2016年08月17日
『今日より明日へ〔19〕』からの抜き書き(4)
・昭和63年(1988年) 9月28日
・〔寄稿論文『詩――人類の展望』〕第10回世界詩人会議
・聖教新聞掲載
わずか4ページ半の論文ですが、非常に重要なことを話されています。
詩人のまなざしは「心」に向けられている。物でも単に物と見ない。時に詩人は、草木と語り、星々と対話し、太陽とあいさつを交わす。万物を友として、そこに生命を見いだし、吹きこみ、変転する現実世界の事象を貫く大宇宙の不変なる法則を見つめる。またある時は、人間のつくり上げた制度やイデオロギーの囲いを突き抜けて、一個の人間に秘められた限りない可能性の輝きを見る。そして、時には、万人を結びあう。見えざる生命の紐帯 を覚知する――私は、この豊穣なる精神の泉を詩心と呼ぶ。
過去の記事でわたしは、「詩心」とは、他者を思いやる力や、他者の痛みを我がことと思う感受性だとか、相手の心の機微がわかる――つまり時を知れる――自分になるために必要と書いたが、それではまだまだ範囲が狭かったようですね。
しかし、詩を読む立場にあって感じるものは、やはりそうした感受性を育てるためだと思うことは今もかわらない。
では今回の論文を読んで何が変わったかといえば、「詩心」=「観心本尊 」の心だということがわかったということになろうか。
論文中、先生は詩心とは「直観力」と仰っているからだ。
直観力とは、時間や空間を超越し、また前後の脈絡に捕われることなく、いきなり真実はこれだ、とわかることをいう。正確にいえばわかるのではなく断言するのであり、言語にできない範囲は信じるという行為をもって行われるということです。
いい換えれば、言語化して信じられるものごとを瞬間的な閃きによって確信するのが、直感であり、言語化できない確信を直観というわけだ。言い換えればこれは覚りといってもいいだろう。
さらに平易にいえばこうなるだろう。
われわれが唱題行を行なっているとき、自分が唱えた題目の声(振動)によって自分の中から「これはこうである!」という確信が湧きいずることといえよう。もちろんそれは、御本尊にぶつかって戻ってきた仏縁があるからですがね。
「理由はわからないんだけどさ、とにかくそう思ったんだ」
そんな感覚といえばいいだろう。
少なくとも、真面目に唱題したことのある人なら、わたしのいっている意味はわかるはずだ。
気になっているいる雑念があれこれと湧く。それをどうすればいいのか必死で思索していると、まるで思いもしなかった方法がいきなり湧きあがってくる。そのような体験だ。
「あの人とああなってこうなって、だったらどうすればいいんだろう?……」
「だからさ、平和を祈ればいいんだよ! 相手の幸せを祈ればいいんだよ! それもくっだらない表面的な幸福ではなく、絶対的幸福をね!(この信心で幸福になって欲しい! と)」
「えっ……なんでそういう結論になるのよ!?」
みたいなね。
でも真剣に祈っていれば、必ずそうなります。どんなに嫌いで腹の立つ人のことを考えていてもね。
間違いありません。これはわたしのなかの確信中の確信ですから。
そしてこれ、湧いてきたあと理論的に考えなおしてみると、ほぼ完全に正しい答えなんですね。
わたしはこうした唱題を「億劫の辛労」というのだと確信している。
わたしが声を大にして「御縋り信仰は駄目だ!」といっているのはこういうこと――詩心の湧出であり観心本尊――を感じることが信心だと確信しているからだ。
分別のない本尊論をうだうだっている人がいるが、そうした人はこういう感覚がわからないのでしょうね。
戒壇の大御本尊は、日蓮出世の本懐であり、まずもってこれに一閻浮提への広布大願という魂がある――日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ――なわけですよね。
であるからして、その他の書写曼陀羅はその大御本尊の枝葉にあたるわけだ。
しかし、創価学会執行部はこの大御本尊を受持の対象から外したのだ。そして創価はある意味で邪教になった。
「受持」とはわが心に信じて持 つという意味である。いい換えるなら自分の信念を信じて、それを維持していくことになる。
御本尊をただ曼陀羅(物)としてしか見れないから、こういうものの見方になるという悪の見本だ。
大事なのは会員がいかなる心で信心していくかを教え導くものであるのに、執行部にはそういう視点がない。
この物は拝んでもいいけど、この物は駄目。会則変更でやったことはそういうことでしょ。
すでにこの時点で思想信条の自由を踏みにじっているという恐ろしさだ。
そもそも大御本尊という幹を書写したほかの曼荼羅は枝葉。
先生の指導にもはっきりあるが、幹があって枝葉がある。枝葉があって幹があるわけじゃない。
