少子化が深刻化する昨今、日本では生涯未婚率が上昇しています。国立社会保障・人口問題研究所の第15回出生動向基本調査では独身男性の約半数が、「性経験がない」と回答しています。
「ニコニコドキュメンタリー」では童貞について特集した番組が放送され、番組内では首都大学東京教授の宮台真司氏が、社会学的観点から時代の流れとともに生じた童貞の変化や、どのような原因で、現代の童貞は揶揄や嘲笑の対象になったのか、その本質に鋭く迫りました。
童貞とは?――女には女のコスモロジーがあり、男には男のコスモロジーがあった。
宮台:
単に性的未経験者ということじゃなく、セクシズム【※1】を前提にした性的未経験者の男性が、童貞ということになります。セクシズムというのは、イヴァン・イリイチ【※2】の概念です。昔はバナキュラー(民族風土)がジェンダーを支配していて、女と男は比較不可能な存在だったのが、近代ではフラットな人間概念のもとで、女と男が比較可能になった、それがセクシズムです。
(画像はAmazonより)
※1セクシズム
一般的に、性差別主義、女性蔑視という意味のほか日本では「セックス本位主義」の意味でも用いられるが、イヴァン・イリイチの『ジェンダー』以来、性差別を含む多様な産業的男女関係の様相を包括する用語としても用いられる。
※2イヴァン・イリイチ
オーストリア、ウィーン生まれの哲学者、社会評論家。
女と男の比較不能性を、平たく言うと、女には女のコスモロジー(宇宙論)が、男には男のコスモロジーがあること。人間概念がなかったとは、「女も男も同じ人間だ」という考え方がなかったということ。だから、人間一般にあてがわれる抽象的な権利概念もなかった。そうした時代には、女と男だけじゃなく、鍛治屋も神父も貴族も同じ人間だと考えることもなかった。役割ごとに期待もコスモロジーも違ったということです。
熊がいて、狼がいて、女がいて、男がいる。お互いがちがった時空間を生きるているけれど、祝祭のような条件があれば、女は男になれるし、男も女になれる。犬は僕にもなれるし、僕は犬にもなれる。そういう感じ方が当たり前でした。ところが、「セクシズムが支配する」イコール「人格として横並びで、等しく権利をあてがわれる、抽象的人間」が出てきた。それでバナキュラーな差異が全て差別だとされるようになりました。
かくて「女も男も同じ人間なのに」「アイツもオレも同じ男なのに」といった差別・被差別の意識が生じる。イリイチの議論は面白い。差別・被差別の関係があれば解消しろというのが倫理的主張だと考えられてきた。フェミニストもそう考えてきた。イリイチはそれを承知で「差別とは意識されなかったことが差別だと意識されるようになるのは、コスモロジーの貧困化せいだ、コミューナルなものの空洞化せいだ」と提起したわけ。
彼は1962年の第二バチカン公会議で、典礼や教義の刷新に向けて活躍したカトリック神父だったけど、近代社会だけでなく、大規模定住社会にありがちな「言葉の自動機械」になることを拒絶しようとした人なんだね。僕はクリスチャンなのでその話を詳しくするとキリがないけど、それまで鬱屈しないで良かったものに鬱屈するようになった背景に、「フラットな社会における感情の劣化」を見出したんだね。
「差別反対」「人権」の言葉を前にすると「尤もらしさ」に思考停止しがちだけど、思考停止の「言葉の奴隷」を憂いたんだね。最近似た役割を演じるのが人類学者ヴィヴェーロス・デ・カストロ。フェミニストを含めた社会学者定番の非本質主義や構築主義やマイノリティーズ・アイデンティティ論を否定する。彼によれば「男がいて、女がいる」んじゃなく「私は男でも女でもある」。同じく「私はLでもGでもBでもTでもある」わけです。
性に開放的であったという誤解「それなりの人はそれなりの人に」
宮台:
その話を前提にして次の話に行くと、民俗学者の赤松啓介氏が記述してきたように、僕の祖父母の世代までは、田舎にいけば「夜這い」もあったし、「若衆宿」もあったし、お祭り時の「無礼講」——乱交です——もありました。というと、日本は性的に開けていたように感じられます。実際、人類学者マルセル・モースや小説家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、日本は性の楽園だみたいな記述を残しているのは有名な話です。
