2013年05月15日
諸天善神のこと
友人との対話の中で、諸天善神について語りあったことがある。そのとき、答えなんて出せるはずもなかったのだが、先生のご指導に諸天善神について述べている部分があったので、そこを抜き書きしつつ、私なりにまとめてみる。
・帝釈天、梵天王――以上が諸天善神の代表――私流に言えば双璧かな。
・帝釈天=六道の凡夫が住む(娑婆世界)の三界(色界=物質であり仮諦・無色界=精神世界であり空諦・欲界=有情[意識があり痛みなどを感じる]であり中道)の天地(大地と虚空)を領する善神。
また、四天王(持国、広目、毘沙門、増長)を従えて三十三天を統治しているといわれる。
・梵天王=清浄、静寂、浄行の義。
でもって、四天王とは――
・持国=国土を平和に治め民を守護する(国土世間・衆生世間の守護神だそうです。でもたぶん、五陰世間[色=見て・受=感じて・想=思って・行=行動し・識=記憶される]も含まれているだろう。なぜなら、世間と衆生を繋いでいるのが五陰である中道であるからです。三諦そろっていないとおかしいと思うからです。もっとも、四天王の働き、ないし、梵天・帝釈の働きが五陰になっているとも考えられますが、どちらにしろ、中道の働きは抜けていいはずがないと、私は考えるのです)
・広目=衆生を観察し、悪を見破り仏心を起させる守護神。
・毘沙門=財産富貴を守護する善神(説法する場所と説法を聞く者を守る――道場を物理的にも精神的にも守る)
・増長=衆生の所業の善悪を帝釈天に報告する。つまり、同姓同名御書にある善神でしょう。働きは、衆生を煩悩や不幸に近づけないこと。つまり「煩悩即菩提」の働きであろう。
――となるようだ。こうしてみると、梵天・帝釈とは、娑婆世界の人天(六道)の中で空仮中の三諦において衆生を守護するということだろう。帝釈は観察(監視して監督)し、梵天は生命を清浄にする。そういうことではないだろうか。
無論、自在天子といわれる(いわゆる第六天の魔王も)諸天善神である。善悪一如である。
先生はそれをこう仰られている。
そこには本来、善も悪も含まれる。最高の悟りの境涯である妙覚の仏の位ですら例外ではない。――と。
これは、平易に考えれば、聖人であっても難は避けられないということに当るのではないだろうか。
一念によって、最高善にもなるし、最悪魔にもなる、とでも言えばいいでしょうか。
魔は諸天の試しであり、難即功徳――つまり、現世安穏・後生善処ってことですね。
「難来たるを以って安楽と心得可なり」(御義口伝)ですね。
では、どうしたら諸天善神に守られるのだろうか?
先生はこう仰られている。
御本尊を受持し、広布に進む人を、いかなるときも助け、妙法流布を推進していく――これが諸天善神の仏前での誓いである。
つまり、――自分自身に常に、「何のため」という問いかけをして、広布を推進していこうという一念を維持していかなければ、いくら勤行・唱題をしたところで、諸天善神は守護などしないということであろう。妙法は厳格ですね。甘えは一切許されないのですね。覚悟あるのみです。
ようするに、帝釈・梵天に関しては、依正不二の正報の部分を守護する働きにあたるのであろう。
むろん他にも、鬼子母神や十羅刹女など数えきれないくらいの様々な善神がいて、それが依報での働きとなるのだろう。
それを、先生はこう仰っている。
主体である「正報」の人間が、妙法に基づいてこそ、「依報」である環境も諸天善神としての本然の力用を発揮する。
――つまり、あくまでも一念の本源は「正報」である自分の一念である。環境を変えたところで、自らの一念が広布のためにと定まっていなければ、「依報」で守られるはずなどないということだ。日蓮仏法は厳粛ですね。安易な甘えは許されないのです。またここでも覚悟ですね(笑)
また、広義では、二乗と菩薩も諸天善神であるそうだ。
例えば音楽について。観世音菩薩について、先生のご指導はこうだ。
「恩義口伝」には「観世音とは観は空諦・世は仮諦・音は中道なり」(七七五ページ)と示されている。
大意は「観」とは平等の心理にいたる己心の智慧の働き。世は世間であり、外界の差別相であるから「仮諦」である。「音」は有無の概念を超えたものであり、しかも己心と外界を媒介するから「中道」である。――と。
舎利弗も、同様に舎=空諦、利=仮諦、弗=中道となっていると御義口伝にあるそうです。
