石巻市大川小学校災害に関する控訴審判決(仙台高裁)の判決から思うこと
大川小学校災害に関する控訴審判決は,東日本大震災後に大きく変化した現代の感覚で,当時の人の行為を裁いたもので,きわめて強い違和感を覚えた.判決が求めている判断は,現代においてもかなり高度なものであり,今後社会全体として対応していくことが現実的に可能なのか,強い疑問を感じた.
●はじめに
4月26日に仙台高等裁判所で出された,東日本大震災時の大川小学校での人的被害についての判決文を入手する機会を得たので,一読しての印象を書き留めておきたい.
なお筆者は,災害情報に関する研究者ではあるが,法律や教育行政に関する専門的知見は持たない.災害や防災に関わる研究者として,また,災害後に場合によっては責任を問われる側になり得る国民の視点からの感想である.
筆者は,災害時の「管理者側」の責任を問う訴訟に関して,上記のように,法律専門家ではない立場から関心を持っており,近年の関連判決に際しては,いくつか感想をまとめている.
宮城県山元町の自動車学校での津波犠牲者に関する訴訟の判決文を見て思うこと
災害に伴う犠牲-人ごとでない責任論
大川小学校災害に関する仙台地裁の判決から思うこと
釜石市鵜住居地区防災センターでの災害に関する盛岡地裁の判決から思うこと
東松島市野蒜小学校での災害に関する仙台高裁の判決から思うこと
東日本大震災に限らず,自然災害によって人々が犠牲となることは大変痛ましく,ことに小学校のような,本来安全であるべき場で多数の子ども達が犠牲となることに対しては言葉がない.
しかしながら,不確実性の高い自然災害に対して,災害発生時にいわゆる「管理者」側(個人は無論のこと組織に対しても)の対応の責任を強く問うことは,社会全体として現実的では無いのではないか,と考えている.
●訴訟の概要
本件は,東日本大震災時に,宮城県石巻市立大川小学校において,児童74人,教職員10人が死亡・行方不明となった被害を巡って,遭難した児童の内23人の19遺族が,石巻市及び宮城県に損害賠償を求めた訴訟である.一審の仙台地方裁判所は,2016年10月26日に原告の主張の一部を認め,石巻市及び宮城県に賠償金の一部の支払いを命じる判決を言い渡している.原告,被告ともに判決を不服として控訴しており,今回の判決に至った.
一審判決では,東日本大震災発生前の段階で大川小学校関係者が,学校周辺への津波の可能性を認識しておらず具体的な避難場所等を決めておかなかったことや,地震発生から15時半頃までの間に校庭にとどまったという判断については,注意義務違反ではなかったとした.15時半頃,石巻市の広報車が伝えた北上川河口付近の松林を津波が越えているという情報に接して以降は,同小学校付近に大規模な津波が到達することを予見できたとした.その上で,15時半頃以降に校庭から移動して避難先として「三角地帯」(標高約7m)を目指したことが「裏山ではなく,三角地帯を目指して移動を行った行為には,結果を回避すべき注意義務を怠った過失が認められる」とした.
いわば一審では,災害発生前の対応に関しては被告側の主張を認め,災害発生時,特に津波到達直前の学校の判断については,原告側の主張を認めた,という印象だった.このためか,控訴審では,災害発生前の対応に関してが主な争点となったようである.
これに対して控訴審判決は,災害発生前の津波災害に対する予見可能性を幅広く認め,災害後の事後の対応についての学校,行政側の責任を認めなかっただけで,ほぼ全面的に原告側の主張を認めたものとなった.
●ハザードマップという情報の捉え方に対する違和感
判決の最も基本的なポイントは,大川小学校がハザードマップで示された浸水想定区域内ではなかったが,
- ハザードマップで示された「津波浸水域予測についても相当の誤差があることを前提として利用しなければならなかった」ということ
- 感潮区域の河川と近接し,堤防はあるものの地震によって沈下し河川からの水が浸入する危険性があったこと
- 下流側の堤防は津波によっては停止,そこから津波が陸上を遡上する危険性があったこと
などの理由により,「大川小が本件想定地震により発生する津波の被害を受ける危険性はあった」と明確に認めたところだろう.これを認めたことが根本的なポイントとなって,危機管理マニュアルの見直しの不備や,市によるその点検の不備など,他の争点についても原告側の主張を認める結果となったと思われる.
筆者は,「大川小が本件想定地震により発生する津波の被害を受ける危険性はあった」と,震災前の時点で予見可能であったとの判断には,強い違和感を覚えた.ハザードマップは,震災前は無論のこと,現在においても,各種防災計画を策定する上で基本となる情報であり,その内容が各種計画に反映されることは当然のことである.その内容にもとづいた防災計画(大川小を津波の際の避難所としていたことなど)が不適切であったという判断は納得ができない.
