坂本龍一 死を垣間見てわかったのは、意外なことだった
2018年04月27日
「がんです」
医師からこう言われたら、どう思うだろうか? 自分ではなく、例えば親やパートナー、すごく大事な人のことだとしても。
あんなことしたかった、こんなことしたかった。閉ざされる未来に絶望するかもしれない。運命を呪うかもしれない。
インタビューしたこの人は、病床で食べ物のことばかり考えていたという。
贔屓のレストランに「カツカレーの写真を送ってほしい」と頼み、スマートフォンの待ち受けにしていたくらいだ。「死に近づいているのだから、もっと深刻にいろいろ考察を深めればいいのに」。状況を客観視して、そんな風に思ったと振り返る。
音楽家・坂本龍一、66歳。
2014年に中咽頭がんになった坂本は、治療に専念するため休養を宣言した。
しかし1年足らずで現場に復帰。2本の映画音楽を制作し、2017年には8年ぶりのオリジナルアルバム『async』をリリースした。再び音楽を鳴らし始めたのだ。
この記事の筆者である私の父は73歳。現在、脳に病を患っている。改善は見込めず、日ごとに体の自由がなくなっていく父を見て思う。
自らの「死」を垣間見た時、人は何を考えるのか?
そして、今でも音楽家であり続ける坂本龍一の姿を見て思う。
死を目の前にしても、なぜ音楽を作り続けられるのだろうか?
何かを作るというのは、それほどに大きな意味を持つのか?
教授。教えてください。娘の私に。
(取材:BuzzFeed Japan 嘉島唯)
がんの公表直後、坂本は自身の状況を冷静に分析していた。中咽頭がんの半数は治ると聞き、「なんとなく安心」した。同時に声帯を傷つける可能性があり、全身に転移しやすいであろうこと。副作用があることも受け入れていた。
「ピアノが弾けなくなることはなさそうだ」とわかったのは、「安心」の大きな材料になっていたのかもしれない。
余生については、よく考えてきた方だ。還暦を迎えた時には「残りの人生で読みたい本リスト」を作った。
「日本人男性の平均寿命は80くらい。あと20年でどれくらいの本が読めるかなと思って」
安心したと言ったものの、喉の治療は想像を絶するものだった。「こんなに痛いならもう治療をやめて欲しい」と口走ったほどだ。唾すら飲み込めない。体重は10キロ以上も落ちた。
そんな中、坂本の頭にあったのは、食べ物のことだった。「治療が終わったら何食べよう」。カツカレー、オムライス、納豆ご飯......。携帯の待ち受け画面にしたカツカレーを見ては「これが食べられるように頑張ろう」と思った。
そこで気がつく。「音楽ができるってことは余裕があること」なのだと。
坂本がそう思ったのは、これが初めてではない。2001年9月11日の同時多発テロは、ニューヨークにある自宅の近所で起きた。
「9.11から暫くした時に誰かが公園でギター弾いているのを聴いて、『この1週間音楽を聴いていなかった』と。そのことすらも忘れていた」
音楽は食事や空気のように「ないと生きていけない」ものではない。音楽を生業としてきた坂本は、そのことを知っている。自嘲気味に笑いながら、こう話す。
「過度に期待をされると困るんですよね。音楽は世界を救うみたいなね。救うまでいかなくても癒やすとかね。本当にもう困っちゃうんですよね」
世界的な音楽家である彼のもとには沢山の賛辞が送られてきた。それでも坂本は「音楽は余裕の証、世界も救わない」と言う。
では、なぜ音楽をやり続けるのだろう?
がんを患いながら、2つの映画音楽を制作した。ひとつは、休養前にオファーが来た山田洋次監督の『母と暮せば』。もうひとつは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『レヴェナント:蘇えりし者』だ。
若い頃ですら、映画音楽は一つの作品をこなすのがやっとだった。それを同時に2本手がける。無理をすれば、命の保障はない。
しかし、イニャリトゥ監督は、当時『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でアカデミー賞を受賞したばかり。作り手としての興味が勝った。今、最も才気あふれる監督から声がかかる。願ってもないチャンスだった。
「文字通り生きるか死ぬか。これで死んでもしょうがないんじゃないかって。死ぬ覚悟でやりました」
なぜ、これほど苦しみながら、音楽を作り続けるのだろう。 音楽は世界を救わないと言うのに。
「アウトプットなんてしなくてもいいんです。本来は。でも、しないと生活できないから......あんまり儲からないから変わらないけど」
また、笑いながら言う。お金のため?
