2014年09月01日
『青春対話�』歴史との語らい
三千年の歴史から
学ぶことを知らぬものは
知ることもなく
やみの中にいよ
その日その日を生きるとも
(ゲーテ)
これまではずっと「いま・ここ」が大切だと言ってばかりいたが、
やはりここにも相対観が必要だと思えた。
正しく「いま・ここ」を生きるためには、正しく「広大・無辺」を知らなければ、
いま自分がここで何をすべきは掴めないということ。
「いつか・あそこ」ではなく「広大・無辺」を知るために、
歴史を学べというのが師の教授されるものだろう。
自分自身を知り、人間自身を深く知るほど、歴史の実像が、ありありと見えてくるのです。それが「史観」であり、「史眼」です。
これは先に述べた、歴史を知ることを反対から行うとこうなるという意味。
すなわち、180度違った方向から同時に物を見なければ「真実」には到達できないということ。
大切なのは、「観」であり「眼」。
歴史を知ることが重要なのではなく、その知った歴史を自分がどう見るかということ。
すなわち、ものの見方の訓練に最適なのが、歴史を学ぶということだ。
観心というと、心でものを見るように思うのだろうが、
基本をしっかり学ぶことは大事ですが、もっと大事なのは、歴史を通して、「真実」を見きわめる眼を磨くことです。
先に思索した通りである。
「何のために」歴史を学ぶのか?
こんなことがあった。ほうほう面白い。それでは意味がない。
そこに、普遍的永遠生命の真実がどう表出しているのかという「真実」を探し、思索しなければ、
「論語読みの論語知らず」であるということ。
偏波に陥るな。ようはそういうことでしょう。
征服したものがあれば、必ず征服されたものがある。
そうした「両者」の視点を持てなければ「真実」は見えない。
あくまでも「対等」にものを見ることが大事である。
そう師は切々と訴えていた。
いうまでもなく、「全ての物事は相対的である」と私が言ってきた思いと、
これっぽちもズレはない。単純に嬉しいかぎりだ(笑)
集団的自衛権の問題にしても、
一面的に公明=絶対善的な論調ばかりになってはいけない。
そう考えて私はあえて悪者になって、
なーにを言ってやがると言ったことを理解しえた人は多分、皆無w
つまりね、意見が180度違っていて対立していようが、
その両者の心の奥底に「真に平和を求める心」があるのかが問題なんですよ。
その心こそが「真実」なわけですが、
それがわからない人は、お前の意見はおかしいとしか見ないわけです。
先生が仰っているのは、そういう公平(二方向)な視線を持ってものを見れば、
「真実」は見えるよということでしょう。
(以上、愚痴でした!ww)
学ぶことを知らぬものは
知ることもなく
やみの中にいよ
その日その日を生きるとも
(ゲーテ)
これまではずっと「いま・ここ」が大切だと言ってばかりいたが、
やはりここにも相対観が必要だと思えた。
正しく「いま・ここ」を生きるためには、正しく「広大・無辺」を知らなければ、
いま自分がここで何をすべきは掴めないということ。
「いつか・あそこ」ではなく「広大・無辺」を知るために、
歴史を学べというのが師の教授されるものだろう。
自分自身を知り、人間自身を深く知るほど、歴史の実像が、ありありと見えてくるのです。それが「史観」であり、「史眼」です。
これは先に述べた、歴史を知ることを反対から行うとこうなるという意味。
すなわち、180度違った方向から同時に物を見なければ「真実」には到達できないということ。
大切なのは、「観」であり「眼」。
歴史を知ることが重要なのではなく、その知った歴史を自分がどう見るかということ。
すなわち、ものの見方の訓練に最適なのが、歴史を学ぶということだ。
観心というと、心でものを見るように思うのだろうが、
基本をしっかり学ぶことは大事ですが、もっと大事なのは、歴史を通して、「真実」を見きわめる眼を磨くことです。
先に思索した通りである。
「何のために」歴史を学ぶのか?
こんなことがあった。ほうほう面白い。それでは意味がない。
そこに、普遍的永遠生命の真実がどう表出しているのかという「真実」を探し、思索しなければ、
「論語読みの論語知らず」であるということ。
偏波に陥るな。ようはそういうことでしょう。
征服したものがあれば、必ず征服されたものがある。
そうした「両者」の視点を持てなければ「真実」は見えない。
あくまでも「対等」にものを見ることが大事である。
そう師は切々と訴えていた。
いうまでもなく、「全ての物事は相対的である」と私が言ってきた思いと、
これっぽちもズレはない。単純に嬉しいかぎりだ(笑)
集団的自衛権の問題にしても、
一面的に公明=絶対善的な論調ばかりになってはいけない。
そう考えて私はあえて悪者になって、
なーにを言ってやがると言ったことを理解しえた人は多分、皆無w
つまりね、意見が180度違っていて対立していようが、
その両者の心の奥底に「真に平和を求める心」があるのかが問題なんですよ。
その心こそが「真実」なわけですが、
それがわからない人は、お前の意見はおかしいとしか見ないわけです。
先生が仰っているのは、そういう公平(二方向)な視線を持ってものを見れば、
「真実」は見えるよということでしょう。
(以上、愚痴でした!ww)