和田さんが「どうしても今日観に行ってください!」と言ってきたので、観に行った。
だからこのエントリーが炎上したら彼のせいだ。
キービジュからして嫌な予感がしたのだ。
何だ?あのモヤモヤした、三途の川渡ったような画調は?
あの厭世観は?
結論から言うが、山田尚子の仕事としては最低の映画だ。
なんかもう、やる気がないというか、ちょっと、病んでるんじゃないの?と思うくらいだ。
映画で愚痴を聞かされているように感じた。
作品は正直に表現すべきだ、とは『聲の形』で述べた。
しかし、大前提として、作品は観客に向かって作られるべきものだ。
「私、なんでこれやってるんだろ・・・?」とか、そんな正直さは、要らない。
もう彼女と会うこともなさそうだから言おう。彼女が演出になり立ての頃の話だ。
どこかで彼女が嬉々として、「私、こんな映画を作りたいんです!」と、一本のDVDを見せた。
『エコール(原題:イノセンス)』という映画だった。
僕は偶然、その映画を観ていた。
ドン引きした。
まぁ言わば、混じり気のない、純度100%のロリペド映画だ。
それ以外何の要素も見当たらない。
今回、彼女は満を持して自分の「悲願」に取り組んだのか?
いや、それすら感じない。
僕は登場人物が、みんな自殺するんじゃないか?とすら思えてしまった。
それくらい出てくる少女も、指揮をしている顧問も、生気がない。
音楽の歓びが、ここには微塵もない。
作った彼女(達)は「匂い立つような」もの意図したらしいが、匂うどころじゃない。
何の質感も感じられない。
アニメーション表現の限界を見た。
実写映画なら、こういう抑制的な表現でも、役者の一挙手一投足がいろんなニュアンスを醸し出すのだろう。
そういうのを僕は、自分の現場で川島海荷や清水富美加などの少女達から学んだ。
しかしアニメは所詮「絵にかいた餅」だ。
生気を失った絵は、何も訴えかけてこない。
アニメが「アニマ」、すなわち魂を獲得するには、過剰な程の生(性)へのこだわりが必要なのだ。
彼女が遂に「実写」の奥深い表現に挑戦したのか?
全然そうは見えない。
彼女は、諦めたのだ。
『聲の形』までは、救われたい、赦されたいという気持ちを隠すことなく訴えかけていたが、この作品では、もはやそのモチベーションまでなくなってしまったのだろう。
「私、なんでアニメやってるんだろう?」
そんな厭世観、諦観ばかりを感じ取ってしまった。
非常に不愉快だ。
良くバカ供が「言いたいことは作品の中で言え!」とかトチ狂ったことを言うが、無理なのだ。
ていうか、してはならないのだ。
表現である以上、そしてそれでお金をもらう以上、観客に何かを「伝え」なければならないのだ。
持ち帰ってもらわらないといけないのだ。
この作品は、それすらを諦めた、それを拒絶した映画だと言えるだろう。
どうせ解ってくれないんだ、私の趣味は理解してくれないんだ、そんな愚痴ばかりがカットの端々から聞こえてきた。
そんなにアニメが嫌なら辞めてしまえ。
それと、作品で愚痴るのだけは止めろ。
それだけ言っておきたい。
そして困ったらまた足ばかり映していた。
あれだけは止めた方がいい。
ずっと下を向いて、俯いて生きていてはいけない。それを共感させようなんてもってのほかだ。
アニメって、なんて惨めなんだろう?
だからこのエントリーが炎上したら彼のせいだ。
キービジュからして嫌な予感がしたのだ。
何だ?あのモヤモヤした、三途の川渡ったような画調は?
あの厭世観は?
結論から言うが、山田尚子の仕事としては最低の映画だ。
なんかもう、やる気がないというか、ちょっと、病んでるんじゃないの?と思うくらいだ。
映画で愚痴を聞かされているように感じた。
作品は正直に表現すべきだ、とは『聲の形』で述べた。
しかし、大前提として、作品は観客に向かって作られるべきものだ。
「私、なんでこれやってるんだろ・・・?」とか、そんな正直さは、要らない。
もう彼女と会うこともなさそうだから言おう。彼女が演出になり立ての頃の話だ。
どこかで彼女が嬉々として、「私、こんな映画を作りたいんです!」と、一本のDVDを見せた。
『エコール(原題:イノセンス)』という映画だった。
僕は偶然、その映画を観ていた。
ドン引きした。
まぁ言わば、混じり気のない、純度100%のロリペド映画だ。
それ以外何の要素も見当たらない。
今回、彼女は満を持して自分の「悲願」に取り組んだのか?
いや、それすら感じない。
僕は登場人物が、みんな自殺するんじゃないか?とすら思えてしまった。
それくらい出てくる少女も、指揮をしている顧問も、生気がない。
音楽の歓びが、ここには微塵もない。
作った彼女(達)は「匂い立つような」もの意図したらしいが、匂うどころじゃない。
何の質感も感じられない。
アニメーション表現の限界を見た。
実写映画なら、こういう抑制的な表現でも、役者の一挙手一投足がいろんなニュアンスを醸し出すのだろう。
そういうのを僕は、自分の現場で川島海荷や清水富美加などの少女達から学んだ。
しかしアニメは所詮「絵にかいた餅」だ。
生気を失った絵は、何も訴えかけてこない。
アニメが「アニマ」、すなわち魂を獲得するには、過剰な程の生(性)へのこだわりが必要なのだ。
彼女が遂に「実写」の奥深い表現に挑戦したのか?
全然そうは見えない。
彼女は、諦めたのだ。
『聲の形』までは、救われたい、赦されたいという気持ちを隠すことなく訴えかけていたが、この作品では、もはやそのモチベーションまでなくなってしまったのだろう。
「私、なんでアニメやってるんだろう?」
そんな厭世観、諦観ばかりを感じ取ってしまった。
非常に不愉快だ。
良くバカ供が「言いたいことは作品の中で言え!」とかトチ狂ったことを言うが、無理なのだ。
ていうか、してはならないのだ。
表現である以上、そしてそれでお金をもらう以上、観客に何かを「伝え」なければならないのだ。
持ち帰ってもらわらないといけないのだ。
この作品は、それすらを諦めた、それを拒絶した映画だと言えるだろう。
どうせ解ってくれないんだ、私の趣味は理解してくれないんだ、そんな愚痴ばかりがカットの端々から聞こえてきた。
そんなにアニメが嫌なら辞めてしまえ。
それと、作品で愚痴るのだけは止めろ。
それだけ言っておきたい。
そして困ったらまた足ばかり映していた。
あれだけは止めた方がいい。
ずっと下を向いて、俯いて生きていてはいけない。それを共感させようなんてもってのほかだ。
アニメって、なんて惨めなんだろう?