2014年09月03日
『青春対話�』文学との語らい(忘備録)
絵画、音楽、文学の違い。これはもう長いこと思索してきた。
どうしてこうも先生は文学、ひいては本を読むことを重要視されているのか?
絵画、音楽、文学のどこが違うのか?
もの凄く気になりだして、その節(章)を読んで、とてもスッキリした。
友人の意見も耳にしてきたが、どうにも納得できずにきた。
すなわち――
絵画、音楽は「受け身」である。随他意であり、
文学は「捨て身」である。随自意である、ということ。
でもさ、絵だって音楽だって送り手になればそうじゃないんじゃない?
実際私は絵も描いてきたし、楽器も弾けば歌もうたってきたから、
捻くれてそう思索してみた。
でもやはり、先生の仰せの通りなんだなあ。
絵画や音楽も確かに思考はしている。
技術の点でね。それから直感をどう表現するかという点でね。
だがここには「思索」はないんですよ。
先生が強調されていたのは、あくまでも「思索」するという重要性なんですね。
絵画は「見る」もの、音楽は「聴く」もの、文学は「読む(考える)」ものだと。
見る、聴くに関しては、無意識でも出来るんですよ。
でも文学、すなわち読むということは、はっきりした自分の意志があって、
読むという行為行動がないと出来ないんですね。
ゆえに、文学が芸術の最高峰であると、先生は仰っている。
ただし、ここには重要な点がもうひとつある。
読んだことを「思索」せよ、と仰せだからだ。
読んだ、感動した、終り――では駄目。
この文章を書いたひとは何をどう考えたんだろか?
はて、その「心」は如何に?
この「心」を知ろうとし、何度もそういう行為・行動を積みかさねていくなかで、
人間の心の機微を知り、人間の心それじたいを知れるということだそうだ。
そうして鍛えられた美しい心をもつものが人間の王者だという事だ。
ふふふ、水面下で友人に、
これでもか! ってくらいスパルタンに語ってきたんですけどね、この点は。
でも良かったと思ってますよ。
ちゃんと自分の感想を文字にしなさい、感じたことと論理的に帰結させて言葉にできるようにしなさい、と。
その方は、今めきめきと力をつけていらっしゃる。
それがこちらにも伝わってくるこの喜び。
これぞ信心の、というか信心を軸にした人間交流であると、
私はその方に惜しみない感謝をしている。
昨日書いた「魂の振動」が相手に伝わっていくこの感覚。
これは凄いですよ。
体験しないとわかりませんでしょうけどね。
ともあれ、先生はやはり達観だ!
ほんと、その通りです。
それは、私自身が実践してきた結果からも言える。
「本を読む人は生き悩まない」という誰かの言葉もあるのだが、
これは事実だ。
活動(人《生命》《縁》に会っていくこと)?
もちろん、それは本を読むことの代替になりうる。
だが、これも同じだ。
合って話して活動している中で、
んーこの人の心はいったいどこへ向かっているんだろか?
ということを思索せずに対話していても無価値だという事だ。
大事なのは――
自分の中でその日その日に出会った事柄を「思索」しているかどうかだ。
無論、思索だけじゃいかんことは自明の理。
(ここ、私が一番苦しんでる部分)
でも、今出来ることをやるしかないじゃないのよ。
(言い訳くさく聞こえるんだろうけどね)
でも、僕ぁ太宰の言ってることが正しいと思う。
今を生ききるということは、すなわち、
永遠の未来と過去をも生きているんだから、それでいいんだ。
糞凡夫が未だ来ぬ時間を思いあぐねいて、
うろうろしてても仕方ないんだ。
未だ来ぬとは、「未来」である。
「案ずるより生むが安し」である。
ともあれ、文学は「何のため」にやるのか、はっきりくっきり納得できた。
これまで読んできた数十冊の本への視点も一瞬で一気に変わった。
大きく分けると、文章は文字と名前に分けられる。
こんなことは表面上のことであるが、
曼荼羅御本尊にしたためられているのは「名前」なんですよね。
御書にあるとおり、日本といえば、二つの島といくつだっけ? の群すべてのことを表せる。
だから名前を呼ぶことは、その人の全生命に呼びかけることと同じだ。
でも、文章はそうなってないもんなぁ……。
なのに文学が凄いってどうして?
