佐竹昭広 『民話の思想』 (中公文庫)
「儒仏ともに、不孝者はかくのごとく憎まれ、かくのごとくきびしい罰を受ける。ところが、本格昔話の領野では、不孝者を罰したり、孝行者を賞讃したりする話が無きに近いようだ。」
(佐竹昭弘 『民話の思想』 より)
佐竹昭広
『民話の思想』
中公文庫 さ-34-1
中央公論社
1990年11月25日 印刷
1990年12月10日 発行
271p
文庫判 並装 カバー
定価560円(本体544円)
本書「あとがき」より:
「第Ⅰ部「善人と悪人」は、昭和四十五年一月から十二月まで、筑摩書房の『国語通信』に「古譚と古語」という題で十回にわたり連載した。第Ⅱ部「民話と外来思想」は、昭和四十七年一月から十二月まで、平凡社の『月刊百科』に「民話の思想」と題して連載した。ただし、第Ⅱ部は、連載十二回分のうち、第一、二回分を一章にまとめ直し、第八回分を除外したので、計十章となった。」
本書は平凡社選書の一冊として1973年9月に刊行された『民話の思想』を文庫化したもので、著者による「文庫版あとがき」と、井筒俊彦による解説が新たに付されています。
第Ⅰ部では昔話の理想的な主人公の人物像である「またうど=正人」の意味について、第Ⅱ部では仏教(因果応報)・儒教(天命)などの思想の介入によって道徳的教訓話へと変形される以前の、本来の日本の「昔話」が、「徹底して現世中心主義」であったことについて論じられています。

カバー裏文:
「花咲かせ爺、食わず女房、猿地蔵、竜宮童子、藁しべ長者…私たちに馴染み深い昔話は、なぜ幾世紀もの歳月を生きつづけたのか。昔話に登場する善悪の思想、儒教倫理は果たして日本本来の思想だったのだろうか。昔話を縦横に分析し、儒仏思想の底にある民衆の逞ましい現実主義、人間主義を見出す実証的研究。」
目次:
Ⅰ 善人と悪人
一 又九郎左衛門のこと
二 枯木に花咲かせ爺のこと
三 食わず女房のこと
四 猿地蔵のこと (前)
五 猿地蔵のこと (後)
六 見るなの座敷のこと
七 かくれ里のこと
八 天人女房のこと
九 竜宮童子のこと
十 隣の爺のこと
Ⅱ 民話と外来思想
一 因果屋のこと
二 報い犬のこと
三 屁ひり爺のこと
四 福富長者のこと
五 マメ祖のこと
六 綾つつ、錦つつ、黄金さらさらのこと
七 美目は果報の基のこと
八 果報は寝て待てのこと
九 藁しべ長者のこと
十 パッチリ爺さのこと
あとがき
文庫版あとがき
意味論序説――『民話の思想』の解説をかねて (井筒俊彦)
本書より:
「「またうど」は、「またい」の語幹「また」と「ひと」の複合形であるから、その漢字表記も、「完人」もしくは「全人」と書くのが語構成に忠実な書き方であることはいうまでもないが、一般には、「正直な人」「真率な人」という意味を汲んだ、「正人」「真人」などの宛て字も流布していた。」
「「心すなをなる」「正直爺」、かれこそは(中略)「正人(またうど)」であった。」
「正直爺は、いくらひどい目にあわされても、はたから見てはがゆいくらい腹を立てることのない、「正直坊の腹立てず」(『驢鞍橋』中ノ八七)である。(中略)愛犬を惨殺され、いじわる爺から(中略)叱られながら、腹も立てず、文句も言わずに松の木を受け取ってかえる「オトナシイ」性格。「オトナシイ」という性格は、「弱い」という性格に通ずる一面を持つ。特に、「またい」の語を「弱い」という意味で使用している高知県方言の存在をかえりみるとき、正直で温和なこの爺さんが、いかに昔話の主人公たるにふさわしい善良な弱者だったかということがよく理解されると思う。」
「馬鹿だろうが、お人よしだろうが、伝統指向型の社会においては、「正人(またうど)」こそが善の理想像であった。」
「仮名草子『犬枕』に、「人に侮らるゝもの」の一つとして「余りまたき人」が挙げられているが、正直でお人よしで、はたからはばか扱いされるくらいの「またうど」が、「鬼にこぶを取られた」り、「枯木に花を咲かせ」たりするのである。」