少し、間を置いて続ける。
「根底にあるのは、インプットだけしていてもつまらないから」
「僕は絶対に不満なんです。何を聴いても。大好きなドビュッシーを聴こうが、バッハを聴こうが......満足できない。自分で作っても満足できない。常に不満だから、何か作ろうとする。満足しちゃったら先はないです」
坂本の根源にあるのは「新しい音」への渇望だ。それを探して、北極や森林、自宅......さまざまな場所の「音」を録音し、集めてきた。では、自分の中から「新しい音」が出てきたら?
「そういうときは興奮しますけどね。18歳くらいの時から、ピアノ......西洋の楽器でできることはやりつくされていると思っているから、『まだあった!』というのは、本当に驚きです。でも、その頻度はどんどん低くなってきている」
すでに先人がやりつくしている。18歳の坂本少年は、それを悟っていた。メロディを奏でる音楽は作曲家たちが作りきった。内部の弦を弾くような実験的な演奏はジョン・ケージら現代音楽家たちにやりつくされた。ピアノに新しさはなかった。
「無知は喜びじゃないですか。幸せだなって。たくさんいろんなことを知ってしまうと、喜びは少なくなりますから......でも、無知に基づいた喜びっていうのは果たして本当の喜びでしょうか?」
そう問いかける坂本は、知ることの喜びを求め続ける。知っても知っても、すべてを知りつくすことはないのだから。
『レヴェナント:蘇えりし者』の制作でも、初めて知るものがあった。それは、「挫折」だ。
これまで、坂本には、失敗の経験がほとんどなかった。しかし、闘病の直後にハードワークをこなせる体力は戻ってなかった。集中力が持たず、神経が衰弱する。納期は迫る。
生まれて初めて「クビにしてくれ」と思い、単独での楽曲制作を諦めた。「僕は自分に負けたんです」という。
「やっと一人前になった」
彼はまた、新しい音を手に入れたのかもしれない。これまで知らなかった挫折を知って。
同じ時期に、坂本の心を捉えたものがある。一台のピアノだ。出会ったのは2012年、震災後の宮城だった。
津波に飲まれ、破壊されたピアノ。指を鍵盤に沈めると「自分の知っている音」は鳴らなかった。
出会った当初は、「ピアノの屍骸」だと思うほど、ショックを受けた。しかし、坂本は「津波によって生まれた音」に強く惹かれるようになり、この音色を新アルバムで使うことにした。それだけではなく、愛用してきたピアノの「調律」もやめてしまった。
「津波ピアノは地震と津波という自然の大きな力で、ある意味、破壊された存在です。ピアノ自体もともとは木でできていて、生きていて、自然とともに変化していくものなのに、大きな人工的な力で曲げられて作られたものです」
「それを、僕たち人間が『調律が狂ってきた』というのは、人間的な基準で言っているに過ぎない。モノとか自然の方から言えば元のカタチに戻ろうとしている力です。調律が狂うっていうのは」
「ピアノに対する限界っていうのは、今に始まったものではなくて、18歳ぐらいから感じていて。しょうがなく付き合っているようなものです。それからずっと......50年近く。もっとか。新しい音を探す現代音楽も、あくまで人間中心主義というか、前衛主義というか。知的な興味で描かれていたんですね」
「最初は、僕も知的な興味で津波ピアノに関心を持った。でも、今、津波ピアノから得た刺激は、前衛主義のものとはだいぶ違うもののような気がしているんです。もっと大きな意味での自然感......人間感というか。音楽に対する興味自体も、かつてのような前衛主義は......今、僕にはない」
かつては、前に進むことで見つけてきた「新しさ」だったが、「退行」する中にもそれはある。津波ピアノは、これまで感じた「新しさ」とは違った。
調律。それは自然の流れに沿って狂っていくものを正す作業だ。例えば、人間はどうだろうか。 調律しないと、ピアノのように人間もどんどん壊れていく。
「人間も自然に還っているからね」
津波ピアノは、坂本自身を投影する存在だ。
「津波ピアノと大災害と......大きな自然な力が及ぼしたものでした。それと、ぼく個人の病気。同じことなんだと強く感じました。津波ピアノで知ったことと、がんになって知ったことはすごく似ている」
「生老病死という言葉がある。味気ないですけど、生まれて老いて病気になって死ぬ。それは自然なこと。一方で人間のする、考えたり音楽を作ることは反自然的なことですね」
老い、体が動かなくなっていく過程は、普通にできていたことができなくなることを指す。苛立ち、落ち込み、途方に暮れたりもする。そんな姿を見ると「調律してあげたい」と思うのが人の性だ。
ピアノを調律しなくなった坂本は、どう考えるのだろう?
