2013年05月18日
諸天善神のこと その3
自分の言葉で語りたい、という気もちはあれど、池田先生と戸田先生のご指導は、意味はもちろんのこと、文言だけを追っていくだけでも美しいのだ。だから――
(あーもういい……先生たちのご指導をそのまま抜き書きするのが一番だな……)
と、思ってしまうのだ。いかにも語彙不足というか、なんとやら^^;
ということで、戸田先生の諸天善神に関するご指導をどうぞ。
「本当に御本尊様を拝してごらんなさい。そこには日蓮大聖人御一人がおられるのではない。大聖人様を中心として、その後にあらゆる仏菩薩や神々がずっと並んでいる。薬王菩薩、文殊・弥勒菩薩も、また声聞衆もおれば、十羅刹女も、鬼子母神も、大竜王もずっと並んでいる。
それに対して南無妙法蓮華経と題目を唱える。すると、題目を唱えているこちらの生命にも、御本尊様と同じように、己心の舎利弗、己心の薬王、文殊菩薩などがいる。
かりに今、自分は病気で困っているとする。御本尊様に題目を唱えることによって、御本尊様の中にある薬王菩薩が働かざるをえなくなる。
だから、医者に行っても、相手がどんなヤブ医者でも、こっち(己心)の薬王が働いているので、医者が自然にいい治療をせざるをえなくなってくる。
なにか困ったことがあると梵天・帝釈が働くのです。つまり、題目を唱えることによって、南無妙法蓮華経に照らされて、御本尊様の中にある梵天・帝釈が、こちらの生命に感応してくる。
ゆえに、己心の梵天・帝釈が働かざるをえなくなるのです。そして自然に、商売であっても、研究や仕事であっても、すべてのものがよくなってくるのです」
もちろん、唱題だけしていればいいということではないのは、みなさんも百も承知のことであろう。
「諸天の加護」と「現実の努力」の両輪が必要であることは、言うまでもないところでしょう。
私は今回、諸天善神のことを学んで、自分がいかに諸天の偉大な力を軽く見ていたかに辟易した。
(んまぁ、守ってくれてんだよなぁ)――なーんて調子でいた自分が心底恥ずかしいのだ!(笑)
なぜかなら、諸天の加護を引きだすことこそ、信心の目的であると気づいたし、確信したからだ。
自分だけの安穏など、ありゃーしない。自分(だけ)が幸せになりたいとか、福運が欲しいとか、とにかく功徳が欲しいといった、個人的利益主義の思考は、とうの昔に捨てたのだが、まだまだ考えが甘かったわけだ。恥しい限りだ。マジで恥ずかしいのだ。
先生は「諸天」と「信心」に関して、こう仰っている。
まさに「信心」とは「諸天」を動かし、この短い限りある人生を、何百年にも、いな何万年にも匹敵する“価値ある一生”へと、無限に開きゆく原動力をいうのである。――と。
そして、その「信心」の精髄は――
月月・日日につより給え、すこしもたゆむ心あらば魔たよりおうべし(聖人御難事 1190ページ)
なのだそうです。
余談であるが、
先生は、戸田先生のご指導を紹介するにあたって、「これを参考に種々、思索もしていただきたい」と仰っています。
言われたことを何も考えずにただやる(←昔の私だ)。ご指導くださった内容を踏まえて、御本尊様の前で自分の頭で納得するまで考える。私はこの差は大きいと思う。
信じるということは、盲信ではなく、納得したうえでの信こそが「確信(確かめた信)」であると思うのだが、どうでしょうか。
『祈祷抄』では、大聖人は「法華経の行者の祈る祈りは響の音に応ずるがごとし」と仰っています。
「祈る祈り」とは何でしょうか? 先生がいう「思索」とは、こういうことを仰っておられるのではないでしょうか。
私の思うには、「祈る」とは、心の姿でしょうね。祈るような気持ちといいますから、心の状態でしょう。
「祈り」とは、それが行為になって現れたものでしょう。祈りを捧げるという使い方から、それがわかります。
つまり、「祈る祈り」とは、身も心も御本尊様と響き合って感応させることを言うのでしょう。