「ユートピアの語源は、u-topia すなわち「存在しない場所」の意に求められる。しかし、「かくれ里」の方は、そうではない。地上地下を問わず、厳然とかくれて存在する場所、古代語でいう「こもりく下びの国」(『倭姫命世記』)である。ユートピアが、存在しない場所、そして無条件に到達不可能な場所だったのに反して、「かくれ里」は、見えないながらも存在する場所であるとともにまた条件付きで到達可能な場所であった。条件とはなにか。それは、当人が「またうど」であるということである。」
井筒俊彦「意味論序説――『民話の思想』の解説をかねて」より:
「そしてこのことは、本書における佐竹氏の狙いが、最初から「またうど」の一義的意味ではなく、それの意味論的「意味」の解明にあったことを物語る。様々に異る個々の意味ではない、それらの全体が問題だったのだ。全体、すなわちそれらの個別的意味が「またうど」の周囲に繰り拡げる有機的な全一的意味フィールドが。
この意味フィールドを構成する諸要素のうちの、どのひとつに焦点を絞るかによって、「またうど」は温良無比な好人物ともなり、また「うすのろ」、極端な場合には「怠け者」にすら頽落しかねない。この驚くべき意味のフレクシビリティーに、我々は意味論的「意味」としての「またうど」の本性を見る。」
「例えば「またうど」の意味フィールドは、積極的・肯定的構成要素ばかりでなく、「またうど」にたいして否定的・破壊的で、その意味フィールドの形成を阻止し妨害しようとする要素(正直者の反対の、慳貪者、意地悪、強慾者、邪悪など)が自己否定的な形(慳貪者でない、意地悪でない、等々)で、反対の側から「またうど」の意味フィールドの構成に参与している。そしてこのような否定的要素の参加によって、予想外の新側面が付加され、「またうど」の意味フィールドはさらにその地平を限りなく拡大していくのだ。
もともと意味フィールドの構成を阻止するはずの否定的要素が、自己否定によって逆に意味フィールドを構成するものとして機能する、この事実は、人間の心のメカニズムの奥底にひそむ根源的逆説性、あるいはパラドクス、を垣間見せるものではないだろうか。」
(佐竹昭弘 『民話の思想』 より)
佐竹昭広
『民話の思想』
中公文庫 さ-34-1
中央公論社
1990年11月25日 印刷
1990年12月10日 発行
271p
文庫判 並装 カバー
定価560円(本体544円)
本書「あとがき」より:
「第Ⅰ部「善人と悪人」は、昭和四十五年一月から十二月まで、筑摩書房の『国語通信』に「古譚と古語」という題で十回にわたり連載した。第Ⅱ部「民話と外来思想」は、昭和四十七年一月から十二月まで、平凡社の『月刊百科』に「民話の思想」と題して連載した。ただし、第Ⅱ部は、連載十二回分のうち、第一、二回分を一章にまとめ直し、第八回分を除外したので、計十章となった。」
本書は平凡社選書の一冊として1973年9月に刊行された『民話の思想』を文庫化したもので、著者による「文庫版あとがき」と、井筒俊彦による解説が新たに付されています。
第Ⅰ部では昔話の理想的な主人公の人物像である「またうど=正人」の意味について、第Ⅱ部では仏教(因果応報)・儒教(天命)などの思想の介入によって道徳的教訓話へと変形される以前の、本来の日本の「昔話」が、「徹底して現世中心主義」であったことについて論じられています。
カバー裏文:
「花咲かせ爺、食わず女房、猿地蔵、竜宮童子、藁しべ長者…私たちに馴染み深い昔話は、なぜ幾世紀もの歳月を生きつづけたのか。昔話に登場する善悪の思想、儒教倫理は果たして日本本来の思想だったのだろうか。昔話を縦横に分析し、儒仏思想の底にある民衆の逞ましい現実主義、人間主義を見出す実証的研究。」
目次:
Ⅰ 善人と悪人
一 又九郎左衛門のこと
二 枯木に花咲かせ爺のこと
三 食わず女房のこと
四 猿地蔵のこと (前)
五 猿地蔵のこと (後)
六 見るなの座敷のこと
七 かくれ里のこと
八 天人女房のこと
九 竜宮童子のこと
十 隣の爺のこと
Ⅱ 民話と外来思想
一 因果屋のこと
二 報い犬のこと
三 屁ひり爺のこと