長年、そうもう二年近く考えてきた問題だった。
けどわかった。
文章の中には様々な名詞というものがあるんだな。
その名詞の選び方にこそ、自分の心が現れるんだとわかった。
その究極が「詩」。
むろん、それだけじゃ読み手にも伝わらなければ意味はないし、書き手としても意を尽くせないから、
比喩や形容詞を駆使するということ。これが文章と詩の違い。
不思議な縁だが、
生れたときから悩み続けて生きてきたが、
結局文学に行き当たったということの意味はわかった。
その使命の重大性も、また道を誤ったときの危険性もよくわかった。
一時期は娯楽小説が読みたい衝動に悩まされもした、
でも最近は文学作品以外、読みたいと思わなくなった。
これも、面倒だなぁとか、今日は読むのよそうかなぁという怠惰と、
私自身が戦って勝ちとってきたものだ。
もう迷いはない。
随分時間がかかったが、完全に吹っ切れた。
どこぞのコメント欄にも書いておきましたが、
文学を読む意味は、
すなわち――
御書を深く読むためだそうだ。
大聖人のお心を深く知るためには絶対的に必要なのだそうだ。
最後にひとつ、脅しておきます(笑)
以下引用。
Q:本を読んで、今の僕たちにしかわからないことはあるのでしょうか?
A:そう。わからないことはあるんです。
年配になってからは、なかなかできない。目も悪くなるし、忙しくなる。読んでも内容を忘れてしまう。今はわからないだろうが、本当にそうなる。
何ごとにも「時」がある。若い時に読めば、脳に焼きつく。どこかに刻み込まれる。(後略)
そういうことですよ。
先生、今までで一番後悔されたことは何ですか?
若い頃に、思う存分本を読めなかったことです。
先生がそう言われた核心がね。
確かにその通りなんだな。
私自身、日に100ページは読むようにしているが、
どう頑張ってみても、若い頃のような感動というか、痺れてしまって、
ぼけーっとしてしまう瞬間とか、電車で乗り越してまで読んでいた、
あの感覚にはなれないんですよ。
ほんの一瞬、
(あ、俺いま本に惹きこまれてる……)
と感じる瞬間は極々稀れにあるんだけど、
それを意識した瞬間に、もうそういう「無私」になって読めている瞬間は去ってしまうんですよ。
だから、若い人たちに言いたい。
読めるうちに読んでおいて欲しいと。
これは本当に真実だし事実ですよ。
口を開けば「心」云々言っている人がいるが、
道理がある娑婆世界であることを忘れるべきではない。
比べる必要はない。絶対にない。
だが、「心」と「道理」という二極の中道を目指すことが、
仏法者としても理想であることは、言を俟たない。
遊ぶにしたって、活動するにしたって、恋愛するにしたって、何をするにしたって、
その自分の心を豊かにしておかなければ、楽しめないんですよ。
そういう心をつくるためにするのが文学を読む、ということだ。
活動も同じ。
アンチを見ればすぐに反応してコメント。
そんな卑屈な心を育てるために活動するなら、活動してる意味はありません!(キッパリ)
寛容の精神がどこにあるんだ?
どういう活動をしてきたか、そういうところで一目瞭然なんですよ。
話、脱線した。
ま、文章は書いてみてもいいと思いますけどね。
ふふふ、これは覚悟がいりますよー(笑)
まず読んで、人間の心を知っていないと、書けませんからね。
かくいう私も全然不十分。
ちょー自覚してます。
だから、いい歳したおっさんでも、
必死に読んで心を鍛えてるんですがね。
さて、愚痴いいます。
今日読んだ、「文学との語らい」の中では、
ヘッセの『シッダールタ』の一節を先生が紹介されている。
そこはまさに、私が衝撃を受けて、絶対に変わらない指針にしている部分だった。
嬉しかったなぁ、先生がそこを引用してくれていて。
こういうのをさ、師との心の交流って言うんじゃないの?
