2016年12月10日

『創価のルネサンス(10)』より

緊急というわけでもないが「鉄は熱いうちに打て」という言葉もある。
ということで「創価学会仏」という文言について、いま一度考えてみたいと思う。何事もそうだが「喉元すぎれば熱さ忘れる」ものであろう。ゆえに風化を避けるために、思索考察した記事を残しておくことにも意味がないとはいえないだろう。

2016年12月度の本部幹部会同時中継では、どうやら平成3年11月30日の先生のご発言が放映されたようだ。
だが多くの方がご存知のように、こうした放映内容は一部の“抜粋”であり、編集者の恣意性がないとはいえないわけだ。
ゆえに、先生の真意を読みとろうとするならば、発言のすべてを読み、「文脈」から、あるいはまた神経を使って先生が表現されている「細部」にも注目しながらといった、大小双方を見る視点で拝するべきかと思う。

ということで早速。
とはいっても、長い記事になると読み手に新たな誤解や思い込みを生むこともありうるので、なるべく所感などは簡素なものとする。
所詮、一人一人が自分の目と心で読み、自分の感受性を信じてそれを源として信念や確信を培っていくしかないであろう、ということだけは前置きしておきたい。


最近は、人間の心が小さくなってしまったのか、何事も「話し合い」ができない人が増えたようで残念なことである。ある人は「幼児性」と言っていたが、子どものすることに、私としては本気になって怒ることもできない。
仏法とは、いいかえれば寛容の精神ともいえるだろう。もっともな冒頭の辞であると思う。戸田先生の指導にもありましたね。小学生同士だから喧嘩になるんだ、小学生と中学生ならならない。一歩大きく開いた境涯で相手を包み込んでいくんだ。「話し合い」を価値あるものにしていくには、少なくとも、当時者の一方にそうした姿勢・態度が必要であるといっていいだろう。


さて、ここから先が「創価学会仏」についての部分になる。だが、抜き書くのは一か所で充分だろうが、一応、二個所を抜き書いておく。

1)戸田先生も言われていたが、未来の経典に、「創価学会」の名が厳然と記されることは間違いないと確信する。

2)将来、将来といっても、これはいつのことになるかわかりませんけど、経文が、また仏が出て説かれるときには「創価学会仏」という仏の名前もでると。
威音王仏とかいろいろあるでしょう。


以上2点で、現執行部が、先生の言葉を歪曲していることは明確にわかる。こうしたことをもって、現執行部が先生を利用して、我欲を満たすために権威をかさにきていることも明確にわかる。

1)については簡単だ。先生は「確信する」と仰っているのであるから、個人的にそう強く思ってるよと言っているだけです。断定も断言もしていないのです。ありふれたいい方をすれば、ここでの発言は「個人的意見」だということだ。またここでは「創価学会」といっているのであって「創価学会仏」とはいっていない。

2)も簡単なことです。「いつになるかわかりませんけど」と仰っているのだ。
それをさも「今だろ」とわかったつもりになって会則に入れた現執行部は、増上慢といって過言はない。
『法華経方便品第二』に曰く――。
五千人等有り。即ち座より起って仏を礼して退きぬ。ゆえんは何ん。この輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。かくの如き失あり。

法華経に明確です。

なぜそういえるのか? 「また仏が出て説かれるときには」と先生は仰せなのだ。
つまりここには、少なくとも釈尊クラスの聖人が現れて、もしもその聖人が新たに仏典を残すとしたら、聖人は創価学会のそれまでの働きを鑑みて、経典に「創価学会仏」という名を書かれることもあるのではないか。そう先生は仰せなのだ。
なぜそういえるのかは、そのあと威音王仏を引かれて話されているからだ。
こういうことを文脈を読むというのです。
また、先生は「創価学会」といい「創価学会仏」ともいっている。その真意は、団体として記されることもあるかもしれない、あるいは優れた個人の働きに仏の名を冠して記されることもあるかもしれない。でもどちらも「かもしれない」と「確信」していると仰せであって、そうなるなどと断定は決してされていないことも明確だ。

以上からしても、現執行部が行った会則変更が謗法であることは明確だ。
法華経に背いているからだ。


さて、沢山の内容を語ると混乱するので、あと一点だけにしたいと思う。
少し前の記事で、「仏法僧(三宝)」と「三位一体」は似たようなことだよという記事をわたしは書いた。
そして今回とりあげる先生のスピーチでも、そうしたことが語られていた。以下、簡単に記しておく。

信仰の根本にある教義の基本というものは、そんなに複雑なものではない。(中略)
例えば(中略)

