2014年09月02日
『青春対話�』芸術との語らい(上)
この章を読んだだけで、はっきりとわかることは、
先生は常に両側からものを語っているということ。
創造を語るとき、創造だけを語っていない。
創造の反対には破壊がある。
文化の反対には権力がある。
美の反対には醜悪がある、と。
これがお手本ですよね。
何かを語るという時の。
ヘッセもまたしかり。というか、ヘッセなんかは、
これを作品の中で徹底的にやっている。
そうした訓練が晩年のあの青春を失っていない、
可愛らしいおじいちゃんを創ったのだと思う。
「皆を喜ばせたい」が芸術の心。
その為に作り手がすべきことは、技術を駆使するのでなく、
心を尽くすということ。
太宰の言の通りだ。「心づくし」そうとしか言えないんだというあれですね。
基本は、音楽なら、まず無心に「聴く」ことです。
絵画なら、一心にまず「見る」ことです。
これが、受け手のあるべき姿勢ですね。
少々芸術をかじった人というのは、やはり技術に目がいってしまうものだが、
これは危ういことだと、私も常々反省させられる。
へったくそな小説だなあ……
なんだよこの書き出しは……
とかね^^;テヘ
でもある日突然そういうものも受け入れられるようになる。
そういう瞬間はありますよ。
分かりやすさがそれです。
確かに下手だし、工夫もしてないけど、
これは分かりやすいねという作品は、目を凝らすと結構あるんです。
絵を描いていた頃も、小説を書いていても、
必ず周囲の作品に対して不平不満はあったんです。
でも、ある瞬間になくなるんです。
ようは、そこまで持続すればいいということ。
その先には、さてでは自分はどういうスタイルでいくか、という問いが残っているだけです。
そこまでいくだけでも大変だと思いますよ。
経験則的に言ってね。
(偉そうでごめんなちゃいw)
芸術家である前に、人間であれ! と。この「人間としての」感動、希望、愛、戦慄が、作品を通して、こちらに伝わってくる。その「魂の振動」に、こちらの魂が揺さぶられる。それが芸術の体験です。
ようはこれ、人間としての自身の信仰の喜びを、感動、愛、戦慄を語るということと同じですよね。
芸術とは、それを絵画や音楽として表現しただけということ。
あくまでも根本は人間。それを見落として作品(言葉尻)だけを鑑賞することは、
外殻しか見ていないのと同じ。
表面上のつき合いしかしてないのと同じということだろう。
ともあれ、「体験を語る」こと以外で、
相手の魂を揺さぶることは出来ないのは、先生の言からはっきりわかることだ。
理屈はいらないんですよーだ。
(そういう私が理屈っぽいのは知っているw)
(どうしてこう否定的は書き方するんだろうね^^;テヘ)
ま、いいじゃあないか。
こうなっちゃいかん! そう自分に言い聞かせているだけだからね。
もちろん、こうなるんだ! という前向きな言葉のほうがいい事は確かだが、
しょせん、物事は二面的であるし、そういう視線を失わない自分であれば、
ノープロブレム! だ。
先生は常に両側からものを語っているということ。
創造を語るとき、創造だけを語っていない。
創造の反対には破壊がある。
文化の反対には権力がある。
美の反対には醜悪がある、と。
これがお手本ですよね。
何かを語るという時の。
ヘッセもまたしかり。というか、ヘッセなんかは、
これを作品の中で徹底的にやっている。
そうした訓練が晩年のあの青春を失っていない、
可愛らしいおじいちゃんを創ったのだと思う。
「皆を喜ばせたい」が芸術の心。
その為に作り手がすべきことは、技術を駆使するのでなく、
心を尽くすということ。
太宰の言の通りだ。「心づくし」そうとしか言えないんだというあれですね。
基本は、音楽なら、まず無心に「聴く」ことです。
絵画なら、一心にまず「見る」ことです。
これが、受け手のあるべき姿勢ですね。
少々芸術をかじった人というのは、やはり技術に目がいってしまうものだが、
これは危ういことだと、私も常々反省させられる。
へったくそな小説だなあ……
なんだよこの書き出しは……
とかね^^;テヘ
でもある日突然そういうものも受け入れられるようになる。
そういう瞬間はありますよ。
分かりやすさがそれです。
確かに下手だし、工夫もしてないけど、
これは分かりやすいねという作品は、目を凝らすと結構あるんです。
絵を描いていた頃も、小説を書いていても、
必ず周囲の作品に対して不平不満はあったんです。
でも、ある瞬間になくなるんです。
ようは、そこまで持続すればいいということ。
その先には、さてでは自分はどういうスタイルでいくか、という問いが残っているだけです。
そこまでいくだけでも大変だと思いますよ。
経験則的に言ってね。
(偉そうでごめんなちゃいw)
芸術家である前に、人間であれ! と。この「人間としての」感動、希望、愛、戦慄が、作品を通して、こちらに伝わってくる。その「魂の振動」に、こちらの魂が揺さぶられる。それが芸術の体験です。
ようはこれ、人間としての自身の信仰の喜びを、感動、愛、戦慄を語るということと同じですよね。
芸術とは、それを絵画や音楽として表現しただけということ。
あくまでも根本は人間。それを見落として作品(言葉尻)だけを鑑賞することは、
外殻しか見ていないのと同じ。
表面上のつき合いしかしてないのと同じということだろう。
ともあれ、「体験を語る」こと以外で、
相手の魂を揺さぶることは出来ないのは、先生の言からはっきりわかることだ。
理屈はいらないんですよーだ。
(そういう私が理屈っぽいのは知っているw)
(どうしてこう否定的は書き方するんだろうね^^;テヘ)
ま、いいじゃあないか。
こうなっちゃいかん! そう自分に言い聞かせているだけだからね。
もちろん、こうなるんだ! という前向きな言葉のほうがいい事は確かだが、
しょせん、物事は二面的であるし、そういう視線を失わない自分であれば、
ノープロブレム! だ。