だから――
僕はここで何度も『シッダールタ』を読みなさいとも言ったし、
そこで培われた僕は変わらないとも言ってきた。
ま、理解者ゼロだけどね。
腹立たしさに紛れて言ってしまうが、
同じ本を読んで感想を交換しましょう、なんてもことも僕はしてきましたよ。
そこには、その作品にある「心」を共有・共感しあって、心の交流をしたいという、
まさに僕の心があったんですよ。
けど、
そうして本を送ってみても、読んだとも、何とも耳にしたことはわりと少ない。
ましてや感想を伝えてくれた人もまた少ない。
無論、ちゃーんと感想を伝え、これを切っ掛けにして、
こういうことに活かしていきます、とそう決意を披歴してくださった方もいた。
素晴らしいと思った。立派だと思った。
(言葉にすると軽薄ですけどね)
今は喧嘩して会話ひとつしませんが、
僕はその方のその時の真剣な「心」にうたれたし、感動しました。
だから、これからもそのとき感じた心は、一生忘れませんし、
今もそのことは心底感謝している。
あんな気持ちにならしてくれたこと、
あのとき感じたあの感動の縁になってくださったこと。
絶対に忘れませんよ。
かと思えば、借りた本をそのままにして威張っている人もいる。
「いつでもいいですよ」は、社交辞令ですからね。
ま、今さらどうでもいいですけどね。
読みたくなったらまた買いますから。
どちらにしても、僕は言葉なんて見てませんからね。
あくまでもやってることを見てきたんですよ。
言葉にも意を尽くしてきたつもりですがね。あくまでもつもり、ね。
あーあー……
自分が嫌だなぁ。
こうやって暴言を吐く自分。そして嫌われるw
ま、嫌われて、嫌われて、笑われて、笑われて、強くなるんだから、いいの。
でもさあ、そこから学んでもらえたら、僕は本望だったんだよなぁ。
(なに? 過去形なの? 淋しいねぇ自分)
僕だっていい加減なことばかりして生きてきた。
人のことをとやかく言えた筋合いじゃあない。
それもよくわかってますけどね。
怒ったら負け。負けなのよ。怒ったら負け組。怒んない怒んない。
そういう自分に、俺はなる!(ルフィー風)
決して怒りを返さず、だ!
どうしてこうも先生は文学、ひいては本を読むことを重要視されているのか?
絵画、音楽、文学のどこが違うのか?
もの凄く気になりだして、その節(章)を読んで、とてもスッキリした。
友人の意見も耳にしてきたが、どうにも納得できずにきた。
すなわち――
絵画、音楽は「受け身」である。随他意であり、
文学は「捨て身」である。随自意である、ということ。
でもさ、絵だって音楽だって送り手になればそうじゃないんじゃない?
実際私は絵も描いてきたし、楽器も弾けば歌もうたってきたから、
捻くれてそう思索してみた。
でもやはり、先生の仰せの通りなんだなあ。
絵画や音楽も確かに思考はしている。
技術の点でね。それから直感をどう表現するかという点でね。
だがここには「思索」はないんですよ。
先生が強調されていたのは、あくまでも「思索」するという重要性なんですね。
絵画は「見る」もの、音楽は「聴く」もの、文学は「読む(考える)」ものだと。
見る、聴くに関しては、無意識でも出来るんですよ。
でも文学、すなわち読むということは、はっきりした自分の意志があって、
読むという行為行動がないと出来ないんですね。
ゆえに、文学が芸術の最高峰であると、先生は仰っている。
ただし、ここには重要な点がもうひとつある。
読んだことを「思索」せよ、と仰せだからだ。
読んだ、感動した、終り――では駄目。
この文章を書いたひとは何をどう考えたんだろか?
はて、その「心」は如何に?
この「心」を知ろうとし、何度もそういう行為・行動を積みかさねていくなかで、
人間の心の機微を知り、人間の心それじたいを知れるということだそうだ。
そうして鍛えられた美しい心をもつものが人間の王者だという事だ。
ふふふ、水面下で友人に、
これでもか! ってくらいスパルタンに語ってきたんですけどね、この点は。
でも良かったと思ってますよ。
ちゃんと自分の感想を文字にしなさい、感じたことと論理的に帰結させて言葉にできるようにしなさい、と。
その方は、今めきめきと力をつけていらっしゃる。
それがこちらにも伝わってくるこの喜び。
これぞ信心の、というか信心を軸にした人間交流であると、
私はその方に惜しみない感謝をしている。
昨日書いた「魂の振動」が相手に伝わっていくこの感覚。
これは凄いですよ。
体験しないとわかりませんでしょうけどね。
ともあれ、先生はやはり達観だ!
