シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「中年の心の闇」がイマイチわからない

 



 
 ときどき、「中年の心の闇」について考えることがある。
 
 先だっても、タレントの誰それが未成年に犯罪行為に及んで書類送検された、というニュースが流れた。いっぱしの立場を獲得した中年が、ある日突然、大きく道を踏み外して回復不可能の傷を負う。その背景の心理や動機は、第三者にはさっぱりわからないことが多い。
 
 メディアでは、よく「青少年の心の闇」という言葉が語られるが、実のところ、「青少年の心の闇」を説明する理路は色々ある。
 
認められたい

認められたい

 たとえば、承認欲求や所属欲求が未成熟なままの青少年が、それらに振り回されて悲喜劇を招いてしまうパターン。つい先日、自転車の暴走運転の動画を公開してしまった人なども、その暴走運転を行い、ネットに動画を公開した動機として、承認欲求が占める割合は大きいだろう。若年者のネット炎上の典型例には、コントロールできていない承認欲求の存在がチラついている。
 
※なお、上掲『認められたい』が重版となりました。皆さんありがとうございます!
 
 また、もっと深刻な問題として、あれこれの精神疾患や家族病理が見出されることもままある。精神医学や心理学には、そういった病理を説明するための用語がたくさんあって、かなりのレアケースでさえ「その背景として○○障害があった」とフォルダ分けできることがある。その際、意外に無視できないのは知的障害だ。「青少年の心の闇」と称される出来事の背景として、軽度~中等度の知的障害が関連していることは珍しくない。ともあれ、「青少年の心の闇」を語るための用語は無数に用意されていると言っても良い。
 
 しかし、中年の場合はそうでもない。
 
 もちろん中年の乱心にも、精神医学や心理学の用語がしっくり来る事例はある。たとえば慢性精神疾患に罹っている人の犯罪などには、その背景として精神疾患の関与が読み取れることはある。ただ、中年ともなれば、そういう精神疾患の既往が明るみになっているので、識者も世間も、そういうものをいちいち「心の闇」などと呼んだりはしない。
 
 ところが中年のなかには、それまで順風満帆な人生を歩んできたはずなのに、唐突に身を持ち崩す人がいる。
 
 愛人。セクハラ。投資。自殺。失踪。殺人。
 
 富も名誉も手に入れた中年、家族円満で職場でも評価の高い中年が、突然に人生の滝壺に飛び込む。その人の来歴を考えるなら、リスクについて知らないはずはなく、知らなければとうの昔にドロップアウトしていたはずの人物が、40代や50代になって人生を棒に振るようなことをやってしまうのを見ると、私は「中年の心の闇だ!」と叫びたくなる。
 
 そうした中年も、ある程度までは精神医学や心理学の言葉でフォルダ分けできてしまうことがある。
 
 たとえば元々エネルギッシュに活動していた人が、同年齢で双極性障害(躁うつ病)を発病し、躁状態になって異常な行動を起こしてしまった……というのは精神科で見かける定番だ。精神科では定番だが、世間の実数はそれほど多くはないかもしれない。しかしエネルギッシュに活動している人は世間的には目立つので、このような人が躁状態になって人生の危険運転を始めると、多くの人が巻き込まれると同時に、多くの人の目に留まることにはなる。
 
 もうひとつ、中年期危機という言葉がある。この言葉は、中年期の社会的・生物学的変化を背景として、抑うつ、仕事や人生の急激な変化、アルコール等の増加、別離などに直面するものを指すが、行為にあらわれることのない、内心の動揺や変化を指していることもある。この言葉は全般にうすらぼんやりとしているため、「○○さんは中年期危機」と言っただけでは殆ど何も言っていないに等しい。中年期危機かどうかが問題なのでなく、どういう中年期危機が問題なのかを具体的に述べないとはじまらない。
 
 だから、中年発症の双極性障害のような「わかりやすい」ものでない限り、「中年の心の闇」はいつもわからない。
 
 

