あからさまに嫌な人なら近寄らないでおこうって思うけれど。
感情って実に厄介。
人を惑わすものだね。
いくらか接すると、この人ってこんな人かも…と、今までだってそれなりに感じてきた。
友達とか知り合いとかそういった付き合いは当然あるけれど、生活の基本は家族だったので、他はいい距離感を自然と作って付き合っていた。だから、この人ってこんな感じの人…くらいの感覚で良かった。
気心の知れた友達は、楽しい話をしたり励まし合ったりはしても、踏み込むべき部分でないところは、お互いが自然と感じ取って踏み込むことは無かった。
個々のあり方の尊重が自然とできていた。
けれどよーへいとコメント欄で向き合い始めてからは、そういったあり方が一変した。
今までいい距離感で付き合えていた人達は、適度な距離感を取りつつ自分の考えを話し、あたしの考えも聞いてくれた。
そんな人達には、あたしの話すことが理解しがたいものでも、似た経験をしていて理解出来そうなものでも、そういうことは全く関係なく、どんなものであっても個々で感じることは違うから、あなたがそう言うならそれはそれでいいという考えが根本にあった。
こういう話になると、そんなのは当たり前で、じゃああなたも否定や反発なんていらないじゃないと、揚げ足を取られたりする。
これは失言のつもりではないから、揚げ足というのは少し語弊があるけれど。
あたしの揚げ足を取るような行為…そんな行為の裏に何があるのかが、あたしには分かってしまう。
よーへいと向き合い始めてからは、ネット上での短いコメントからも、世の中で称賛されているような誰かの文章からも、書き手がどんな人で、何故それを書くのかが分かるようになってしまった。
それは感覚からのものよりも、文章に現れているものを読み取って分析し、そこから導き出された理由のあるもの。
感覚的にも感じはするけれど、理由が分かるだけにそれよりももっと明確。
こんなことを書いても、このことを理解できるのはよーへいくらいだと思う。大概はそんなはずない、分かるわけがないで終わる。
そういった先入観に縛られて。
けれど世の中は、人が作った先入観や常識等で説明出来るほど単純に出来ていない。
そういったものこそが、人をいらない枠にはめ込み、お互いを理解出来なくする壁を作っている。自分が何をしているかも分からない状況を作っている。
あなたがそう言うならそれでいいと言ったスタンスの人達は、先入観や常識、概念等々に捕らわれずに、自分の考えすらにも縛られずに他を受け入れることが出来た人達。
柔軟な頭と他人を広く受け入れられる心を持っている人達だった。
だから励まし合える部分では励まし合い、自分と違う考えであっても、お互いの考えを尊重すべきところは尊重し、いい関係を続けることが出来た。
離れなければと思った人達は、それが出来なかった人達。
何事も無理をする必要はないし、したくないこと、しようと思ったけれど到底出来そうに無いことはする必要もない。約束したことですら、出来なくなったら仕方ない。
あたしは自分の考えやあり方を、他人に強要するつもりは微塵もなかった。
けれど時に必要以上に入ってきて、あたしが望まないことを強要し続けたから、じゃああなたもやってみなさいとなってしまった。感じてみなさいと。
あなたのしていることが、本当にあたしに必要なことなのか考えているの?と。
それは家族でも友人でも、ネットで出会った人でも同じ。
酷く苦しさを感じてからは、全ての人に嫌だと伝えてきたし、必要ないと伝えた。
どんなにあたしを思ってくれてのことでも、必要ない、不快、嫌いと感じるのもはそう伝えた。
勿論よーへいにも。
そんなあたしの言葉に対して、それぞれが取った反応を深く見ていった。観察していた。
そして行動の大元に大きな違いがあることに気付いた。
よーへいと子供達はあたしへの愛情から、始めは理解できなかったことでも、何故そう主張するのか?を考え、変化してくれた。
それでもよーへいは嫌だと思う行動を取り続けていたので、その部分だけを深く観察してみた。
すると、よーへい自身では抑えられない衝動があったり、過去世からのことや現世での問題を伝えようとしての行動だったのが分かった。
自分がしていることを分かった上での行動だと理解できた。
他の家族は、始めはとても分かり合える状態ではなかった。
先入観や常識、概念で縛られているだけでなく、自分自身の固定したあり方や考え方を変化させることが出来ずにいたから。
何度も衝突しながら、あたしの考えが何故こうなのか?を、筋道を立てて何度も何度も説明した。根拠や理由を伝えた。
それでも固定されて岩のようになっているあり方や考えを崩すのは大変だった。
夫は徐々に考えてくれるようになり、それが当たり前になってくると、急激に自分を変えていった。
母は生真面目さがあるのでとても大変だったけれど、息子達のあり方や、長男が本音で向き合うこと大切さを伝え続けてくれたことで、自分を縛っていた考えを漸く手放すことが出来た。
二年半かかった。
父が亡くなってから二年半。
あたし達家族は、本当に向き合うということはどういうことか?何故本音で向き合うことが必要なのか?お互いを尊重しあうには何が必要か?等々を、ぶつかり合いの中で深く考え続けた。
そして、お互いが大切に思っているということも知った。
よーへいとの向き合いや、よーへいへの感情とはまた違った、家族というものの向き合いや感情があること、関わり方があること本当の意味で知っていったのだと思う。
離れた人達とも、あたしはそんな風になりたかった。
好きだと感じたから。楽しい時間を共に過ごしたから。決して初めから嫌だと思っていたわけじゃない。
でも「好き」という感情こそが、無意味に自分を縛っていたものだと知った。
相手に何も求めない好きならいい。
けれど、家族や友達、恋人等のように、想いあいたいという気持ちが根底にある関係は、時にその「好き」を見直さなきゃならないと分かった。
求めなければ相手の気持ちはどうだっていい。
でも共に生活したり、いい時間を過ごしたり、時には叱ってもらったり、注意してもらったりする人には、同じ好きが欲しいと無意識にも思っている。もっと深く知り合って、分かり合いたい、気楽に付き合いたいと望んでる。
自分がそうしようとしても、相手が自分の考えやあり方を優先させて、望まないことをたとえやんわりとでも押し付けてきたら?