異論反論、オブジェクション! 随時受け付けますので、どしどし、ご意見ください(笑)
(あーもういい……先生たちのご指導をそのまま抜き書きするのが一番だな……)
と、思ってしまうのだ。いかにも語彙不足というか、なんとやら^^;
ということで、戸田先生の諸天善神に関するご指導をどうぞ。
「本当に御本尊様を拝してごらんなさい。そこには日蓮大聖人御一人がおられるのではない。大聖人様を中心として、その後にあらゆる仏菩薩や神々がずっと並んでいる。薬王菩薩、文殊・弥勒菩薩も、また声聞衆もおれば、十羅刹女も、鬼子母神も、大竜王もずっと並んでいる。
それに対して南無妙法蓮華経と題目を唱える。すると、題目を唱えているこちらの生命にも、御本尊様と同じように、己心の舎利弗、己心の薬王、文殊菩薩などがいる。
かりに今、自分は病気で困っているとする。御本尊様に題目を唱えることによって、御本尊様の中にある薬王菩薩が働かざるをえなくなる。
だから、医者に行っても、相手がどんなヤブ医者でも、こっち(己心)の薬王が働いているので、医者が自然にいい治療をせざるをえなくなってくる。
なにか困ったことがあると梵天・帝釈が働くのです。つまり、題目を唱えることによって、南無妙法蓮華経に照らされて、御本尊様の中にある梵天・帝釈が、こちらの生命に感応してくる。
ゆえに、己心の梵天・帝釈が働かざるをえなくなるのです。そして自然に、商売であっても、研究や仕事であっても、すべてのものがよくなってくるのです」
もちろん、唱題だけしていればいいということではないのは、みなさんも百も承知のことであろう。
「諸天の加護」と「現実の努力」の両輪が必要であることは、言うまでもないところでしょう。
私は今回、諸天善神のことを学んで、自分がいかに諸天の偉大な力を軽く見ていたかに辟易した。
(んまぁ、守ってくれてんだよなぁ)――なーんて調子でいた自分が心底恥ずかしいのだ!(笑)
なぜかなら、諸天の加護を引きだすことこそ、信心の目的であると気づいたし、確信したからだ。
自分だけの安穏など、ありゃーしない。自分(だけ)が幸せになりたいとか、福運が欲しいとか、とにかく功徳が欲しいといった、個人的利益主義の思考は、とうの昔に捨てたのだが、まだまだ考えが甘かったわけだ。恥しい限りだ。マジで恥ずかしいのだ。
先生は「諸天」と「信心」に関して、こう仰っている。
まさに「信心」とは「諸天」を動かし、この短い限りある人生を、何百年にも、いな何万年にも匹敵する“価値ある一生”へと、無限に開きゆく原動力をいうのである。――と。
そして、その「信心」の精髄は――
月月・日日につより給え、すこしもたゆむ心あらば魔たよりおうべし(聖人御難事 1190ページ)
なのだそうです。
余談であるが、
先生は、戸田先生のご指導を紹介するにあたって、「これを参考に種々、思索もしていただきたい」と仰っています。
言われたことを何も考えずにただやる(←昔の私だ)。ご指導くださった内容を踏まえて、御本尊様の前で自分の頭で納得するまで考える。私はこの差は大きいと思う。
信じるということは、盲信ではなく、納得したうえでの信こそが「確信(確かめた信)」であると思うのだが、どうでしょうか。
『祈祷抄』では、大聖人は「法華経の行者の祈る祈りは響の音に応ずるがごとし」と仰っています。
「祈る祈り」とは何でしょうか? 先生がいう「思索」とは、こういうことを仰っておられるのではないでしょうか。
私の思うには、「祈る」とは、心の姿でしょうね。祈るような気持ちといいますから、心の状態でしょう。
「祈り」とは、それが行為になって現れたものでしょう。祈りを捧げるという使い方から、それがわかります。
つまり、「祈る祈り」とは、身も心も御本尊様と響き合って感応させることを言うのでしょう。
異論反論、オブジェクション! 随時受け付けますので、どしどし、ご意見ください(笑)