そういうことですよね。
ですから、大御本尊には出世の本懐(一閻浮提広宣流布成就祈願)という重要な意義(大聖人のお心)がある、その大御本尊を書写したものだから功徳があるのだというのが道理にみあったものの見方であり、そうした一念で唱題しなければ、功徳などこれぽっちもないのですよ。
別に邪教の山とかした場所で、大御本尊を直接拝して祈る必要はない。わざわざ極悪知識とかした山に行けば、それこそ無意識層から命を食い破られるからだ。
しかし、大御本尊にある意義を無視したり、それを我が一念にもって受持しないとなれば、幹のない枝葉だけの御神木に祈っているようなものになるのだ。こんな道理を無視した話はない。
そういう意味でいえば、大御本尊の相貌をきちんと書写されているものなら、誰が書写した御本尊でも功徳はあります。それが日顕であってもね。
でも、宗門問題を知っている人からすれば、清々しい気持ちで「日顕」と書かれた曼陀羅に面して祈る気にはなれませんよね。だからお取替えをしただけの話ですよね。
しかし、ここで重要なのは、祈る側われわれ主体者の一念、姿勢なわけです。
祈る主体者の心に、大御本尊こそ出世の本懐(一閻浮提広宣流布成就祈願)という重要な意義ある魂が宿っているのだという思いで我が家の御本尊を拝していくべきだということですね。
そうすれば、誰の書写した御本尊でも功徳はあるということです。
簡単にいえば、仏つくって魂入れず。今の学会執行部は、そういう状態を推奨しているということだ。
これが邪教でなくて何だというんですかね。
妄信・狂信の人は、常に自分の外側に答えを探そうとしている、外道の信心である。
だから、外側に見える御本尊が書写であるとかコピーであるとか、偽物であるとか騒ぐ。まことに愚かしい限りだ。
しかし正しい信心の人はわが一念がいかなる方へと向いているかを考えるものだ。
簡単にいいえば、自分が何を意識しているかを意識しているということ。
それが内道ですからね。当たり前の話です。そうして正しい方向に目が向いていれば、本尊を選ぶ眼も決して曇らないものですよ。すなわち大御本尊こそ最重要、ほかは枝葉という答えになるわけです。
むろん、枝葉であっても幹と同じ功徳はありますが、それは主体者がそれをそう見たときだけです。そう信じたときだけです。
こんなことは御書にも明確です。
叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず(日厳尼御前御返事)
つまり、執行部のした会則変更は会員の心を呪縛する恐ろしい変更なわけですよ。
受持の対象を選ぶ権能が執行部にはある。こんなふざけたいい草があるか!!
そして今回の先生の論文では、そうしたわが一念(心)の向きこそ重要であるということを仰っているわけです。
直観とは己心を直接見るという意味にあたるからであり、観心本尊もまたそういう意味があるからだ。
生死一大事の血脈といっても、依正不二といっても、結局のところ、大御本尊が幹、そのほかは枝葉という見方ができる自分でなければ、いくら学んでも一切役に立たないということを知っておくといいのではないですか?
何万年も経てばね、そりゃあ大御本尊だって木ですから、保存状態が悪ければ朽ちることだってあるでしょう。
だとしたら、永遠に朽ちない心のありようこそが大事であることなど、明白ではないか。
でなければ、「末法万年尽未来際」という言葉が妄語になってしまいますからね。
つまり、正しい信心の心を継承させていこう、継承していこうとする「心」の交流が断絶されたとき、広布は破壊されるということですよね。
ともあれ、本尊論で彷徨いながら物を見ている会員の「心」に、今の学会の一番の問題点があるのだ。
論文で、先生はそう仰っているとしか思えませんでしたけどね。
一切は心で決まる――。
私を取り囲むすべてのものは、貴重なものばかりである。それは綜合された人力の偉大にして尊敬すべき作品であり、一君主のではなくして、一民族の作りなした立派な記念碑である。そしてたとい彼らの潟がしだいに埋もれ、邪気の気がこの沼沢の上のただよい、彼らの商業が萎靡 沈滞し、彼らの権威が地に堕ちることがあったとしても、この共和国のあらゆる基礎と本質とは、瞬時たりとも、これを観る者の畏怖の念を傷つけるものではない。この国にしたところで、現象界のすべての存在と同じく、時の力に打ち克つことはできないのである。
ゲーテ『イタリア紀行(上)』「ヴェネツィア」より。
ゲーテにしてしかりである。
その見えているものがどうのではなく、見ている自分の心を見ているからこそ、こういういい回しになるわけだ。