楽しい時間を共に過ごせる人のことなら、これくらいいいか!と受け入れてしまう。
楽しい時間の共有は、相手への「好き」という感情に変わっていく。
行動ではそれほど現れていなくても、自分に向けられた優しい言葉は、相手への「好き」という感情に変わっていく。
相手への好意は、本当は自分の中にある「嫌だ」や「望まない」を越えて、必要以上に相手を受け入れてしまう元になる。
あたしはこうやって、必要以上に相手を受け入れてしまっていた。
笑顔を見たなら、嫌だや望まないは、更に心の奥へと引っ込んでいく。
悲しそうな表情を見たなら、嫌だや望まないは、更に更に引っ込んでいく。
本当は自分の中にあるはずの「嫌だ」や「望まない」は後回しにされ、相手を受け入れることを頑張ってしまう。
こういう傾向は、親子や夫婦、恋人や友達、先生と生徒、上司と部下等々、色んな間で当たり前に起こること。
あたしはそんな当たり前に起こることを、当たり前に真剣にやり過ぎてしまった。
やり過ぎたことで、相手にも過剰な行動を取らせてしまっていた部分があった。
彼らの中にあったのは、分かり合いたい、知り合いたいというものよりも、分かってもらいたい、知ってもらいたい、認めてもらいたいという感情。
あたしはいい関係が作れなかったり、相手が理解できる状態でない場合は、それらを求めない。無駄に労力を使ってしまうから。
本当の自分の気持ちに素直になっていたなら、即刻離れていたと思う。
あたしがそうなれなかった上に、自分の考えやあり方を優先して知る気も分かる気もないのに、知りたい分かりたいと言う相手の要望にも応えようとしてしまった。
自分の考えやあり方を一度壊さなければ、本当の意味で相手を理解することはできない。
人は自分とは違うことを意識して見ていくのと、所々で都合よく同じはずと無意識にも思って見ていくのとでは違う。
好きや楽しいという感情は時にとても厄介。
相手の本質を見ようとしない自分を作ってしまう。そして相手の理不尽な行為さえも勝手に許す。
相手の優しい言葉や笑顔も、自分を惑わす元になる。
そういうものから時に離れ、静かな状態で自分の素直な気持ちと向き合い、相手の本質を知ろうとすることはとても大切。
そういった意味では、よーへいとの向き合いはとても良かった。
実際は会ったことが無いから、顔もちゃんと分からない
写真は見るけれど、写真なんてその時その時で全く違う。リアルタイムで見る表情とは印象が違う。
声もラジオとかでは聴くけれど、これだって普段の話し方や声とは違うはず。
どれもこれもリアルだけどリアルじゃない。
だから心だけをずっと見てきた。
裏でどんな行動をとっているかをずっと見てきた。
そこから本当のよーへいを知った。
容姿でも声でも、表向きの性格でもない、表に出ていないものから本人を感じた。
それでこの人ならと思えたから、安心していられるものがある。
ツインレイという言葉なんて、なんの保証にもならない。永遠を作るものでもない。
どんな言葉でも本当は空っぽ。
言葉に意味を持たせるのは自分自身の行動で、伝えたいと思った相手が心でも体でも感じてくれて初めて、言葉そのものが真実になる。
家族という言葉も、夫婦という言葉も、恋人や友達という言葉も全て同じ。
法を作って決めても、取り締まっても、それはなんの意味も持たない。
心で体で感じて、それが本当に大切だと思って、続いていく努力をしなければ続くものなんてない。
心は縛れない。
縛られるのは、縛られていると自分が無意識にも感じているから。
心が繋がっていること以上の保証なんて、本当は何処にも無いのだから。