ほんと、その通りです。
それは、私自身が実践してきた結果からも言える。
「本を読む人は生き悩まない」という誰かの言葉もあるのだが、
これは事実だ。
活動(人《生命》《縁》に会っていくこと)?
もちろん、それは本を読むことの代替になりうる。
だが、これも同じだ。
合って話して活動している中で、
んーこの人の心はいったいどこへ向かっているんだろか?
ということを思索せずに対話していても無価値だという事だ。
大事なのは――
自分の中でその日その日に出会った事柄を「思索」しているかどうかだ。
無論、思索だけじゃいかんことは自明の理。
(ここ、私が一番苦しんでる部分)
でも、今出来ることをやるしかないじゃないのよ。
(言い訳くさく聞こえるんだろうけどね)
でも、僕ぁ太宰の言ってることが正しいと思う。
今を生ききるということは、すなわち、
永遠の未来と過去をも生きているんだから、それでいいんだ。
糞凡夫が未だ来ぬ時間を思いあぐねいて、
うろうろしてても仕方ないんだ。
未だ来ぬとは、「未来」である。
「案ずるより生むが安し」である。
ともあれ、文学は「何のため」にやるのか、はっきりくっきり納得できた。
これまで読んできた数十冊の本への視点も一瞬で一気に変わった。
大きく分けると、文章は文字と名前に分けられる。
こんなことは表面上のことであるが、
曼荼羅御本尊にしたためられているのは「名前」なんですよね。
御書にあるとおり、日本といえば、二つの島といくつだっけ? の群すべてのことを表せる。
だから名前を呼ぶことは、その人の全生命に呼びかけることと同じだ。
でも、文章はそうなってないもんなぁ……。
なのに文学が凄いってどうして?
長年、そうもう二年近く考えてきた問題だった。
けどわかった。
文章の中には様々な名詞というものがあるんだな。
その名詞の選び方にこそ、自分の心が現れるんだとわかった。
その究極が「詩」。
むろん、それだけじゃ読み手にも伝わらなければ意味はないし、書き手としても意を尽くせないから、
比喩や形容詞を駆使するということ。これが文章と詩の違い。
不思議な縁だが、
生れたときから悩み続けて生きてきたが、
結局文学に行き当たったということの意味はわかった。
その使命の重大性も、また道を誤ったときの危険性もよくわかった。
一時期は娯楽小説が読みたい衝動に悩まされもした、
でも最近は文学作品以外、読みたいと思わなくなった。
これも、面倒だなぁとか、今日は読むのよそうかなぁという怠惰と、
私自身が戦って勝ちとってきたものだ。
もう迷いはない。
随分時間がかかったが、完全に吹っ切れた。
どこぞのコメント欄にも書いておきましたが、
文学を読む意味は、
すなわち――
御書を深く読むためだそうだ。
大聖人のお心を深く知るためには絶対的に必要なのだそうだ。
最後にひとつ、脅しておきます(笑)
以下引用。
Q:本を読んで、今の僕たちにしかわからないことはあるのでしょうか?
A:そう。わからないことはあるんです。
年配になってからは、なかなかできない。目も悪くなるし、忙しくなる。読んでも内容を忘れてしまう。今はわからないだろうが、本当にそうなる。
何ごとにも「時」がある。若い時に読めば、脳に焼きつく。どこかに刻み込まれる。(後略)
そういうことですよ。
先生、今までで一番後悔されたことは何ですか?