【キリスト教なら】
神を信じる(父)
キリストを信じる(子)
精霊を信じる

【仏法なら】
御本尊を信じる
日蓮大聖人を信じる
御書を信じる

ということに核心があるのではないかと思う。


青い色の部分は先生の発言である。グレーはわたしが追加した補足だ。
念のためにいっておきますが、なるべく短い文章で書く方が誤解を生まないので、わたしの判断で(中略)を入れてるが、これもひとつの配慮と思ってもらえたなら嬉しい。しかし(中略)があることで、ここに示した部分以外にもいろいろ仰せだということに気づける人なら、すべて読んでみたほうが……と思われるのではないか。そうした誘導をしているわけです。わたしは。

先に紹介した以前の記事にある内容と照合してみてほしい。
違う部分は一か所だ。仏法における「仏法僧」への先生の捉え方だ。
わたしはここの部分を読んで、自分の学びがいかに浅薄かをまたしても猛反省した。

そうだ、そうだ、かつては僧を「日興上人」とされてきたから、日顕宗のように“法主本仏論”のような主張を唱えることを許す原因はここにあったか……と目から鱗だったわけだ。
人法ともに大聖人へと還るのであれば、僧が日興上人であってはいけないのである。
これもまた最近書いた記事でのことであるが。「僧」という字にある本義は、人々が集まって学ぶこと。つまり善智識を薫発しあう行為であるわけだ。よって仏法僧の僧もまたそうあらねばならぬ。こうしたことに気づければ、わたしはわたしなりに仏法僧の僧は本来は善智識をいうんだから、最も正しい善智識は大聖人が書き残されたもの以外にないことに気づけて当たりまえだったのだ。

いやはや自分の浅はかな思索にショックはショックだったが、こういうことがあるから、師匠、人師も大事なわけです。
しかしだからといってわたしは先生を全肯定して、先生のいっていること、またされた行為に間違いなどひとつもないなどとは思っていない。先生も人間ですからね。人間であるものを人間以上と見ることも、人間以下に見ることも、人間のすべきことではない。そういう信念がわたしの信念なわけです。決して間違いを犯さない聖人君子と見ることもないし、かといってろくでもない奴といったように見下すこともしないというのが、わたしの信念である、ということだ。

個人的自負はこのへんにしよう――。
ここで大事なのは先生の正義を証明することだからだ。
では先生は何といわれているのか? 見てみれば明確だ。キリスト教の三位一体であろうと、仏法の三宝についてであろうが、「ではないかと思う」といっているのだ。断言はされていない。個人的にそう思う。それを信じる信じないは一人一人の判断ですよ、と。

また本会合では宗門が突き付けてきた「創価学会解散勧告書」にある内容について先生は言及されているが、そうであっても決して断言はしていない。文言はこうである。
“法主本仏論”のような、、、――と。

ではその宗門のいってきた文言はどれかといえば、これである。
「日興上人已下の代々も亦爾なり、内証に順ずる則んば仏宝也。外用に依れば則ち僧宝なり、故に末法下種の大導師日蓮聖人の尊仏に対すれば則ち外用を存し以て僧宝と為るのみ」――と。

こうした文言を見て、わたしは、あるブログのコメント欄で、こういう内容であれば、法主を信仰の対象としろといっているように受け取られかねないと発言した。
しかし残念なことに対話相手は、宗門はそういっていない。むしろ池田センセが勝手なことをいって法主本仏論をでっちあげたと仰ったわけです。どちらも断定ですよね。決めつけて見てしまっているゆえに真実を見失っているお姿であるといわざるを得ない。仕方なく、非常に残念な気持ちで一旦、対話を終了させてきたのだが……。

見る人からみれば、イプシロンなんて輩は、文章にあるミクロな部分を指摘して、言葉遊びをしていると見えるかもしれない。しかし、冒頭に申し上げたように「文脈」も大事であれば「細部」もまた大事なのである。その両面をきちんと見ないことで、思い込み断定・断言をして、決めつけでしか物事を判断できなくなるのである。

先生は、「それじゃあ法主本仏論だろ!」とは言ってないんです。「法主本仏論のような」と明確にいってるのです。

従ってそういう不明確なことで不毛な状況をつくってしまうと、その先、問題が解決せず、いつまでも騒動が絶えないことになる。こうした点を鑑みて、だったら三宝にある僧は本義に還って「御書」とすればいいじゃないよ、と提言されたことになる。
これまでは宗門へ敬意をはらって、僧=日興上人から続く唯受一人、また歴史的事実の観点からも、また法華経の心からも敬ってきたが、宗門が大謗法を働くのであれば、僧を本義に戻しましょう。そう仰ったということになろう。


