本質的な話、と言っても全国民が同意する類のものではないと断っておくとして。
オタクが「キモいもの」であることは現在におけるオタクの定義においては大半の人が「そんなことはない」と否定されるものではないかと思う。ただ、ここでいうオタクは「サブカル(というと語弊があるかもしれないが)を趣味とする」人のように、趣味のジャンルを指しているようにも思える。いわゆるオタクカルチャーの需要者ということ。
しかし、このように意味が薄まった結果「特に差別されているわけではないオタク文化の需要者」が「オタク差別などない」と簡単に言ってしまうのはその人達が本質的にはオタクではないから、ということに起因しているように思う。このような分析はもう20年以上も繰り返されてきたことの再提示に過ぎないんだけど。なので、ここから書くことは今更感のあることだけだし、解釈が多様に分かれる正解のない話でもある。
本質的にオタクとはなにか、といったときに「容姿がキモい」というのがその特徴として捉えられてしまうのはなぜか。これは人生における行動の優先順位の問題に起因すると考えるとわりとしっくりは来る。つまり、オタクの本質(の一面)は、そのことについての優先順位を上げすぎてしまう行動様式にある、と考える。つまり、身奇麗なオタクはファッションオタクだけだし、シックスパックな腹筋を持ったオタクは筋トレオタクだけだ。ボディビルダーは究極の筋トレオタクだと思うが、あれを無条件に人間の美しさの極地と考える人はそれほどいないだろう(し、キモいと感じる人はそれなりに居るだろう)。
そういった意味でいうと、自分を表現する趣味のオタクについては比較的社会に受容されやすい(それは表現を受容する対象者が居るから)し、そうじゃないもの、つまり、受容を中心とする趣味(鑑賞系)についてオタク的な行動をしようとすると作品世界に深く入り込むことくらいしかできない。それが高じて2次創作になった場合も一般的な表現とは異なり、深く入り込んだ結果溢れ出るものの表現になると一般に受容し難いレベルのものになりがち)。そして、そのために犠牲にするものが身奇麗さであったり、会話の内容であったり、周囲への気配りであったりする場合に、「奇矯な行動をする人たち」と思われがちだし、結果として小汚いことを気にしない人口がそれなりに生じてしまう。小奇麗であることが「必要ない」と考えてしまう。
もちろん、そのレベルの優先順位で生きている人は少ないし、それが故にトップレベルのキモさは目立ってしまうところはあると思う。常識を踏み越え、一般的にやるべきと見なされていることをやらずに人生を過ごしていれば、差別とは言わないまでも後ろ指を指されることに違和感はない。むしろ、オタクというのは生き方の多様性の一つの象徴みたいなもので、多様性が重要視される現在においてようやく受容されてきた生き方とも言える。
問題は、現在に至って、オタクカルチャーの需要者の典型的な「キモさ」のイメージが「臭いデブ」とか「ヒョロガリネルシャツ」とか「ナップザックポスター」みたいなものに固定化されてしまっていることで、そんなイメージで「オタクはキモいから差別される」みたいな言説が投げかけられても首を傾げることしかできない。
というここまでの話とは全く別の観点において、オタクのキモさというのは確かに発揮されて、発信されている部分があって、それは特に性的嗜好と結びつきやすい、マンガ・アニメ・アイドルオタクの世界においては深刻な問題ではないかと思う。性的嗜好の開陳をするってことは実はオタクの特性ではないし、リア充ヤンキー方面の人達のリアル志向、エンジェ(検閲されました)顧客のロリ志向と対象が違う(主に二次元や手の届かない系)だけであるというのが僕の認識なんだけど、ウェブとの親和性が良すぎて目立っているだけだとは思うんだよね。だからこれはオタク固有の問題ではない。ただ、萌えを始めとした新しく、特徴的な概念が取り沙汰されすぎているだけだと思う。
とにかくも、オタクの気質というのは基本的に周囲には奇矯なものとして映るし、そうあるべきとも思う。ただ、それは差別に値するものでは当然ない。オタクのステレオタイプを「そんなやつ今頃いねーよ」と言ったところで実際に居るし、それはオタクの特徴の一つではあるし、しかし必要条件ではない。キモいから差別される、を外形的なものとして捉えているのであれば、それはオタクそのものの差別ではないことは確かな一方でそれをオタクの特性として汎化しているのであれば実質的にオタクの差別であるし、差別させている人の本質の差別に繋がるのであれば、結果的に外形的にはキモくないオタクの差別をしていると言ってもよいのでないか、とも思う。そこの切断ってされないはずなんだよな。