民俗学者の赤松啓介氏によると、それは誤解。僕も夜這いの経験者たちを取材した。1990年代前半です。各地で当時60代以上の人——戦前生まれの世代——を取材すると、夜這いや無礼講を記憶する方が多数いた。自分が実践していた人も、子供たちで徒党を組んで覗きにいった人もいた。多摩地区で今も「くらやみ祭」があるけれど、戦後もまだ無礼講が残っていたのです。むろん今は人畜無害な普通のお祭りです。
そういう事例をあれこれ掘り出してきた赤松氏は、これらは野放図に見えるけれど、よくできた秩序なのだ、というわけです。かつて富士フイルムの、樹木希林と岸本加世子が出ていた有名なコマーシャルに、「それなりの人はそれなりに」っていうセリフがあったでしょ(笑)。そんな感じですね。それなりの人をそれなりにマッチングさせるアロケーション(配分)の秩序だったのだ、と赤松氏は言うんです。
それを支えたの村落の同性集団。若衆宿とも呼ばれます。今でもトルコの田舎などに残っています。夜這いをかける時も、僕が「あの後家さんに夜這いしたい」と言うと、若衆宿の兄貴分が「10年早いわ」みたいに一蹴して「お前はアソコ」と指定する。昔だってモテる・モテないがあったに決まってるけど、モテないなりに相手を見繕ってもらえて、あぶれにくくなっていたわけ。戦後のお見合いもそんな感じでしたよね。
ところが赤松氏の記述を踏まえて言えば、恋愛が市場化すれば「ウィナー・テイクス・オール(勝者総取り方式)状態」になる。僕がよく引用するデータだけど、昨今の「恋愛稼働率」つまり恋愛パートナーがいる割合は、どの世代でも女は男の2倍、男は女の2分の1。本人たちがどう意識するかに関係なく、統計的には複数の女が一人の男をシェアしている。つまり多くの男があぶれているわけです。
あぶれたって江戸時代を思えばどうってことない。家督が継げない次男三男なんてそんなもの。でも近代は違う。イリイチの言うセクシズムが支配する。だから「なんで俺だけあぶれるの!」「他の奴らばかり良い思いをして!」と噴き上がる。それが「今日の童貞とは、セクシズムを前提にした性的未経験者の男」と言った意味です。昔はバナキュラージェンダーが支配していた分、童貞は存在しなかったと「も」言えます。
身近な日本を例にしたけど、ヨーロッパ、アメリカ、中国、どこでも基本線は同じです。かつてであれば恋愛市場化されていない分、アロケーション・システムがあり、アロケーション・システムからも見放されてる奴は、「諦めていた」。「そもそも可能性のないステイタスに生まれたのだ」とね。日本だけでなく、どんな共同体でもそうだった、ということです。そこから見れば、童貞問題とは近代特有の「噴き上がり問題」なんです。
女にはわかる――損得にしかこだわれない、仲間がいない、孤独な男。
宮台:
なぜ一極集中が起こるのか。なぜ、モテる男が複数の女を相手にできるのか。データからわかります。昨年ある女子高で百五十人以上の高校三年生全員に、正しさに敏感な男と、損得に敏感な男と、どっちを彼氏にしたいかを尋ねたら、全員が正しさに敏感な男だと答えた。理由を尋ねたら「損得に敏感な男は、いざというとき逃げるから」と返ってきた。女子高生たちのこうした評価は科学的にみて然るべき理由がある。
進化生物学には、正しさという感覚のルーツは「仲間のための自己犠牲を肯んじる構え」。「小さな仲間集団を犠牲にして大きな仲間集団に貢献する構え」も含まれる。だから、正しさの観念は、犠牲を払っても守るべき仲間が存在する時にだけリアルになる。正しさとは「仲間への愛のために法を破る=正しさのために法を破る」ことです。ところが、こうした正しさの観念を生きられない孤独な若い人が増えてきたんですね。
正しさのために法を破るには仲間の存在が必要だけど、仲間を想像できない。僕は「正しさよりも損得」が専らな人間を「クズ」と呼び、クズに傾くことを「感情の劣化」と呼び、クズだらけの社会を「クソ社会」と呼ぶけど、なぜクズだらけなのか。必ずしも本人が悪いわけじゃない。クズな人間はクズな損得親に抱え込まれて育った可能性が高い。専ら損得で結びついた関係の中で育った可能性も高い。クズがクズを呼ぶわけ。