「この共和国のあらゆる基礎と本質とは、瞬時たりとも、これを観る者の畏怖の念を傷つけるものではない」
というのは、ゲーテがわが心を見ているし、またその場所に立って、ゲーテと同じ心で見るならば、その人もまた、「基礎と本質に畏怖」せざるを得ないといっているわけだ。
本尊論も同じである。
自分がどのように本尊を観ていくかが重要なのである。
・〔寄稿論文『詩――人類の展望』〕第10回世界詩人会議
・聖教新聞掲載
わずか4ページ半の論文ですが、非常に重要なことを話されています。
詩人のまなざしは「心」に向けられている。物でも単に物と見ない。時に詩人は、草木と語り、星々と対話し、太陽とあいさつを交わす。万物を友として、そこに生命を見いだし、吹きこみ、変転する現実世界の事象を貫く大宇宙の不変なる法則を見つめる。またある時は、人間のつくり上げた制度やイデオロギーの囲いを突き抜けて、一個の人間に秘められた限りない可能性の輝きを見る。そして、時には、万人を結びあう。見えざる生命の
過去の記事でわたしは、「詩心」とは、他者を思いやる力や、他者の痛みを我がことと思う感受性だとか、相手の心の機微がわかる――つまり時を知れる――自分になるために必要と書いたが、それではまだまだ範囲が狭かったようですね。
しかし、詩を読む立場にあって感じるものは、やはりそうした感受性を育てるためだと思うことは今もかわらない。
では今回の論文を読んで何が変わったかといえば、「詩心」=「
論文中、先生は詩心とは「直観力」と仰っているからだ。
直観力とは、時間や空間を超越し、また前後の脈絡に捕われることなく、いきなり真実はこれだ、とわかることをいう。正確にいえばわかるのではなく断言するのであり、言語にできない範囲は信じるという行為をもって行われるということです。
いい換えれば、言語化して信じられるものごとを瞬間的な閃きによって確信するのが、直感であり、言語化できない確信を直観というわけだ。言い換えればこれは覚りといってもいいだろう。
さらに平易にいえばこうなるだろう。
われわれが唱題行を行なっているとき、自分が唱えた題目の声(振動)によって自分の中から「これはこうである!」という確信が湧きいずることといえよう。もちろんそれは、御本尊にぶつかって戻ってきた仏縁があるからですがね。
「理由はわからないんだけどさ、とにかくそう思ったんだ」
そんな感覚といえばいいだろう。
少なくとも、真面目に唱題したことのある人なら、わたしのいっている意味はわかるはずだ。
気になっているいる雑念があれこれと湧く。それをどうすればいいのか必死で思索していると、まるで思いもしなかった方法がいきなり湧きあがってくる。そのような体験だ。
「あの人とああなってこうなって、だったらどうすればいいんだろう?……」
「だからさ、平和を祈ればいいんだよ! 相手の幸せを祈ればいいんだよ! それもくっだらない表面的な幸福ではなく、絶対的幸福をね!(この信心で幸福になって欲しい! と)」
「えっ……なんでそういう結論になるのよ!?」
みたいなね。
でも真剣に祈っていれば、必ずそうなります。どんなに嫌いで腹の立つ人のことを考えていてもね。
間違いありません。これはわたしのなかの確信中の確信ですから。
そしてこれ、湧いてきたあと理論的に考えなおしてみると、ほぼ完全に正しい答えなんですね。
わたしはこうした唱題を「億劫の辛労」というのだと確信している。
わたしが声を大にして「御縋り信仰は駄目だ!」といっているのはこういうこと――詩心の湧出であり観心本尊――を感じることが信心だと確信しているからだ。
分別のない本尊論をうだうだっている人がいるが、そうした人はこういう感覚がわからないのでしょうね。
戒壇の大御本尊は、日蓮出世の本懐であり、まずもってこれに一閻浮提への広布大願という魂がある――日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ――なわけですよね。
であるからして、その他の書写曼陀羅はその大御本尊の枝葉にあたるわけだ。
しかし、創価学会執行部はこの大御本尊を受持の対象から外したのだ。そして創価はある意味で邪教になった。
「受持」とはわが心に信じて
御本尊をただ曼陀羅(物)としてしか見れないから、こういうものの見方になるという悪の見本だ。
大事なのは会員がいかなる心で信心していくかを教え導くものであるのに、執行部にはそういう視点がない。
この物は拝んでもいいけど、この物は駄目。会則変更でやったことはそういうことでしょ。
すでにこの時点で思想信条の自由を踏みにじっているという恐ろしさだ。
そもそも大御本尊という幹を書写したほかの曼荼羅は枝葉。
先生の指導にもはっきりあるが、幹があって枝葉がある。枝葉があって幹があるわけじゃない。
