2016年07月08日
『今日より明日へ〔11〕』より
日興上人は「師弟の道」の重要性について、次のように厳しく仰せである。
「このほうもん(法門)は、しでし(師弟子)を正してほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候なり」――この(大聖人の)法門は、師弟の節目を正し、師弟不二の信仰に立って成仏していく法門である。師弟の道を少しでも誤ってしまったなら、同じく法華経をたもっていても、無間地獄に堕ちてしまうのである――と。
これは日興上人が、遠く佐渡の門下へ与えられたお手紙の一節である。日蓮大聖人、日興上人という師弟の節目を正しく拝し 、日興上人の弟子である、日満阿闍梨を中心に団結していくことを教えられている。
日興上人が明確に仰せのごとく、師弟の道こそ大聖人の仏法の根幹である。
この正道をわずかでもはずれたならば、たとえ御本尊をたもっていたとしても絶対に成仏できない。
〔池田大作 昭和63年(1988年) 5月3日 5・3創価学会の日記念式典 於:創価大学中央体育館〕
わたしだって人間です。電話で話していて「あれ俺、いってはならないことを言ってしまったのではないか?」と自省することだってある。
ですが、これが不思議なのだが、きちんと正信でもって唱題していると、そうして抱いた不安や疑問を解決する答えが、目も前にバーンとあらわれるんですね。これはもうね、不思議としかいいようがない。
わたしは、そんな風にして、自分の信心の姿勢にズレがないかを、自分で確認している。
ある人曰く。
「先生は原田会長を中心に団結していきなさいと言ってるじゃないか!」
このようなことを言われて、わたしはある人が、今の執行部が正しい節目の「師弟の道」を歩んでいると思い込んでいると感じた。そして、その思い込みはわたしとの対話くらいでは、ほぼ不可能に近いくらい崩せないと見ている。
しかしだからといって、見て見ぬ振りはしない。
なぜかなら、そんな状態で信心をしていたなら、ある人は損をするからだ。
先生の指導に明確ですよね。
絶対に成仏できない
そう仰せなんですよ。
見て見ぬふりなんて出来るわけがないでしょ。
そりゃね、今のわたしに出来ることはわずか。ここで記事にすることぐらいですけどね。
だから、今こうしてタイプをしているというわけです。
明々白々ですよね、先生の言葉に。
日蓮大聖人、日興上人という師弟の節目を正しく拝し、日興上人の弟子である、日満阿闍梨を中心に団結していくことを教えられている。
先生はただ単純に原田会長を中心に団結しろなんて仰ってません。
日蓮大聖人と日興上人という間違いのない師弟の道という明鏡に照らして、師弟の道(誰を中心に団結していくか)を見極めていきなさいと、はっきりくっきり、明確に、明々白々に仰っていますよね。
そういうことです。
『今日より明日へ』の中では、このあと、師弟の道を踏み外す原因がなにかもご教授くださっています。
傲慢です。余念だそうです。
余念とは、信心指導を受けている最中に、よそ見をしたりするようなことだと教えてくださっています。
つまり、師の教えを聞くより、自分のしたいことを優先する傲慢さが、結果「よそ見」となって現れたという例を引いてくださっているわけです。
簡単にいえば「真剣」であるかどうかということになりましょう。
この余念の挿話は、日興上人の講義中、落ち葉に気を取られて(12年間)破門された、日尊の実話に基づいているそうです。
破門された日尊は、日々に日興上人に赦しを請うため、重須にある御影堂を何度も訪れ敬礼したそうだが、日興上人は決して許さなかったのだそうだ。
しかし、地べたに座って敬礼する日尊に茣蓙を出してあげたりと、人間としての憐れみも決して忘れなかったのだそうだ。
これほど「師弟の道」というのは、峻厳でありかつ厳格なのだ。
先生が仰った「原田会長を中心に――」というその先生の本意すら知ろうとせず、学ぼうとせず、身勝手な解釈や文上の読み方だけで突っ走るのは、妄信である。
また、先生の指導を身勝手に解釈して思い込み、それを人に押しつけるのは傲慢であると言わざるを得ないし、自分はもとより、他者をも無間地獄へと誘う大謗法であると断言する。
そもそも、長い信心経験の人であれば、
「池田先生のあとは、会員個々人が一人立つ精神で進まなければいけない時代になる」
といった指導はまず耳にしてきたはずである。
わたしの師匠は原田会長でもなければ、執行部でもない。ましてや、宗教団体でさえない公明党であるわけがない!