排外主義的で腐った安倍政権を擁護するウヨ豚がいるよね。ウヨ豚には様々な国籍の仲間がいるかな。いたら「中国人がぁ」「在日がぁ」という物言いはあり得ない。実際「中国人や在日の知り合いがいるの?」と尋ねると、いないと答える。「ならば、なぜ中国人や在日はクズだと思う?」と尋ねると、ネットにあったと答える。「なぜ信じるの? 書いた人のことを知ってる?」と尋ねると、知らないと答える。一事が万事この調子。
自分が犠牲になってもいいと思う仲間がいて、その仲間にリスペクトされていれば、その時点で「損得を超える力があり、それゆえに絆に満ちていること」の証明になる。逆に言えば、知りもしない人間の書き込みを信じて排外主義的になる時点で、「仲間がいない孤独ゆえに妄想的に損得にこだわる」というヘタレぶりがバレてる。実際、そういう人間に会ってみると、さもしく浅ましい顔をしている。実際、全くモテないのね。
多くの女には「それ」が分かる。損得野郎が感情的に劣化していて、なぜ感情的に劣化しているかといえば、仲間がいないからだと分かる。「仲間のために法を破る」態勢がないクズに過ぎないと分かるわけ。クズが何をするかと言うと、フランクフルト学派【※1】の言う「不安の埋め合わせ」をする。神経症の定義ですよね。仲間がいないがゆえの不安や寂しさや嫉妬を、意味不明な反復強迫で埋め合わせるんですね。
※1フランクフルト学派
全体主義の由来を研究した社会理論家のグループの他称。ファシズムや国粋主義を「不安の埋め合わせ」だと批判したので、「フロイト左派」「批判理論家」とも呼ばれる。
仲間がいない不安に苛まれたヘタレは、不安を埋め合わせたくて、少しでも法を逸脱していた人を指差しては炎上し、炎上に勤しむ連中を「インチキ仲間」として粉飾する。「インチキ仲間」に過ぎない事実は、不安を埋め合わせて自分を楽にしたい損得野郎のクズ連中だというところから直ちに明らか。こうしたクズを右翼や保守に数えるには当たらない。 「右か左か」「保守かリベラルか」じゃなく、「マトモかクズか」です。
(画像は本人公式ブログより)
はあちゅうさん騒動【※】やベッキー不倫騒動に対する、集団炎上の背後にある営みも、全く同じですね。公平を期して言えば、僕が「クソフェミ」と呼んでいる連中も、マトモじゃなくクズだという意味で、「ウヨ豚」とまったく同じです。僕は全部クズと呼ぶことにして、「ウヨ豚」も「クソフェミ」も区別しませんが、要は「不安の埋め合わせ」のための「言葉の自動機械」に過ぎないので、ハナからマトモに取り合う必要がないのです。
※2はあちゅうさん騒動
ブロガーのはあちゅう氏が、会社員時代に上司から受けたパワハラ・セクハラを告発するも、はあちゅう氏自身が、過去に自身のツイッターで童貞の男性をからかうような投稿を繰り返していたことに関して、「これもハラスメントでは?」と批判的な声が殺到した。
取り合うもなにも、「言葉の自動機械」だから、言葉の中身にそもそも意味がないんです。1970年代末から僕が「鍋パーティ問題」と呼んできたものと同じです。上京したばかりで不安な大学新入生が「鍋パーティ」に誘われる。仲間ができたと思ったら「研修旅行」に誘われる。それがカルトだったりセクトだったり。最初に誘われたので「不安の埋め合わせ」からメンバーになるだけ。イデオロギーの中身は関係ないんです。
こうした「不安の埋め合わせ」に由来する「言葉の自動機械」を観察すると、あぁ鬱屈してるな、社会を生きづらいんだな、幸せになれないんだな。もっと言えば、幸せになるために必要な絆づくりの能力がないんだな。そういうことが、あからさまに見えちゃう。それが今日的な「ぎゃあぎゃあ騒ぐ童貞」のイメージの、デッサンだと考えていただくといい。そのぐらいだから、ウヨ豚と同じで、経験的には「治療」も簡単です。
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