2013年05月17日
諸天善神のこと その2
諸天善神の守護、といっても最終的には、本人の信心によるようだ。
具体的にいえば、
夢かうつつかわからぬような「いねむり勤行」や、時間に追われての「スピード勤行」では諸天に法味を与え、善神の厚い加護をえることはできない。――と、先生は仰られている。
尽きるところ、「信心」というこころこそ、諸天の守護を引きだす最大の要因ということだ。
信心とは――つまり、「確信」であろう。この御本尊は理想の私自身であり、宇宙である。我即宇宙。宇宙即我。
そう確信しての勤行・唱題が大切だということであろう。
ひとつひとつのご祈念に関しても、これは絶対に叶う! という確信が湧くまでは祈りつづけ、その項目に対する不信や猜疑を徹底的に撲滅する思索をしながらのお題目が大切だと思う。
もちろん、「叶いましたね! ありがとうございます!」という誓願と感謝の題目でもよいと思うのですが、私は自分の中にある無意識な不信を湧き出させて、そいつを叩き潰す方法をとっています。でも策に走ってはいけませんね。あくまでも、信心であり、確信ですね。
「報恩感謝」とは「決意と感謝」なので、その辺りの意味も考えながら、個人個人が、自分にあった最高の唱題とはなにか? を探し出していくしかないようです。
先生のご指導にも、やはり、そうあります。
――一念の妙用 は、目には見えない。しかし、強き信心の一念が、社会や自然、さらには大宇宙にまで、諸天の無限の加護をもたらすことは、峻厳な事実である。――と。
“強き信心の一念”。これこそが大切なことが、明瞭に読み取れるではないですか。
諸天の守り。これは福運となり、果報(つまり、みんなが望んでいる功徳ですね:笑)となるとのこと。
であるから、諸天に守られないような勤行・唱題をしていると、福運が切れ、果報も尽きてしまうのだそうだ。
そうなれば、兵法(善後策や必死の努力)などまったく役に立たない、とそう大聖人は仰られている。
勤行・唱題という基本中の基本をおざなりにすれば、諸天の守護は無く、何をやっても空転する。そういうことだろう。無意識層にある不信。こいつをどう叩き潰すかが問題なのだと思うのです。
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵天・帝釈の仏性はよばれて我らを守り給う」(法華初心成仏抄・御書五五七ページ)
つまり、普通に信心して、題目を唱えていれば、「正報」である梵天・帝釈も、依報である様々な諸天も、法華経の行者を守護する。そういうことでしょう。
そして、そうした福と果報の切れたことに不満を持ち、それを怒りとして周囲にふり撒き、御本尊を疑うようなことになれば……それはもう、負の悪循環に陥って、地獄へ真っ逆さまということだろう。
ゆえに、苦しいときこそ、「大信力を」と御書にあることは、みなさんもご存じのはずだ。勿論、私も知っていますが、時々、忘れるんです。健忘君ですから(苦笑)。
なので、こうやって確認しているというわけです^^
御書の文言を見るに、結局は自分の一念でよびだした仏性が諸天の仏性をも呼ぶ。そうあるのですから、一念の重要性は間違いないように思います。心こそ大切なれ――ですね。
具体的にいえば、
夢かうつつかわからぬような「いねむり勤行」や、時間に追われての「スピード勤行」では諸天に法味を与え、善神の厚い加護をえることはできない。――と、先生は仰られている。
尽きるところ、「信心」というこころこそ、諸天の守護を引きだす最大の要因ということだ。
信心とは――つまり、「確信」であろう。この御本尊は理想の私自身であり、宇宙である。我即宇宙。宇宙即我。
そう確信しての勤行・唱題が大切だということであろう。
ひとつひとつのご祈念に関しても、これは絶対に叶う! という確信が湧くまでは祈りつづけ、その項目に対する不信や猜疑を徹底的に撲滅する思索をしながらのお題目が大切だと思う。
もちろん、「叶いましたね! ありがとうございます!」という誓願と感謝の題目でもよいと思うのですが、私は自分の中にある無意識な不信を湧き出させて、そいつを叩き潰す方法をとっています。でも策に走ってはいけませんね。あくまでも、信心であり、確信ですね。
「報恩感謝」とは「決意と感謝」なので、その辺りの意味も考えながら、個人個人が、自分にあった最高の唱題とはなにか? を探し出していくしかないようです。
先生のご指導にも、やはり、そうあります。
――一念の
“強き信心の一念”。これこそが大切なことが、明瞭に読み取れるではないですか。
諸天の守り。これは福運となり、果報(つまり、みんなが望んでいる功徳ですね:笑)となるとのこと。
であるから、諸天に守られないような勤行・唱題をしていると、福運が切れ、果報も尽きてしまうのだそうだ。
そうなれば、兵法(善後策や必死の努力)などまったく役に立たない、とそう大聖人は仰られている。
勤行・唱題という基本中の基本をおざなりにすれば、諸天の守護は無く、何をやっても空転する。そういうことだろう。無意識層にある不信。こいつをどう叩き潰すかが問題なのだと思うのです。
「口に妙法をよび奉れば我が身の仏性もよばれて必ず顕れ給ふ、梵天・帝釈の仏性はよばれて我らを守り給う」(法華初心成仏抄・御書五五七ページ)
つまり、普通に信心して、題目を唱えていれば、「正報」である梵天・帝釈も、依報である様々な諸天も、法華経の行者を守護する。そういうことでしょう。
そして、そうした福と果報の切れたことに不満を持ち、それを怒りとして周囲にふり撒き、御本尊を疑うようなことになれば……それはもう、負の悪循環に陥って、地獄へ真っ逆さまということだろう。
ゆえに、苦しいときこそ、「大信力を」と御書にあることは、みなさんもご存じのはずだ。勿論、私も知っていますが、時々、忘れるんです。健忘君ですから(苦笑)。
なので、こうやって確認しているというわけです^^
御書の文言を見るに、結局は自分の一念でよびだした仏性が諸天の仏性をも呼ぶ。そうあるのですから、一念の重要性は間違いないように思います。心こそ大切なれ――ですね。