自分と創価学会という関係性において、究極的には、わが師は、池田大作名誉会長だけである。
自分と信心という関係性においては、わが師は、南無妙法蓮華経と日蓮大聖人であることは言うまでもない。
もちろん、我以外皆師であることも、忘れてはいない。
ようは、すべての物事から学んでいくんだという、「楽観的視点」をわたしは育てていきたいと決めているだけだ。
「我以外皆師」は、作家・吉川英治の言葉である。
「このほうもん(法門)は、しでし(師弟子)を正してほとけになり候。しでしだにもちがい候へば、おなじほくゑ(法華)をたもちまいらせて候へども、むげんぢごくにおち候なり」――この(大聖人の)法門は、師弟の節目を正し、師弟不二の信仰に立って成仏していく法門である。師弟の道を少しでも誤ってしまったなら、同じく法華経をたもっていても、無間地獄に堕ちてしまうのである――と。
これは日興上人が、遠く佐渡の門下へ与えられたお手紙の一節である。
日興上人が明確に仰せのごとく、師弟の道こそ大聖人の仏法の根幹である。
この正道をわずかでもはずれたならば、たとえ御本尊をたもっていたとしても絶対に成仏できない。
〔池田大作 昭和63年(1988年) 5月3日 5・3創価学会の日記念式典 於:創価大学中央体育館〕
わたしだって人間です。電話で話していて「あれ俺、いってはならないことを言ってしまったのではないか?」と自省することだってある。
ですが、これが不思議なのだが、きちんと正信でもって唱題していると、そうして抱いた不安や疑問を解決する答えが、目も前にバーンとあらわれるんですね。これはもうね、不思議としかいいようがない。
わたしは、そんな風にして、自分の信心の姿勢にズレがないかを、自分で確認している。
ある人曰く。
「先生は原田会長を中心に団結していきなさいと言ってるじゃないか!」
このようなことを言われて、わたしはある人が、今の執行部が正しい節目の「師弟の道」を歩んでいると思い込んでいると感じた。そして、その思い込みはわたしとの対話くらいでは、ほぼ不可能に近いくらい崩せないと見ている。
しかしだからといって、見て見ぬ振りはしない。
なぜかなら、そんな状態で信心をしていたなら、ある人は損をするからだ。
先生の指導に明確ですよね。
絶対に成仏できない
そう仰せなんですよ。
見て見ぬふりなんて出来るわけがないでしょ。
そりゃね、今のわたしに出来ることはわずか。ここで記事にすることぐらいですけどね。
だから、今こうしてタイプをしているというわけです。
明々白々ですよね、先生の言葉に。
日蓮大聖人、日興上人という師弟の節目を正しく拝し、日興上人の弟子である、日満阿闍梨を中心に団結していくことを教えられている。
先生はただ単純に原田会長を中心に団結しろなんて仰ってません。
日蓮大聖人と日興上人という間違いのない師弟の道という明鏡に照らして、師弟の道(誰を中心に団結していくか)を見極めていきなさいと、はっきりくっきり、明確に、明々白々に仰っていますよね。
そういうことです。
『今日より明日へ』の中では、このあと、師弟の道を踏み外す原因がなにかもご教授くださっています。
傲慢です。余念だそうです。
余念とは、信心指導を受けている最中に、よそ見をしたりするようなことだと教えてくださっています。
つまり、師の教えを聞くより、自分のしたいことを優先する傲慢さが、結果「よそ見」となって現れたという例を引いてくださっているわけです。
簡単にいえば「真剣」であるかどうかということになりましょう。
この余念の挿話は、日興上人の講義中、落ち葉に気を取られて(12年間)破門された、日尊の実話に基づいているそうです。
破門された日尊は、日々に日興上人に赦しを請うため、重須にある御影堂を何度も訪れ敬礼したそうだが、日興上人は決して許さなかったのだそうだ。
しかし、地べたに座って敬礼する日尊に茣蓙を出してあげたりと、人間としての憐れみも決して忘れなかったのだそうだ。
これほど「師弟の道」というのは、峻厳でありかつ厳格なのだ。
先生が仰った「原田会長を中心に――」というその先生の本意すら知ろうとせず、学ぼうとせず、身勝手な解釈や文上の読み方だけで突っ走るのは、妄信である。
また、先生の指導を身勝手に解釈して思い込み、それを人に押しつけるのは傲慢であると言わざるを得ないし、自分はもとより、他者をも無間地獄へと誘う大謗法であると断言する。
そもそも、長い信心経験の人であれば、
「池田先生のあとは、会員個々人が一人立つ精神で進まなければいけない時代になる」
といった指導はまず耳にしてきたはずである。
わたしの師匠は原田会長でもなければ、執行部でもない。ましてや、宗教団体でさえない公明党であるわけがない!
自分と創価学会という関係性において、究極的には、わが師は、池田大作名誉会長だけである。
自分と信心という関係性においては、わが師は、南無妙法蓮華経と日蓮大聖人であることは言うまでもない。
もちろん、我以外皆師であることも、忘れてはいない。
ようは、すべての物事から学んでいくんだという、「楽観的視点」をわたしは育てていきたいと決めているだけだ。
「我以外皆師」は、作家・吉川英治の言葉である。