そういうことですよね。
ですから、大御本尊には出世の本懐(一閻浮提広宣流布成就祈願)という重要な意義(大聖人のお心)がある、その大御本尊を書写したものだから功徳があるのだというのが道理にみあったものの見方であり、そうした一念で唱題しなければ、功徳などこれぽっちもないのですよ。
別に邪教の山とかした場所で、大御本尊を直接拝して祈る必要はない。わざわざ極悪知識とかした山に行けば、それこそ無意識層から命を食い破られるからだ。
しかし、大御本尊にある意義を無視したり、それを我が一念にもって受持しないとなれば、幹のない枝葉だけの御神木に祈っているようなものになるのだ。こんな道理を無視した話はない。
そういう意味でいえば、大御本尊の相貌をきちんと書写されているものなら、誰が書写した御本尊でも功徳はあります。それが日顕であってもね。
でも、宗門問題を知っている人からすれば、清々しい気持ちで「日顕」と書かれた曼陀羅に面して祈る気にはなれませんよね。だからお取替えをしただけの話ですよね。
しかし、ここで重要なのは、祈る側われわれ主体者の一念、姿勢なわけです。
祈る主体者の心に、大御本尊こそ出世の本懐(一閻浮提広宣流布成就祈願)という重要な意義ある魂が宿っているのだという思いで我が家の御本尊を拝していくべきだということですね。
そうすれば、誰の書写した御本尊でも功徳はあるということです。
簡単にいえば、仏つくって魂入れず。今の学会執行部は、そういう状態を推奨しているということだ。
これが邪教でなくて何だというんですかね。
妄信・狂信の人は、常に自分の外側に答えを探そうとしている、外道の信心である。
だから、外側に見える御本尊が書写であるとかコピーであるとか、偽物であるとか騒ぐ。まことに愚かしい限りだ。
しかし正しい信心の人はわが一念がいかなる方へと向いているかを考えるものだ。
簡単にいいえば、自分が何を意識しているかを意識しているということ。
それが内道ですからね。当たり前の話です。そうして正しい方向に目が向いていれば、本尊を選ぶ眼も決して曇らないものですよ。すなわち大御本尊こそ最重要、ほかは枝葉という答えになるわけです。
むろん、枝葉であっても幹と同じ功徳はありますが、それは主体者がそれをそう見たときだけです。そう信じたときだけです。
こんなことは御書にも明確です。
叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず(日厳尼御前御返事)
つまり、執行部のした会則変更は会員の心を呪縛する恐ろしい変更なわけですよ。
受持の対象を選ぶ権能が執行部にはある。こんなふざけたいい草があるか!!
そして今回の先生の論文では、そうしたわが一念(心)の向きこそ重要であるということを仰っているわけです。
直観とは己心を直接見るという意味にあたるからであり、観心本尊もまたそういう意味があるからだ。
生死一大事の血脈といっても、依正不二といっても、結局のところ、大御本尊が幹、そのほかは枝葉という見方ができる自分でなければ、いくら学んでも一切役に立たないということを知っておくといいのではないですか?
何万年も経てばね、そりゃあ大御本尊だって木ですから、保存状態が悪ければ朽ちることだってあるでしょう。
だとしたら、永遠に朽ちない心のありようこそが大事であることなど、明白ではないか。
でなければ、「末法万年尽未来際」という言葉が妄語になってしまいますからね。
つまり、正しい信心の心を継承させていこう、継承していこうとする「心」の交流が断絶されたとき、広布は破壊されるということですよね。
ともあれ、本尊論で彷徨いながら物を見ている会員の「心」に、今の学会の一番の問題点があるのだ。
論文で、先生はそう仰っているとしか思えませんでしたけどね。
一切は心で決まる――。
私を取り囲むすべてのものは、貴重なものばかりである。それは綜合された人力の偉大にして尊敬すべき作品であり、一君主のではなくして、一民族の作りなした立派な記念碑である。そしてたとい彼らの潟がしだいに埋もれ、邪気の気がこの沼沢の上のただよい、彼らの商業が
ゲーテ『イタリア紀行(上)』「ヴェネツィア」より。
ゲーテにしてしかりである。
その見えているものがどうのではなく、見ている自分の心を見ているからこそ、こういういい回しになるわけだ。
「この共和国のあらゆる基礎と本質とは、瞬時たりとも、これを観る者の畏怖の念を傷つけるものではない」
というのは、ゲーテがわが心を見ているし、またその場所に立って、ゲーテと同じ心で見るならば、その人もまた、「基礎と本質に畏怖」せざるを得ないといっているわけだ。
本尊論も同じである。
自分がどのように本尊を観ていくかが重要なのである。