日本がホンダジェットから学ぶべき教訓とは?

オリンポス・四戸哲社長インタビュー(その5)

2018年4月26日(木)

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MRJを考える際にどうしても気になるのは、ホンダが開発し、好調な滑り出しを見せたホンダジェットだ。あるいは、MRJのライバルであり、リージョナルジェット旅客機大手のブラジルのエンブラエル。ホンダジェットは、エンブラエルは、なにがMRJと違っていたのだろう。ええい、全部訊いてしまえ――ということでオリンポス社長、四戸哲氏インタビュー、第5回です。

(前回はこちら

四戸 哲(しのへ さとる)有限会社オリンポス代表取締役。1961年、青森県三戸郡生まれ。小学生時代に見た三沢基地でのブルーインパルスのアクロバット飛行を見たことが航空エンジニアを志すきっかけとなった。学生時代のヒーローは航空エンジニアの木村秀政氏。高校卒業後に木村氏が教授として在席している日本大学理工学部航空宇宙工学科に入学し、日大航空研究会に所属。卒業後、日本には極めて珍しい、航空機をゼロから設計する会社としてオリンポスを創業。木村氏を顧問に迎える。以後、軽量グライダー、メディアアーティスト八谷和彦と、『風の谷のナウシカ』に登場する架空の乗り物「メーヴェ」を模した一人乗りのジェットグライダー(こちら)の機体設計・製作を担当。国産初の有人ソーラープレーン「SP-1」、「95式1型練習機(通称・赤トンボ)」の復元プロジェクト、安価な個人用グライダーの開発・製造を行っている。

編集Y:私は航空行政は素人で、「MRJの開発が遅延して、型式証明取得になかなか進めないのは、米連邦航空局(FAA)がなにかこう、意地悪でもしているんじゃないか」という印象があったんです。だって、三菱だよ、日本の三菱が造っているんだよ。なにか自分ではどうしようもない、外的な阻害要因があるんじゃないの? と。

 でも、四戸さんのお話を聞いていると、日本の行政にも三菱にも歴史的経緯で形成された構造的な問題があって、それを解決できないままにここまで来てしまったんだと。そして、その問題は、とにもかくにもMRJを開発し、さらに歯を食いしばって次世代機を開発することでしか突破できない。前回はそこまで伺いました。

四戸:いま開発遅延と言われましたが、実際に開発がスタートしてからの期間でみると、MRJの開発は「遅延した」というよりも、ゼロから旅客機を開発するのに「必須かつ健全な時間がかかっている」だけだと思います。

Y:あ、そういうものですか!

松浦:そこで、日本のもうひとつの航空機開発プロジェクト「ホンダジェット」が浮かび上がってくるんです。

 色々な意味でホンダジェットは、MRJと対照的です。プロジェクト開始から30年以上の時間をかけてじっくりと取り組みましたし、開発拠点は最初から日本ではなく米国に置きました。さらには途中で、実験機を作って飛ばしている。前回、四戸さんがおっしゃった、「開発のステップ」を刻んでもいるんですよね。そして、ついにFAAの型式証明を取得し、2015年から量産機のデリバリーが始まっています。

ホンダジェット(画像:ホンダ)

ホンダジェットの成功は「ひとりのエンジニア」

四戸:そこには、重工メーカーとは異なる自動車メーカーのフットワークの軽さがあったと思います。そしてもう一つ、ホンダエアクラフトカンパニー社長を務める藤野道格さんという人の果たした役割の大きさを、きちんと評価しなくてはいけません。ホンダジェット成功の理由の一つは、藤野さんという、「飛行機を創りたい」と切望する個人が主導したことだ、と私は見ます。

Y:えっ、個人が主導することが成功の秘訣……ですか?

四戸:ホンダジェットは、ホンダの経営陣が「やるぞ」と決断して始まったプロジェクト「ではない」ですからね。藤野道格という「ひとりのエンジニア」の欲求で始まったプロジェクトです。もちろん彼は「皆さんの協力があって…」と話すでしょうが、ともかくも彼がいないと始まらなかったことに間違いはありません。

 当初は航空機開発に決して好意的なばかりではなかったホンダ経営陣に柔軟に対応し、粘り強く戦略的に働きかけて開発を続け、徐々に既成事実を積み重ね、製品化に持ち込んだわけです。藤野さんがホンダの資金を使って自分の望む飛行機を具体化したと言っても過言ではありません。

 ちょっと話はそれますが、2000年代半ばに、富士重工業(現スバル)がビジネスジェット機を製造したことがありました。アメリカのベンチャー企業が当時開発中の「エクリプス500」の主翼製造を、富士重工が担当していたのです。

 この機体はホンダジェットと同クラスです。おそらくは陰りを見せる防衛需要への依存から脱却するために、自家用機市場への進出を探ったものでした。しかし開発した企業は倒産し、富士重工は約100億円の損失を出して事業は中断しました。工場に残るたくさんの主翼の利用法に関して、弊社にも話が来たことがありました。

 海外の新興ベンチャーの飛行機開発に乗ったこと自体も富士重工にすれば大きな冒険だったこととは思います。しかし中島飛行機にルーツを持ち、戦後もエアロスバルFA-200を世に送り出した富士重工が、エクリプス500のような小型ビジネスジェットを自主開発ではなく海外ベンチャーに頼ったのは、技術力の問題ではなく、「飛行機を作りたい!」という欲求を持つ主体的な個人が社内にいなかったからであろうと想像します。

 そしてこれは三菱のMRJに関してもまったく同じでしょう。一番最初に「俺は新しい飛行機を作りたいんだ!」という意志を持つ個人がいない限り、新型機の1号機は作れないんです。そう、私は思っています。

松浦:藤野さんにはその意志があったと。では、藤野さんという方を、四戸さんは、どのように見ておられますか。

四戸:藤野さんは東京大学の航空学科出身です。研究室は一般向けの解説書をたくさん書いている加藤寛一郎先生のところで、年齢的には私の1年先輩です。

 実は私、就職の時にちょっとしたいたずらを仕掛けたことがあります。当時、ホンダは藤野さんを採用して航空機研究を始めることを秘密にしていました。藤野さんも最初は当時ホンダの看板車種だった「プレリュード」の開発に参加していましたしね。

 でも、航空を学ぶ学生の間では、蛇の道は蛇じゃないですけれど、「ホンダが藤野さんを擁して、航空分野に出てこようとしている」という話は聞こえてきていたんです。そこで、私も、すでにオリンポスの設立準備を始めていたのに、ホンダの採用試験を受けまして。

松浦:おっ、どうなりました?

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「日本がホンダジェットから学ぶべき教訓とは?」の著者

松浦 晋也

松浦 晋也(まつうら・しんや)

ノンフィクション作家

科学技術ジャーナリスト。宇宙開発、コンピューター・通信、交通論などの分野で取材・執筆活動を行っている。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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