ハザードマップが不確実性を持つ情報であり,それを鵜呑みにすべきではないということは,ハザードマップの一般的な注意事項として,ほぼ必ず注記されていることである.しかしそれはより応用的かつ一般的な留意事項であって,だからといって,ハザードマップの記載されていない場所も危険であると当然理解すべきであり,具体的に対策を考えておかなかったのは誤りであったかのようにいうのは,極めて非現実的な指摘であると思う.ハザードマップの示されない危険を想定するとして,では,具体的にどこまで想定するべきというのか.
そもそも,上記1~3のような知見は,東日本大震災後の現代日本人にとっては理解しうることだろうが,東日本大震災以前の段階で十分に理解されていたとは到底言えない.東日本大震災以前にこうした知見が存在しなかったわけではなく,そのことを判決は常識であるかのように取り上げているが,かなり高度な専門的知見であったと筆者は考える.この点については,現代の知見(としてもかなり高度な)で,過去の人の行動を裁いたものであり,強い違和感を覚える.
●学校関係者は地域住民より高いレベルの津波に対する認識を持つべきであったとの指摘に対する違和感
児童らの被害が注目されがちであるが,大川小学校の立地する石巻市河北町釜谷地区は,住民の犠牲者率自体が,他地区に比べ著しく高かった地区でもある.大川小学校事故検証報告書(大川小学校事故検証委員会,2016)によれば,被災当日釜谷地区に所在した住民及び来訪者の死亡率は84%とされている.これは今回の震災による犠牲者率として極めて.例えば,市町村別で犠牲者率が最も高かった市町村の一つである陸前高田市では,浸水域人口に対する犠牲者率11%,500mメッシュごとの地区人口に対しても最大で30%ほどである(筆者調査).大川小学校およびその周辺は,地域を知る住民自身にとっても,迷うことなく避難先を選択,移動することが難しい立地であったと思われる.
しかしながら判決は,こうした状況についても否定的な判断をしている.たとえば,「校長等は,第1審被告市の公務員として,本件安全確保義務を遺漏無く履行するために必要とされる知識及び経験は,釜谷地区の地域住民が有していた平均的な知識及び経験よりはるかに高いレベルのものでなければならない」としている.その上で「釜谷地区に津波は来ないという釜谷地区の住民の認識が根拠を欠くものであることを伝えて説得し,その認識をあらためさせた上で,大川小の在籍児童を避難させるべき第三次避難場所の位置,避難経路及び避難方法について調整を行うことは十分に可能であった」としている.
判決が指摘しているような判断は,防災について専門的な知見を持たない一般市民(現実には学校教職員も大きく変わるものではない)のレベルから見れば,極めて高度なものである.たとえば,数時間程度の講演の聴講などというもので修得できるような知識ではない.一般に「防災研修」で行われている,災害に対する心構えや助け合い,ワークショップ等の「演習」での教育内容などとは段違いに高度な(目安としては大学院レベルの)自然科学的基礎知識に加え,実務的な災害に対するを知識を十二分に修得していたとしても,果たして自信を持って判断に至れるかどうか,というくらいの水準を求めている.結果がわかっていれば何とでも言えるが,事前に的確に判断できるような水準の話とは到底思えない.
また,学校関係者の防災に関する知識経験は一般住民より高いものでなければならないと判決は指摘するが,現実には,東日本大震災の前後を通じて,そのような知識経験を積むような機会は,学校の教職員は言うまでもなく,市町村防災担当職員ですらほとんど確保されておらず,そのための予算措置もほとんどなされていない.仮に多少の予算措置があったとしても,このような高度な知識経験の習得は,上記のように,数時間程度の研修などでは到底及ぶものではない.このような実情を,この判決は全く無視しており,憤りすら覚えるものである.
●今後の広く各地における防災対策に対して懸念されること
そもそも東日本大震災による多数の被害は,まず第一義的には,それまでに具体的に考えられているものよりもはるかに大規模な現象(津波)が生じたことによるものであり,仮に高度な教育を受け,知識経験を有していたとしても,事前に今回のような事態を具体的に想定し,より安全側を見越した防災計画が立てられていたかはかなり疑問であり,少なくとも,当然できたはずだと言えるようなものではないと考える.
今回の被告が行政機関であり,学校関係者であったことから予見可能性が一般住民(個人というべきだろうか)より強く認められたようである.しかし,その線引きはどのあたりとなるのだろうか.いわゆる「管理者」側の組織・個人は,なにも行政関係とは限らない.民間企業,任意団体など,国民のかなりの割合が「管理者」側となる可能性がある.大規模災害の発生も想定される中,多数の「管理者」組織・個人の責任を強く問うやり方は,社会的に本当に対応可能なのだろうか.
自然災害に対して,様々な対策を講じ,最善を尽くすことが重要であることは言うまでもない.また,現実に責任を問われる立場の人たちからも犠牲が出ている現実から,現場において最善が尽くされなかったとはとても思えない.人知の及ばないことも生じやすい自然災害に関して,最善を尽くした結果,結果的に厳しい事態が生じたことについて,「だれかが悪いことをしたから被害が生じたのだ」「対応できたはずではないか」と,事後的に断ずることは,厳しい事態を改善する上での事実把握や記録に対して妨げとなり,かえっていわゆる「教訓」を埋もれさせてしまうことにならないだろうか.
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