見えている世界が違うのは田舎という場所の問題なのか

こんな記事が拡散されていたのですが、あまりにも偏った視点で書かれた記事で賛同できない。
「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由

これは私が筆者と同じ釧路市出身で、両親は裕福ではなく、知り合いの親戚に大卒は1人もいなかった、ということから批判する権利があるだろう。

もっと人口が少ない田舎であればそうかもしれないが、釧路程度の都市で「教育や文化に触れる機会がない」というのはその個人の問題だ。
私は著者よりも10年近く前に生まれているが、私がいた当時でさえ美術館もあったし文化的イベントもあったし、大型書店もあって本には苦労しなかった(インターネットもアマゾンもなかった時代だ)。

私は高校卒業後、浪人せずに医学部に入っているので、教育は釧路市内でしか受けたことはない。
高校の授業と本屋で買った参考書と市内の塾だけで国立大の医学部に進学できているし、私の同級生も同じような教育環境で半分以上が大学に進学している(東大も、医学部も複数いる)。
両親の年収は平均以下だったので、大学に行かせるのは苦労したと思うが、親から大学に行けと言われて行ったわけではない。

札幌や関東に出て、確かに自分の学力が大したことはなかったんだなと実感することはあったが、社会に出てからはそんなことも大した問題ではなくなった。
むしろ、釧路では海と語る、漁師の生活を身近で見る、またロシア人やアイヌ人がまちにいるので、そういった方々との交流など、関東ではできない体験や文化的交流もあった。

しかしそれも、受け身の状態で自然と触れるのではなく、自ら興味をもって触れに行ったという結果。
受け身で過ごしていれば、確かに教育や文化に触れる機会は少なかったかもしれないが、それは果たして「田舎」という問題なのかは考えた方がいい。都会では受け身で過ごしているだけで、自動的に高度な教育や文化が享受できるとでもいうのだろうか。

かといって貧富の問題だけに帰結させるのもどうかと思うが、個人的には問題は別のところにあるのではないかと思う。
筆者と私が過ごしてきた世界は、同じ釧路にあっても別のものなのかもしれない。
だとしたら、田舎か都会かというのは問題を単純化しすぎで、
「同じ地域で学生時代を過ごしているのに見えてる世界が違うのはなぜか」
という問題を考察した方がいい。

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