こんにちは。
本日のブログテーマは「女子」。女性を敵に回すようなタイトルだけども僕、このいつ頃からか定着した「女子」って表現、虫唾が走るほどキライなんすよ。先日も昼食時に出向先の近くにある店で、どっかの女性社員が数人でテーブル席を囲み「女子会」がどうのこうのとかダべっていたのでその輪に加わり「20過ぎてる女性が自分を『女子』とか言ってるんじゃねぇよ。てめぇらの集まりはせいぜい、年増の井戸端会議だバカヤロウ!」と怒鳴ってやろうか?と思ったけれども、それは周囲から見たら単なる挙動不審者なので堪えました。
ことわっておきますが、別に女性蔑視的な視点でこんなことを言っているのではありません。単純にいい年こいた女性たちが自分たちを『女子』と呼ぶ風潮はおかしい。 というだけの話です。大人の女性が自らを「女子」、つまり「子ども」だと定義したがる心理の根底にあるのは『大人であることから逃げて、仕事や恋愛、結婚など自分に関する物事についての当事者になりたくない』『責任を負う大人になりたくない』っていうモラトリアム願望がどこかにあるからじゃないか?と僕は思っています。自分を女子と呼べるのは成人するまでか学生時代まで。それ以降はやっぱりみっともないと思うよ。
以前、この話を妹にふってみたら「それ、なんとなくだけど分かる」と頷いていました。そして間をおいて妹は「私は女子ではなくて女史でありたい」と、いいました。
女史…意味を辞書で調べてみると
「見識や教養が豊かで社会的に活動している女性」 とありました。
いいね。女子じゃなくて、女史。この言い方をぜひ僕も流行らせたい。うちの妹は女史を名乗るのに相応しいかといわれたらどうだろう?そんな偉そうなことをいうからには弛まぬ努力を続けているんのだろうたぶん。その「女史」たる態度を、兄にも見せてもらいたい。
女子の働き方 男性社会を自由に歩く「自分中心」の仕事術 [ 永田潤子 ]
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※この大人になりたくないという「主体放棄」は実をいうと男性にもあります。男性はそれを「国家」みたいなものに求め、自らとそれらを同一化して超越しようという他人任せな願望に逃げたがるので男の方がめんどくさいし困りもの。文筆家の古谷経衡さんは以下の記事でネット右翼の男女別構成比が男性75%、女性25%である、と指摘。
そういう意味で言うと、男性よりまだ自分以外の「何か」に逃げない女性の方が健全である。ともいえるけれど。