四 福富長者のこと
五 マメ祖のこと
六 綾つつ、錦つつ、黄金さらさらのこと
七 美目は果報の基のこと
八 果報は寝て待てのこと
九 藁しべ長者のこと
十 パッチリ爺さのこと
あとがき
文庫版あとがき
意味論序説――『民話の思想』の解説をかねて (井筒俊彦)
本書より:
「「またうど」は、「またい」の語幹「また」と「ひと」の複合形であるから、その漢字表記も、「完人」もしくは「全人」と書くのが語構成に忠実な書き方であることはいうまでもないが、一般には、「正直な人」「真率な人」という意味を汲んだ、「正人」「真人」などの宛て字も流布していた。」
「「心すなをなる」「正直爺」、かれこそは(中略)「正人(またうど)」であった。」
「正直爺は、いくらひどい目にあわされても、はたから見てはがゆいくらい腹を立てることのない、「正直坊の腹立てず」(『驢鞍橋』中ノ八七)である。(中略)愛犬を惨殺され、いじわる爺から(中略)叱られながら、腹も立てず、文句も言わずに松の木を受け取ってかえる「オトナシイ」性格。「オトナシイ」という性格は、「弱い」という性格に通ずる一面を持つ。特に、「またい」の語を「弱い」という意味で使用している高知県方言の存在をかえりみるとき、正直で温和なこの爺さんが、いかに昔話の主人公たるにふさわしい善良な弱者だったかということがよく理解されると思う。」
「馬鹿だろうが、お人よしだろうが、伝統指向型の社会においては、「正人(またうど)」こそが善の理想像であった。」
「仮名草子『犬枕』に、「人に侮らるゝもの」の一つとして「余りまたき人」が挙げられているが、正直でお人よしで、はたからはばか扱いされるくらいの「またうど」が、「鬼にこぶを取られた」り、「枯木に花を咲かせ」たりするのである。」
「ユートピアの語源は、u-topia すなわち「存在しない場所」の意に求められる。しかし、「かくれ里」の方は、そうではない。地上地下を問わず、厳然とかくれて存在する場所、古代語でいう「こもりく下びの国」(『倭姫命世記』)である。ユートピアが、存在しない場所、そして無条件に到達不可能な場所だったのに反して、「かくれ里」は、見えないながらも存在する場所であるとともにまた条件付きで到達可能な場所であった。条件とはなにか。それは、当人が「またうど」であるということである。」
井筒俊彦「意味論序説――『民話の思想』の解説をかねて」より:
「そしてこのことは、本書における佐竹氏の狙いが、最初から「またうど」の一義的意味ではなく、それの意味論的「意味」の解明にあったことを物語る。様々に異る個々の意味ではない、それらの全体が問題だったのだ。全体、すなわちそれらの個別的意味が「またうど」の周囲に繰り拡げる有機的な全一的意味フィールドが。
この意味フィールドを構成する諸要素のうちの、どのひとつに焦点を絞るかによって、「またうど」は温良無比な好人物ともなり、また「うすのろ」、極端な場合には「怠け者」にすら頽落しかねない。この驚くべき意味のフレクシビリティーに、我々は意味論的「意味」としての「またうど」の本性を見る。」
「例えば「またうど」の意味フィールドは、積極的・肯定的構成要素ばかりでなく、「またうど」にたいして否定的・破壊的で、その意味フィールドの形成を阻止し妨害しようとする要素(正直者の反対の、慳貪者、意地悪、強慾者、邪悪など)が自己否定的な形(慳貪者でない、意地悪でない、等々)で、反対の側から「またうど」の意味フィールドの構成に参与している。そしてこのような否定的要素の参加によって、予想外の新側面が付加され、「またうど」の意味フィールドはさらにその地平を限りなく拡大していくのだ。
もともと意味フィールドの構成を阻止するはずの否定的要素が、自己否定によって逆に意味フィールドを構成するものとして機能する、この事実は、人間の心のメカニズムの奥底にひそむ根源的逆説性、あるいはパラドクス、を垣間見せるものではないだろうか。」
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