2016年10月21日
生命の尊厳とは?
一般に、生命の尊厳という概念には、二つの面がある。人間の生命を至上のものとして、その生存権を尊重することも、――生命尊厳を守ることに通じる。これは他人に対した場合であり、いうなれば社会的側面である。
(それとは違った視点で)主体的次元において生命の尊厳を守るということは自己の生命を、自発的な使命感、目的間、理想追及の信念に立って、最高に価値的に、有意義に投入し、燃焼させていくことである。――これが開かれた生命であり、事実のうえに、生命の尊厳を顕現していく道は、ここに求めなければならないであろう。
生きている以上、人は、あらゆる形で社会、世界の価値を、自らの中へと吸収している。それ自体は、すでに消費であり、害を与えていえといえまいか。
牧口常三郎先生は「善いことをしないのは、悪いことをしているのと同じだ」と教えられたが、――そうした生命系譜の流れからも、私は、なるほどと思える説であろうと思う。
(『わたしの人生観』池田大作)
生命尊厳といえば、他人に対した場合がなにかと強調されている。いわゆる利他行為をせよ! といった感覚だ。
しかし、本当に重要なのは、自分がいかなる信念をもち、いかなる目的観に立ち、いかなる使命感に目覚めて行動しているか、ということであることは、師の言葉に明確だ。
引用部分の「事実として」が大事といって過言はないだろう。いくら他人に利他行為をしたつもりになっても、相手がそれを受け入れなければ、それは事実でも何でもないからだ。表面上は「ありがとう、あなたのお蔭で――」などといっていても、内実ほんとうはどう思っているかは、相手本人にしかわからない。ましてや、数という結果など、事実といえるかどうかも怪しい。
しかし、自分が自分になにを誓い、いかなる行動を起こしたかということは、唯一、自分で完全に確認できる「事実」なわけだ。
だから、わたしは自分が物事をどう見て、どう捉えているかを自分で見つめて、是正すべきはするという「自分自身に生きる」ことが最も重要であると、ずーっと訴えてきたんですけどね。
だが、意外にもこうした重要な点が垣間見られていないような気がする。
ようは自覚のない無責任さである。
また、悪を責める行為を忌避する人も多いが、抜き書いた部分からしても、悪を滅せずして功徳や福運を頂こうとしている乞食信心をも、先生は否定されていることは覚えておくべきだろう。
悪を滅して善を生じさせて、はじめてトントンというくらいのつもりでいるべきだろう。
こうしたことは、宮崎駿なんかもいっている。
消費ばかりしていないで、創造しなきゃ、生きてる価値はないんだよ、といった具合に。
だからわたしは、できる範囲でおかしいじゃないか! と声をあげてきたんですけどね。
南スーダンへのPKO自衛隊派遣延長が決まったようだ。
そして公明党は当然のごとく、このことを承認したそうだ。
わたしはこういう生命尊厳への反故を許さない。だから叫ぶだけのこと。
公明を支援したということは、投票したあなた方も承認したことになるんだよ。
「いや、個人的にわたしは延長に今は反対なんだけど……」
なんていう言い訳は通用しないんですよ。自分のやったことで何が起こっていくか、ちゃんと見ときなさいよ!
沖縄の人たちに向かって「土人」とか「シナ人」という差別発言をする機動隊員をおくった責任も自公支援者にある。そのことをよーく考えてみることです。
(それとは違った視点で)主体的次元において生命の尊厳を守るということは自己の生命を、自発的な使命感、目的間、理想追及の信念に立って、最高に価値的に、有意義に投入し、燃焼させていくことである。――これが開かれた生命であり、事実のうえに、生命の尊厳を顕現していく道は、ここに求めなければならないであろう。
生きている以上、人は、あらゆる形で社会、世界の価値を、自らの中へと吸収している。それ自体は、すでに消費であり、害を与えていえといえまいか。
牧口常三郎先生は「善いことをしないのは、悪いことをしているのと同じだ」と教えられたが、――そうした生命系譜の流れからも、私は、なるほどと思える説であろうと思う。
(『わたしの人生観』池田大作)
生命尊厳といえば、他人に対した場合がなにかと強調されている。いわゆる利他行為をせよ! といった感覚だ。
しかし、本当に重要なのは、自分がいかなる信念をもち、いかなる目的観に立ち、いかなる使命感に目覚めて行動しているか、ということであることは、師の言葉に明確だ。
引用部分の「事実として」が大事といって過言はないだろう。いくら他人に利他行為をしたつもりになっても、相手がそれを受け入れなければ、それは事実でも何でもないからだ。表面上は「ありがとう、あなたのお蔭で――」などといっていても、内実ほんとうはどう思っているかは、相手本人にしかわからない。ましてや、数という結果など、事実といえるかどうかも怪しい。
しかし、自分が自分になにを誓い、いかなる行動を起こしたかということは、唯一、自分で完全に確認できる「事実」なわけだ。
だから、わたしは自分が物事をどう見て、どう捉えているかを自分で見つめて、是正すべきはするという「自分自身に生きる」ことが最も重要であると、ずーっと訴えてきたんですけどね。
だが、意外にもこうした重要な点が垣間見られていないような気がする。
ようは自覚のない無責任さである。
また、悪を責める行為を忌避する人も多いが、抜き書いた部分からしても、悪を滅せずして功徳や福運を頂こうとしている乞食信心をも、先生は否定されていることは覚えておくべきだろう。
悪を滅して善を生じさせて、はじめてトントンというくらいのつもりでいるべきだろう。
こうしたことは、宮崎駿なんかもいっている。
消費ばかりしていないで、創造しなきゃ、生きてる価値はないんだよ、といった具合に。
だからわたしは、できる範囲でおかしいじゃないか! と声をあげてきたんですけどね。
南スーダンへのPKO自衛隊派遣延長が決まったようだ。
そして公明党は当然のごとく、このことを承認したそうだ。
わたしはこういう生命尊厳への反故を許さない。だから叫ぶだけのこと。
公明を支援したということは、投票したあなた方も承認したことになるんだよ。
「いや、個人的にわたしは延長に今は反対なんだけど……」
なんていう言い訳は通用しないんですよ。自分のやったことで何が起こっていくか、ちゃんと見ときなさいよ!
沖縄の人たちに向かって「土人」とか「シナ人」という差別発言をする機動隊員をおくった責任も自公支援者にある。そのことをよーく考えてみることです。