2016年09月24日

『今日より明日へ〔20〕』からの抜き書き(5)

・昭和63年(1988年) 11月11日
・文京・北・板橋・記念合同支部長会(東京)
・創価文化会館


11・18を記念するスピーチといっていいだろう。
要約すれば、先生は御書『御義口伝』にある成仏のために法華経に説かれた、ふたつの究極の目的である「煩悩即菩提」「生死即涅槃」について話されているといっていいだろう。

前半部分はこのふたつの究極の目的をどのように実践・行動としていくかの実例として、終末医療(ターミナルケア)のお話をされている。無論、終末医療という行為(「生死即涅槃」)の中に「煩悩即菩提」とはこういったものだということも含めて、わかりやすく話してくださっている。

ゆえに、非常に重大なことを話されているスピーチといって過言はない。正しい信心をしたい。そう思うのであれば、必ず拝しておくべきスピーチといっていいだろう。

内容はそれなりのボリュームがあるので、わたしごときが一部抜き書きしながら語れる内容ではないこともご理解願いたい。


人生における一大事とは何か?

自身の「死」を見つめ、それに対峙できるのは、ただ自分だけである。「死」は、決してごまかしのきかぬ人生の総決算であり、赤裸々な「一生」の証である。

人間、愚かなものである。死について考えれば、多かれ少なかれ人々は、「それは孤独なこと」と思うことはできる。では「生」は違うというのか? ここに勘違いや思い込みがあるのだ、という指導が今スピーチの中で、わたしが一番に感じ入ったところである。

考えてみればそのとおりである。わたし自身、人というものは絶対的に孤独な存在であるといってきた。また「今ここを生きるしかない」とも叫んできた――特にこれは自分自身への叫びでもあった――。しかしまだまだ確信が足りていなかったのだと、深く反省させられたのだ。

どういうわけか、わたしは昔から一匹狼的生き方を好み、群れることを嫌ってきた。
人によっては群れているその場その場は楽しい、あるいは励ましあえていると思うのだろうが、わたしはあまりそういうことを思ったことはない。

その理由を説明しなければならないのだが、その前に、今回のスピーチが江川 晴『外科東病棟』という新聞掲載小説を引用されていることを話しておきたい。
『外科東病棟』は終末医療に携わることになった看護婦・亜沙子の視点で描かれている作品だそうだ。

医師とは違った立場でものを見ることで「生と死」、とくに死んでいく患者へのありかたを問うたものとなっているそうだ。


死んでいく人に必要なものはなにか?

それは「希望」であり「確信」である。そして、励ましとともに、具体的な「目標」を持てるよう配慮していくことが、どれほど大きな力を引き出すことになるか。

当然といえば当然といえよう。例え死んでいくとしても、人間には希望が必要なのだ。
しかし、「希望」「確信」「目標」といっても、いかにも曖昧なように思えることだろう。
しかし先生はそうした曖昧さを具体性に変えるものがあると話されている。

“納得”――いかなる場合でも、これこそが力である。納得は確信を与え、独断は不安と不信を与える。納得は心の交流を生み、押しつけは互いの心を遮断させる。納得すれば、人は自ら行動を起こし、工夫を始める。たとえ正しいことでも、納得できない限り、やる気も出ないし、能力も十分発揮できない。

これもまた深く肯けるものではないだろうか。
ここで話が前に戻るが、そう、わたしが群れたがらないのには、そういう理由があるのです。
その場その場しのぎで承認しあい、その場その場しのぎのような励ましを送りあう。さて、そうしたことに自分は納得できるのだろうか? 否なのである。

わたしが納得できるのは、誰かにいわれたからでもなく、誰かに承認されたからでもなく、自分自身で納得し、自分で自分を受け入れたときだけなのだ。当たりまえといえば当たりまえのことだといって過言はないだろう。

つまりは、死にゆく身であっても「納得して残された生を全うしたい」というのが人間であるなら、いわんや、生きていくことそれ自体も「今日一日を納得して過ごせたのか!?」を決めるのは、誰でもなく、自分自身であることなど、理の当然といえよう。

だが、人間とは愚かなものである。他人の視線や他人からの評価、えてしてそうしたものを気にする人が多いのも事実であろう。下手をすれば、自分で納得することより、他人の評価こそ重要であるといった「他人の人生」を生きている人さえいるのが事実だろう。