若い頃に、思う存分本を読めなかったことです。
先生がそう言われた核心がね。
確かにその通りなんだな。
私自身、日に100ページは読むようにしているが、
どう頑張ってみても、若い頃のような感動というか、痺れてしまって、
ぼけーっとしてしまう瞬間とか、電車で乗り越してまで読んでいた、
あの感覚にはなれないんですよ。
ほんの一瞬、
(あ、俺いま本に惹きこまれてる……)
と感じる瞬間は極々稀れにあるんだけど、
それを意識した瞬間に、もうそういう「無私」になって読めている瞬間は去ってしまうんですよ。
だから、若い人たちに言いたい。
読めるうちに読んでおいて欲しいと。
これは本当に真実だし事実ですよ。
口を開けば「心」云々言っている人がいるが、
道理がある娑婆世界であることを忘れるべきではない。
比べる必要はない。絶対にない。
だが、「心」と「道理」という二極の中道を目指すことが、
仏法者としても理想であることは、言を俟たない。
遊ぶにしたって、活動するにしたって、恋愛するにしたって、何をするにしたって、
その自分の心を豊かにしておかなければ、楽しめないんですよ。
そういう心をつくるためにするのが文学を読む、ということだ。
活動も同じ。
アンチを見ればすぐに反応してコメント。
そんな卑屈な心を育てるために活動するなら、活動してる意味はありません!(キッパリ)
寛容の精神がどこにあるんだ?
どういう活動をしてきたか、そういうところで一目瞭然なんですよ。
話、脱線した。
ま、文章は書いてみてもいいと思いますけどね。
ふふふ、これは覚悟がいりますよー(笑)
まず読んで、人間の心を知っていないと、書けませんからね。
かくいう私も全然不十分。
ちょー自覚してます。
だから、いい歳したおっさんでも、
必死に読んで心を鍛えてるんですがね。
さて、愚痴いいます。
今日読んだ、「文学との語らい」の中では、
ヘッセの『シッダールタ』の一節を先生が紹介されている。
そこはまさに、私が衝撃を受けて、絶対に変わらない指針にしている部分だった。
嬉しかったなぁ、先生がそこを引用してくれていて。
こういうのをさ、師との心の交流って言うんじゃないの?
だから――
僕はここで何度も『シッダールタ』を読みなさいとも言ったし、
そこで培われた僕は変わらないとも言ってきた。
ま、理解者ゼロだけどね。
腹立たしさに紛れて言ってしまうが、
同じ本を読んで感想を交換しましょう、なんてもことも僕はしてきましたよ。
そこには、その作品にある「心」を共有・共感しあって、心の交流をしたいという、
まさに僕の心があったんですよ。
けど、
そうして本を送ってみても、読んだとも、何とも耳にしたことはわりと少ない。
ましてや感想を伝えてくれた人もまた少ない。
無論、ちゃーんと感想を伝え、これを切っ掛けにして、
こういうことに活かしていきます、とそう決意を披歴してくださった方もいた。
素晴らしいと思った。立派だと思った。
(言葉にすると軽薄ですけどね)
今は喧嘩して会話ひとつしませんが、
僕はその方のその時の真剣な「心」にうたれたし、感動しました。
だから、これからもそのとき感じた心は、一生忘れませんし、
今もそのことは心底感謝している。
あんな気持ちにならしてくれたこと、
あのとき感じたあの感動の縁になってくださったこと。
絶対に忘れませんよ。
かと思えば、借りた本をそのままにして威張っている人もいる。
「いつでもいいですよ」は、社交辞令ですからね。
ま、今さらどうでもいいですけどね。
読みたくなったらまた買いますから。
どちらにしても、僕は言葉なんて見てませんからね。
あくまでもやってることを見てきたんですよ。
言葉にも意を尽くしてきたつもりですがね。あくまでもつもり、ね。
あーあー……
自分が嫌だなぁ。
こうやって暴言を吐く自分。そして嫌われるw
ま、嫌われて、嫌われて、笑われて、笑われて、強くなるんだから、いいの。
でもさあ、そこから学んでもらえたら、僕は本望だったんだよなぁ。
(なに? 過去形なの? 淋しいねぇ自分)
僕だっていい加減なことばかりして生きてきた。
人のことをとやかく言えた筋合いじゃあない。
それもよくわかってますけどね。
怒ったら負け。負けなのよ。怒ったら負け組。怒んない怒んない。
そういう自分に、俺はなる!(ルフィー風)
決して怒りを返さず、だ!