「台風や地震が起きるのも同じこと。これは自然が調律している自然のプロセス。人が死に向かうのは自然なこと。でも、それを見て、調律してあげたいと思うのも、人間として自然なこと」
「僕自身、すごく調律しました。自然に抗ってるなぁって思います。自然の流れだとわかっていても、あれが食べたいとか、音楽を作りたいとか。まだまだ、生きたいんだろうなぁ。意味はなくても生きたいって」
人間的欲求があったとしても、体は自由が効かなくなってくる。同じ時期にがんを患ったデヴィッド・ボウイは2016年に他界した。「多分、同じ病院にいたんだと思う」とも語っていた。
ピアノが弾けなくなる瞬間も、いつかは迎える。死の過程に恐怖を覚えることはないのだろうか?
「怖い。実際、指は......動かなくなってますよ。ピアノもどんどん下手になってきている」
ゆっくりと考えながら、それでもふわりとした答えを見つける。
「......でも、曲想が変わってきている。指が動かなくても成立する音楽になっているかもしれません。きっと、どんどん音が少なくなって、最後に1音になって消えていく......みたいな」
坂本が音楽を作り続けてしまうのは、自分の「新しさ」を発見できる喜びを知っているからだ。失うことだけがそこにあるのではない。
残される者は、その姿を見る時に胸を痛めずにはいられない。でも、死に向かう階段を降りるときですら、発見があり、喜びがある。坂本は、静かに笑みを浮かべて言う。
「このプロセスを楽しんでいる......のかもしれないですね」
軽やかに飛び出した「楽しむ」という言葉に、すがるように質問してきた私も、思わず笑ってしまった。
取材が終わったのは、日曜の夕方。坂本は、そのままスタジオへ向かう。「音楽に生命力を注ぎに行かなくちゃ」と言って。
医師からこう言われたら、どう思うだろうか? 自分ではなく、例えば親やパートナー、すごく大事な人のことだとしても。
あんなことしたかった、こんなことしたかった。閉ざされる未来に絶望するかもしれない。運命を呪うかもしれない。
インタビューしたこの人は、病床で食べ物のことばかり考えていたという。
贔屓のレストランに「カツカレーの写真を送ってほしい」と頼み、スマートフォンの待ち受けにしていたくらいだ。「死に近づいているのだから、もっと深刻にいろいろ考察を深めればいいのに」。状況を客観視して、そんな風に思ったと振り返る。
音楽家・坂本龍一、66歳。
2014年に中咽頭がんになった坂本は、治療に専念するため休養を宣言した。
しかし1年足らずで現場に復帰。2本の映画音楽を制作し、2017年には8年ぶりのオリジナルアルバム『async』をリリースした。再び音楽を鳴らし始めたのだ。
この記事の筆者である私の父は73歳。現在、脳に病を患っている。改善は見込めず、日ごとに体の自由がなくなっていく父を見て思う。
自らの「死」を垣間見た時、人は何を考えるのか?
そして、今でも音楽家であり続ける坂本龍一の姿を見て思う。
死を目の前にしても、なぜ音楽を作り続けられるのだろうか?
何かを作るというのは、それほどに大きな意味を持つのか?
教授。教えてください。娘の私に。
(取材:BuzzFeed Japan 嘉島唯)
病床で考えたのは、音楽のことなんかじゃなかった
がんの公表直後、坂本は自身の状況を冷静に分析していた。中咽頭がんの半数は治ると聞き、「なんとなく安心」した。同時に声帯を傷つける可能性があり、全身に転移しやすいであろうこと。副作用があることも受け入れていた。
「ピアノが弾けなくなることはなさそうだ」とわかったのは、「安心」の大きな材料になっていたのかもしれない。
余生については、よく考えてきた方だ。還暦を迎えた時には「残りの人生で読みたい本リスト」を作った。
「日本人男性の平均寿命は80くらい。あと20年でどれくらいの本が読めるかなと思って」
安心したと言ったものの、喉の治療は想像を絶するものだった。「こんなに痛いならもう治療をやめて欲しい」と口走ったほどだ。唾すら飲み込めない。体重は10キロ以上も落ちた。
そんな中、坂本の頭にあったのは、食べ物のことだった。「治療が終わったら何食べよう」。カツカレー、オムライス、納豆ご飯......。携帯の待ち受け画面にしたカツカレーを見ては「これが食べられるように頑張ろう」と思った。
そこで気がつく。「音楽ができるってことは余裕があること」なのだと。
坂本がそう思ったのは、これが初めてではない。2001年9月11日の同時多発テロは、ニューヨークにある自宅の近所で起きた。
「9.11から暫くした時に誰かが公園でギター弾いているのを聴いて、『この1週間音楽を聴いていなかった』と。そのことすらも忘れていた」
音楽は食事や空気のように「ないと生きていけない」ものではない。音楽を生業としてきた坂本は、そのことを知っている。自嘲気味に笑いながら、こう話す。
「過度に期待をされると困るんですよね。音楽は世界を救うみたいなね。救うまでいかなくても癒やすとかね。本当にもう困っちゃうんですよね」
世界的な音楽家である彼のもとには沢山の賛辞が送られてきた。それでも坂本は「音楽は余裕の証、世界も救わない」と言う。
では、なぜ音楽をやり続けるのだろう?