もちろん、最終的には実存主義という視点――すべては関係性によって成り立っている点――からいっても、他人に評価されてナンボのものという視点は必要だが、それはあくまでも、自分が“納得”できた過程を歩んだ結果にすぎないということは、忘れるべきではないだろう。


さて、話を終末医療に戻そう。
ここのとろこ河合隼雄・柳田邦男の本を読んで、実はこのことを随分と再考させられた。再考というのは、わたし自身、母をホスピスで看取ってきた経験があるだけに、理論以前に体験として知ってきたつもりはあるからだ。

そこで、世間一般の人は終末医療にどの程度の関心を持っているのだろうか? と思い、わたしなりに調べてみたところ、愕然としたのである。
例えば、河合・柳田の対談に登場する、終末看護(医療と呼ばれる前の先駆的なもの)の道を開いた、キューブラー・ロスシンリー・ソンダースの本が読書メーターでいかほど読まれているかを調べてみたところ、さほどでもなかったのだ。

また、このお二人以外の終末医療に関する著作への興味といったら、恐らくわたしのように、実際に家族を終末医療で看取った人たちがこのくらいの数かなと思えるほどの読者しか見あたらなかったのだから。

死を真剣に考えることでしか、死生観など養えるはずがない。いわんや死を見ずに、いかに生きるべきか? を考えたところで、そんなことは不毛な部分観でしかないこと――いわば硬貨の表だけ見て裏を見ずに、私はこの硬貨のことをよく知っているとうそぶくようなもの――など、自明の理であるはずなのに、こういう世間なのか……と、わたしは愕然としたのだ。不毛な部分観しかもたぬ人たちが、よりよく生きられる世界を作ろうとしていることに、その傲慢さに愕然としたのだ。

そうした不毛な部分観を嘆くかのように、先生はこう述べている。

最も重要なことは、このような種々の条件(ガン告知や治療方針の話し合い)を考慮するにあたって、医師や看護婦自身が、人間の生と死をどのようにとらえているのかという生死観、倫理観等がかかわってくることである。ゆえに医療関係者は、日々の診断のなかで、患者の死を自分自身の死としてひきうけ、死に直面する患者とともに悩み、苦しみつつ、そこから希望と安穏の臨終を勝ちとらせるため必死の努力が要請される。そして医師や看護師の死生観の基盤にこそ宗教、特に仏法の明示する死生観、死後観が、重要な役割を果たすものと思われるのである。


よりよく死にゆくための医療においてこうであるなら、これはそのまま「日々によりよく生きる」ことにもあてはまることであることは、もはやわたしなどがいうまでもないであろう。

看護婦、亜沙子は云った――
「二度とない今を、おろそかに生きてはならないんだと……。何事も一期一会だと……」


(薬王菩薩の説話にある)「所詮焼身焼臂」とは焼は照の義なり照は智慧の義なり智能く煩悩の身生死のひじを焼くなり」(御書801ページ)
――所詮、経文に「身を焼き臂を焼く」とあるのは、焼は照の義であり、照とは、真理を明らかに照らし出す智慧を意味する。薬王の焼いた身とは煩悩であり、臂とは生死である。すなわち、妙法の智慧の火をもって焼き、煩悩即菩提・生死即涅槃と転ずるのである――と。




この曲の歌詞、とても深いです。

自分が生きることで、人を生かすということを知っているからこそ、
自分が生きることで、相手を殺すことの意味がわかるんだと……。
(殺すといっても、命を奪うとかそういう意味ではない。あえて苦言を呈するとか諌言していくという意味あいであろう。わかりやすくいえば、「悪を責める」という意味になろう)

つまり、誰かに「死ぬのはお前だ(悪いのはお前のその行為だ!)」とかいわれるのは、娑婆世界というものはそういうことを当たり前にいわれる過酷で冷淡な世界であるということを知れたなら、自ら悪事を認識してそれを是正・転換して正しく生きることが本当の生なのだとわかってくるはずなのだが……ということらしい――。

信心も、同じである。正法を受持したからといって、何から何まで楽しく、順調にうまくいくことなどありえない。
むしろ、正法ゆえに、三障四魔が競い起るのであり、困難と苦渋の道を勇んで進んでいってこそ、真実の歓喜、充実があることは、皆さまもご存知の通りである。



自分と気のあう、楽しい時間が過ごせる人とだけ関わり、自分に厳しいことをいう人を遠ざける。
そういうおかしな信心をしない自分でありたいと思う。

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