そして最後に先生は明確にも明確に仏法者としてのありかたをお話されている。

大聖人の仰せのままに進む人は、誰でも成仏できるのである。「成仏できない」と主張する人は、大聖人に弓を引く者である。
「進む人」とは、例えば、御書も法華経も知らなくても、その人のとっている行為・行動が大聖人の仰せのままであれば、キリスト教徒であろうと、イスラム教徒であろうが、いわゆる自称無宗教者であろうと成仏できるということである。
それを成仏できないというならば、それこそ大謗法なのだ。なぜかなら、それは一切衆生の仏性を否定する行為であるからだ。
ここは先生も断言・断定して言い切っていることに注目してほしい。当たり前のことである。仏法の根本は、すべての人は必ず成仏できるというものであるからだ。そしてそういう祈りをするというのが仏法の原理原則であることなど、今さら誰人も変えることなどできないし、またその権利も存在しないからだ。
だとしたら仏法者であるならば、現実のうえでも事実としても、どんな人でも成仏できるという思考にもとづいた祈りや言動になるのは、当然のなかの当然だ。


成仏は、信心の厚薄によるのであり、あくまでも強き信が根本である。(中略)
「切る」「切る」といっても「心」は切れない。私どもの大聖人との「信心の血脈」は、誰人も切ることなどできない。切る資格や力のある者など、絶対に存在しない。

「正しい御本尊を認定できる権能がある」でしたっけ? 現執行部の言い分は。
先生はそんなものを一切認めておられないことは、この一文から赫々と読みとれる。
もちろんそれは、先に述べたとおり、他宗の人であろうと、同じである。「成仏できない」などという輩は仏法破壊の大謗法者である。

よく考えてみてほしい、諸法実相に照らして執行部の宣った「権能」とやらが現実の中で行使されたらどうなるか?
「あんたは仏、OK。お前は提婆達多なので地獄行き、お気の毒さま!」と執行部ごときが、その人間の価値を測る権能があるといっているのと同じだ。そして現実にそういう執行部の中にある魔が、数々の除名者を生みだしていることが「現症」として顕現しているといっていい。
なぜかなら、御本尊とはわれわれ一人一人の異名でもあるからだ。


余談だが、このスピーチは宗門が、平成3年11月7日発行・発送した「創価学会解散勧告書」を受けての先生のご発言であることも付記しておく。

コメント一覧

1. Posted by レイロウ   2016年12月12日 13:08



イプシロンさん、お久しぶりですね。
覚えていらしゃいますか?


今回、イプシロンさんはとあるブログに
長文のコメントしていらっしゃいますね。
客観的に、イプシロンさんの方が説得力が
あると思いました。彼も非常に勉強はしています。
参考になる点もたくさんあります。

ですが、イプシロンさんと彼とのやりとりで
はかなり「イプさんすごいなぁ」と素直に思いましたよ。


これからもたくさんブログを書いてください。
お体をお大事に。
2. Posted by イプシロン   2016年12月12日 21:22
レイロウさん、こんばんは。
もちろん、憶えてますよ!
何度か言葉を交わして私の中に印象のある方というのは、ノートにHNではありますが書き出して、唱題の中で幸福を祈らせて頂いていますので、忘れることはないんです。

あちら、ご覧になられていたんですね。
私のこと褒めて頂いてありがとうございます。
あちらの管理人さんも、大した方ですよ。直接言葉でお人柄を賞賛した私の気持ちにも嘘はないんです。
ただ残念だったのは、物事を決めつけて見てしまわれている部分が、けっこうあるかな……というところですかね。

これは非常に難しいことなんですけどね。
現実、時間空間のある世界である以上、決めて行動しないと何も出来ないんですよね。しかし、思想哲学の世界というのは、決めてしまうと、そこから一歩たりとも進歩することはないわけです。常に弁証法的な自分を維持していないとならないわけです。

現実世界でのあるべきさまと、思想世界でのあるべきさまは矛盾している部分があるんですね。これを生活の中で意識していくことは相当に労苦の必要なことだと思うのです。
現実には、大枠こんな感じの未来にしたいと思いつつも、その目標に捕われすぎず、柔軟にその時その時で判断決断し、行動していくということになるんでしょうかね。

応援の言葉もまた、ありがとうございます。
記事の質、できるだけ高めていこうと思います。
今後もよろしくお願いします。

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