――つまり、諸天はみな空の三諦の働きに渡っているということでしょう。
こんなんでどうでしょうか? 参考になれば嬉しいですね^^
・帝釈天、梵天王――以上が諸天善神の代表――私流に言えば双璧かな。
・帝釈天=六道の凡夫が住む(娑婆世界)の三界(色界=物質であり仮諦・無色界=精神世界であり空諦・欲界=有情[意識があり痛みなどを感じる]であり中道)の天地(大地と虚空)を領する善神。
また、四天王(持国、広目、毘沙門、増長)を従えて三十三天を統治しているといわれる。
・梵天王=清浄、静寂、浄行の義。
でもって、四天王とは――
・持国=国土を平和に治め民を守護する(国土世間・衆生世間の守護神だそうです。でもたぶん、五陰世間[色=見て・受=感じて・想=思って・行=行動し・識=記憶される]も含まれているだろう。なぜなら、世間と衆生を繋いでいるのが五陰である中道であるからです。三諦そろっていないとおかしいと思うからです。もっとも、四天王の働き、ないし、梵天・帝釈の働きが五陰になっているとも考えられますが、どちらにしろ、中道の働きは抜けていいはずがないと、私は考えるのです)
・広目=衆生を観察し、悪を見破り仏心を起させる守護神。
・毘沙門=財産富貴を守護する善神(説法する場所と説法を聞く者を守る――道場を物理的にも精神的にも守る)
・増長=衆生の所業の善悪を帝釈天に報告する。つまり、同姓同名御書にある善神でしょう。働きは、衆生を煩悩や不幸に近づけないこと。つまり「煩悩即菩提」の働きであろう。
――となるようだ。こうしてみると、梵天・帝釈とは、娑婆世界の人天(六道)の中で空仮中の三諦において衆生を守護するということだろう。帝釈は観察(監視して監督)し、梵天は生命を清浄にする。そういうことではないだろうか。
無論、自在天子といわれる(いわゆる第六天の魔王も)諸天善神である。善悪一如である。
先生はそれをこう仰られている。
そこには本来、善も悪も含まれる。最高の悟りの境涯である妙覚の仏の位ですら例外ではない。――と。
これは、平易に考えれば、聖人であっても難は避けられないということに当るのではないだろうか。
一念によって、最高善にもなるし、最悪魔にもなる、とでも言えばいいでしょうか。
魔は諸天の試しであり、難即功徳――つまり、現世安穏・後生善処ってことですね。
「難来たるを以って安楽と心得可なり」(御義口伝)ですね。
では、どうしたら諸天善神に守られるのだろうか?
先生はこう仰られている。
御本尊を受持し、広布に進む人を、いかなるときも助け、妙法流布を推進していく――これが諸天善神の仏前での誓いである。
つまり、――自分自身に常に、「何のため」という問いかけをして、広布を推進していこうという一念を維持していかなければ、いくら勤行・唱題をしたところで、諸天善神は守護などしないということであろう。妙法は厳格ですね。甘えは一切許されないのですね。覚悟あるのみです。
ようするに、帝釈・梵天に関しては、依正不二の正報の部分を守護する働きにあたるのであろう。
むろん他にも、鬼子母神や十羅刹女など数えきれないくらいの様々な善神がいて、それが依報での働きとなるのだろう。
それを、先生はこう仰っている。
主体である「正報」の人間が、妙法に基づいてこそ、「依報」である環境も諸天善神としての本然の力用を発揮する。
――つまり、あくまでも一念の本源は「正報」である自分の一念である。環境を変えたところで、自らの一念が広布のためにと定まっていなければ、「依報」で守られるはずなどないということだ。日蓮仏法は厳粛ですね。安易な甘えは許されないのです。またここでも覚悟ですね(笑)
また、広義では、二乗と菩薩も諸天善神であるそうだ。
例えば音楽について。観世音菩薩について、先生のご指導はこうだ。
「恩義口伝」には「観世音とは観は空諦・世は仮諦・音は中道なり」(七七五ページ)と示されている。
大意は「観」とは平等の心理にいたる己心の智慧の働き。世は世間であり、外界の差別相であるから「仮諦」である。「音」は有無の概念を超えたものであり、しかも己心と外界を媒介するから「中道」である。――と。
舎利弗も、同様に舎=空諦、利=仮諦、弗=中道となっていると御義口伝にあるそうです。
――つまり、諸天はみな空の三諦の働きに渡っているということでしょう。
こんなんでどうでしょうか? 参考になれば嬉しいですね^^