special』2013年冬号)、『仕事道楽 新版 スタジオジブリの現場』(岩波書店、電子書籍版、2014年)
宮崎駿『出発点[1979~1996]』(スタジオジブリ、1996年)
「阿川佐和子のこの人に会いたい 第58回 高畑勲 ディズニーは子供に迎合するから嫌いです」(『週刊文春』1994年7月14日号)
「宮崎駿と「もののけ姫」とスタジオジブリ」(『キネマ旬報』臨時増刊1997年9月2日号)
「アニメーション「アルプスの少女ハイジ」が永遠に愛される秘密」(『MOE』2001年6月号)
「TVアニメ界初の海外ロケ 「アルプスの少女ハイジ」が生まれるまで」(『MOE』2009年6月号)
「偉才 高畑勲の到達点「かぐや姫の物語」」(『キネマ旬報』2013年12月上旬号)
「特集 高畑勲『かぐや姫の物語』の世界」(『ユリイカ』2013年12月号)
「スタジオジブリという物語」(『Switch』2013年12月号)
「特集 『かぐや姫の物語』の衝撃。」(『美術手帖』2014年1月号)
「ブルータスのスタジオジブリ特集」(『ブルータス』2010年8月1日号)
イラスト:たかやまふゆこ