病気を経て、それでも音楽を作り続ける理由
がんを患いながら、2つの映画音楽を制作した。ひとつは、休養前にオファーが来た山田洋次監督の『母と暮せば』。もうひとつは、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『レヴェナント:蘇えりし者』だ。
若い頃ですら、映画音楽は一つの作品をこなすのがやっとだった。それを同時に2本手がける。無理をすれば、命の保障はない。
しかし、イニャリトゥ監督は、当時『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』でアカデミー賞を受賞したばかり。作り手としての興味が勝った。今、最も才気あふれる監督から声がかかる。願ってもないチャンスだった。
「文字通り生きるか死ぬか。これで死んでもしょうがないんじゃないかって。死ぬ覚悟でやりました」
なぜ、これほど苦しみながら、音楽を作り続けるのだろう。 音楽は世界を救わないと言うのに。
「アウトプットなんてしなくてもいいんです。本来は。でも、しないと生活できないから......あんまり儲からないから変わらないけど」
また、笑いながら言う。お金のため?
少し、間を置いて続ける。
「根底にあるのは、インプットだけしていてもつまらないから」
「僕は絶対に不満なんです。何を聴いても。大好きなドビュッシーを聴こうが、バッハを聴こうが......満足できない。自分で作っても満足できない。常に不満だから、何か作ろうとする。満足しちゃったら先はないです」
坂本の根源にあるのは「新しい音」への渇望だ。それを探して、北極や森林、自宅......さまざまな場所の「音」を録音し、集めてきた。では、自分の中から「新しい音」が出てきたら?
「そういうときは興奮しますけどね。18歳くらいの時から、ピアノ......西洋の楽器でできることはやりつくされていると思っているから、『まだあった!』というのは、本当に驚きです。でも、その頻度はどんどん低くなってきている」
すでに先人がやりつくしている。18歳の坂本少年は、それを悟っていた。メロディを奏でる音楽は作曲家たちが作りきった。内部の弦を弾くような実験的な演奏はジョン・ケージら現代音楽家たちにやりつくされた。ピアノに新しさはなかった。
「無知は喜びじゃないですか。幸せだなって。たくさんいろんなことを知ってしまうと、喜びは少なくなりますから......でも、無知に基づいた喜びっていうのは果たして本当の喜びでしょうか?」
そう問いかける坂本は、知ることの喜びを求め続ける。知っても知っても、すべてを知りつくすことはないのだから。
『レヴェナント:蘇えりし者』の制作でも、初めて知るものがあった。それは、「挫折」だ。
これまで、坂本には、失敗の経験がほとんどなかった。しかし、闘病の直後にハードワークをこなせる体力は戻ってなかった。集中力が持たず、神経が衰弱する。納期は迫る。
生まれて初めて「クビにしてくれ」と思い、単独での楽曲制作を諦めた。「僕は自分に負けたんです」という。
「やっと一人前になった」
彼はまた、新しい音を手に入れたのかもしれない。これまで知らなかった挫折を知って。
津波をかぶった「ピアノの屍骸」
同じ時期に、坂本の心を捉えたものがある。一台のピアノだ。出会ったのは2012年、震災後の宮城だった。
津波に飲まれ、破壊されたピアノ。指を鍵盤に沈めると「自分の知っている音」は鳴らなかった。
出会った当初は、「ピアノの屍骸」だと思うほど、ショックを受けた。しかし、坂本は「津波によって生まれた音」に強く惹かれるようになり、この音色を新アルバムで使うことにした。それだけではなく、愛用してきたピアノの「調律」もやめてしまった。
「津波ピアノは地震と津波という自然の大きな力で、ある意味、破壊された存在です。ピアノ自体もともとは木でできていて、生きていて、自然とともに変化していくものなのに、大きな人工的な力で曲げられて作られたものです」
「それを、僕たち人間が『調律が狂ってきた』というのは、人間的な基準で言っているに過ぎない。モノとか自然の方から言えば元のカタチに戻ろうとしている力です。調律が狂うっていうのは」