気を抜いたら無が迫ってくるのはわかる

 
 ただし、冒頭ツイートに書かれていた「でかい無」に相当するようなニヒリズムが、伏流水のように自分の足元を流れている予感はあり、「中年の心の闇」が他人事と思えない。中年は、習慣や惰性や立場によって思春期より安定したライフスタイルを構築しているようにみえるが、万物流転、諸行無常のならいのなかでは、しょせんは砂上の楼閣でしかない。
 
 ・命の儚さ。元気に活躍していた才気に溢れる人も、案外あっさり死んでしまう。そういうことを実感する機会が20代の頃より増えた。これから年を取るにつれて、その実感は増えることこそあれ、減ることは決してないのだろう。いずれは自分も死んで、おおむね無になってしまう未来が、少しずつ間近に迫ってくる。
 
 ・立場の儚さ。学歴・経歴・評判。そういったものを何十年も積み上げてきても、小さな選択ミスによって瓦解することが周囲の人生を見ていてわかってくる。それどころか、偶然や運命によって唐突に失ってしまうことさえある。それでも積み上げてきたものを守り続ける大人達の、背中を丸めた小市民性! イワシの群れのような膨大な数の小市民のなかの一人が倒れても、世間は微動だにしない。
 
 ・遠ざかる学生時代の記憶。20代の頃は学生時代と現在が隣接していてシームレスな感覚があった。ところが中年ともなると、自分の学生時代が遠い過去として思い出されて、当時と現在との間に30代の記憶が挟まるようになる。と同時に、昭和時代のことを知らない人がどんどん増えていく。ということは、自分が子どもだった頃に戦前の話をしていたおじさんやおばさんと、現在の自分とは、たぶん同じなのだ。自分という存在の少なからぬ部分が「過去」によって構成されていることを思い知る。
 
 ・習慣の代償と健康の喪失。メタボリックシンドロームのようなものであれ、飲酒喫煙のようなものであれ、ギャンブルやセックスや趣味のたぐいであれ、習慣的に続けてきたものの目に見えない負債が少しずつ露わになってくる。20代の頃は歯牙にもかけていなかった問題や、20代の頃の社会適応を助けていたはずの所作が、人生の借金取りから取り立てられはじめると気付く。習慣の修正は難しい、とりわけ、それまでの人生の助けになっていたものを修正するのは難しい。そうやって身から錆が出て来るが、割とどうしようもない。
 
 ・それでいて人生は終わらないし終えることもできない。儚い立場で身を固めることで、中年は思春期に比べれば安定した生産的な時間を過ごせるとはいえ、身を固めることによって、あるいは身が固まってしまうことによって、自分はもうこの人生を降りられないし、なるようにしかならないという諦念が脳裏にこびりついてもいる。思春期にあった実存の問題とはまた違った、マラソンランナーのように生きていくなかで、ふとした瞬間に感じる無意味さ。仕事や家族や趣味によって生かしてもらっているという恩恵と、生きていかざるを得ない・生きなければならないという重荷は、本当は紙一重で、その紙一重が狂うと中年の人生は転覆してしまいそうだ。
 
 
 こういったことを立ち止まって考えると、だいたい気が滅入る。中年の日常に実存を問い直す猶予は乏しいけれども、日常の隙間にふと考え直すと、真っ暗な一本道を習慣と惰性と立場をともしびに歩いているような、言い知れない不安に襲われることがある。ほんの少し道を踏み外して、ほんの少し歯車がズレたら、闇に呑まれて帰ってこれなくなってしまうだろう。
 
 こういう感覚は私だけのものなのか。それとも、平穏に暮らしているようにみえる他の中年の皆さんも普遍的に抱えているものなのか。「中年の心の闇」はイマイチわからないけれども、それはきっとすぐ傍に潜んでいて、こちらを凝視しているように思う。