「ピアノに対する限界っていうのは、今に始まったものではなくて、18歳ぐらいから感じていて。しょうがなく付き合っているようなものです。それからずっと......50年近く。もっとか。新しい音を探す現代音楽も、あくまで人間中心主義というか、前衛主義というか。知的な興味で描かれていたんですね」
「最初は、僕も知的な興味で津波ピアノに関心を持った。でも、今、津波ピアノから得た刺激は、前衛主義のものとはだいぶ違うもののような気がしているんです。もっと大きな意味での自然感......人間感というか。音楽に対する興味自体も、かつてのような前衛主義は......今、僕にはない」
かつては、前に進むことで見つけてきた「新しさ」だったが、「退行」する中にもそれはある。津波ピアノは、これまで感じた「新しさ」とは違った。
調律。それは自然の流れに沿って狂っていくものを正す作業だ。例えば、人間はどうだろうか。 調律しないと、ピアノのように人間もどんどん壊れていく。
「人間も自然に還っているからね」
津波ピアノは、坂本自身を投影する存在だ。
「津波ピアノと大災害と......大きな自然な力が及ぼしたものでした。それと、ぼく個人の病気。同じことなんだと強く感じました。津波ピアノで知ったことと、がんになって知ったことはすごく似ている」
「生老病死という言葉がある。味気ないですけど、生まれて老いて病気になって死ぬ。それは自然なこと。一方で人間のする、考えたり音楽を作ることは反自然的なことですね」
老い、体が動かなくなっていく過程は、普通にできていたことができなくなることを指す。苛立ち、落ち込み、途方に暮れたりもする。そんな姿を見ると「調律してあげたい」と思うのが人の性だ。
ピアノを調律しなくなった坂本は、どう考えるのだろう?
「台風や地震が起きるのも同じこと。これは自然が調律している自然のプロセス。人が死に向かうのは自然なこと。でも、それを見て、調律してあげたいと思うのも、人間として自然なこと」
「僕自身、すごく調律しました。自然に抗ってるなぁって思います。自然の流れだとわかっていても、あれが食べたいとか、音楽を作りたいとか。まだまだ、生きたいんだろうなぁ。意味はなくても生きたいって」
人間的欲求があったとしても、体は自由が効かなくなってくる。同じ時期にがんを患ったデヴィッド・ボウイは2016年に他界した。「多分、同じ病院にいたんだと思う」とも語っていた。
ピアノが弾けなくなる瞬間も、いつかは迎える。死の過程に恐怖を覚えることはないのだろうか?
「怖い。実際、指は......動かなくなってますよ。ピアノもどんどん下手になってきている」
ゆっくりと考えながら、それでもふわりとした答えを見つける。
「......でも、曲想が変わってきている。指が動かなくても成立する音楽になっているかもしれません。きっと、どんどん音が少なくなって、最後に1音になって消えていく......みたいな」
坂本が音楽を作り続けてしまうのは、自分の「新しさ」を発見できる喜びを知っているからだ。失うことだけがそこにあるのではない。
残される者は、その姿を見る時に胸を痛めずにはいられない。でも、死に向かう階段を降りるときですら、発見があり、喜びがある。坂本は、静かに笑みを浮かべて言う。
「このプロセスを楽しんでいる......のかもしれないですね」
軽やかに飛び出した「楽しむ」という言葉に、すがるように質問してきた私も、思わず笑ってしまった。
取材が終わったのは、日曜の夕方。坂本は、そのままスタジオへ向かう。「音楽に生命力を注ぎに行かなくちゃ」と言って。
【坂本龍一】音楽家。1952年東京生まれ。1978年『千のナイフ』でソロデビュー。同年『YMO』を結成。『戦場のメリークリスマス』で英国アカデミー賞、『ラストエンペラー』の音楽ではアカデミーオリジナル音楽作曲賞、グラミー賞他を受賞。2017年には、自身の音楽人生を追ったドキュメンタリー『Ryuichi Sakamoto:CODA』が公開。2018年5月25日にBlu-ray&DVDがリリースされる。同作品で制作背景を追った最新アルバム『async』は好評発売中(動画で使用した『Life,Life』も収録)。