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リズと青い鳥

 

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 映画を思い起こしながらぼんやりと「鳥籠が、鳥を探しに出かけていった」というカフカアフォリズムを思い浮かべていた。京都アニメーション制作、監督・山田尚子によるアニメ映画『リズと青い鳥』。テレビアニメ『響け!ユーフォニアム』シリーズのスピンオフと位置づけられる本作だけれど、恥ずかしながら原作もアニメも未見で、あくまで独立した一本の映画として鑑賞した。シリーズ未見の人でもなんら問題なく楽しめるよう作られていたが(実際「『聲の形』スタッフ」という宣伝文句が強調されていたから、戦略的なことなのだろう)、もちろんシリーズ履修者にしかわからない、共有しきれていない文脈が多々あると思う。一方で、シリーズのファンであっても面食らうような作品になっていたのではないかという気もする。どこをどう切り取っても山田尚子のフィルム、それでいて過去の監督作とはまったく別種のアトモスフィアをまとった作品になっていたからだ。淡くやさしい色彩や線のイメージを通底させながら、どこか危うく不安定で、ときには攻撃的なまでの実験性をみせつける。手や足をとらえる短いショットの連鎖であるとか、テレビアニメ『けいおん!』から変わらない山田尚子らしい符合やテクニックを随所にちりばめつつも、それらが繊細なまま過剰で過激なのだった。山田尚子は、なんだかとんでもない方向へ進化してしまった感じがする。

 一度観ただけではとても汲みつくせないような情報とエモーションの洪水なのだけれど、あえて一度観たインプレッションのまま、ここで文章に起こしてみようと思う。暴力的なまでの「喩」と音楽的な「ズレ」、多重化した「物語」およびその解釈をめぐる主題の数々がひたすらに奉仕しつづけるのは、ひとえにふたりの主人公――鎧塚みぞれと傘木希美――の関係性と感情の機微にほかならない。ざっくり「青春」とか「百合」とひとことで言ってしまえば簡単なのだけれど(実際、端的に恋愛映画としても「読める」、きわめてすぐれた「百合映画」だと思う)本作における「解釈」の問題はもっと複雑で困難な様相を呈している(呈してしまっている)ようにも思う。おそらく二度、三度と観返すうちに印象はどんどん変転してしまうだろう。だからこそ、いまの記憶のまま、映画のなかで起きたことをひとつひとつ思い出しつつ、あらためて文章で整理してみようと思ったのだった。

 ……実際に書いてみたところ感想のようなレビューのようなよくわからない文章になってしまった。鑑賞体験に照らし合わせながら解釈を展開していくと、あらすじや場面をある程度こまかく書きとめる必要が出てくるため、どうしても文章全体が長大化してしまう。いちおう映画を観た人向けに書こうとしていたつもりなのだけれど、だれに向けた文章なのかよくわからなくなってしまった。途中までであればちょっとした作品レビューのようにも読めるかもしれない。なので文章の半ば、映画の結末部分に触れるところの前段においていまいちど「ネタバレ注意」の警句をうながすことにする。中盤までのあらすじ程度であればネタバレを食らってもかまわないという人については、そこまでなら読んでいただいても大丈夫だと思う。とはいえ、多少のネタバレ程度で作品のプレゼンスに影響があるとも思わない。そもそも本作『リズと青い鳥』は、具体的な出来事や大きな物語を徹底的に排して展開される映画なのだから。そのありようは、どちらかというと「音楽」に近い。だからなおのこと、むやみやたらに言葉を弄するのは無作法な気もするのだけれども――あえて言葉にしてみることで見えてくることもある、とは思う。鑑賞体験をモノにする、という感じだろうか。とにかく、以下より順を追ってみていきたいと思う。

 

※以下、中盤までのネタバレを含みます。

 

 「ずれ」ること――音楽

 はじめに息を呑むのはオープニングだろう(映画を観た人であれば誰しも賛同してもらえると思う)。『聲の形』でもノイズのような音楽で強烈な印象を残した牛尾憲輔の劇伴に合わせて、かつかつかつ、とアスファルトを叩くリズミカルな靴の音が聞こえてくる。牛尾の手掛ける劇伴は(音楽知識に疎いのでどう表現したものか困るのだけれど)とりわけグロッケンやピアノのこまごまとした音が目立つ、訥々とした、ぱらぱらと散っているようなはずみのある音楽で、そこへ響きあう靴の音もまた音素のひとつのように機能する。実際、映画全体をとおして環境音が音楽のように作用しているのも本作『リズと青い鳥』の大きな特徴で、原作『響け!ユーフォニアムからして「音楽(吹奏楽)」を題材にしたシリーズであることを考えれば、こうした「音」への目配せはなるほど当然のことなのかもしれない。唯一、そこに違和感を――その違和感が観客の覚醒をうながすのだけれど――おぼえるとすれば、それらの「音」が「ズレ」により音楽を構成しているところだろう。「合奏」と言うとおり、吹奏楽は「合わせる」ことで音楽を構成している。むろん本作『リズと青い鳥』においても「合うこと」「合わせること」は主題化する。それでいて、作品のなかでもとりわけ目を引く「音楽的な」シークエンスが、ぱらぱらと散らばるさまざまな音=「ズレ」によりその音楽性を担保しているところに、本作が旧来のシリーズとは一線を画す、あくまでも「山田尚子の監督作品」であることの主張が含まれているようにも思われるのだ(だからなおのことハッとさせられる)。

 かつかつかつ、と踵を鳴らして校門をくぐりやってくるその人が、主人公のひとり、鎧塚みぞれだ。おもむろに、みぞれは手前の階段に腰掛け、スカートの丈からすらりと長い脚を見せる。目元のクロースアップ。もの憂げな瞳と、そこにかかる前髪のこまやかな表現にまた息を呑む(音楽と同様、これらすべてが「散らばっている」ようだ)。つづけざまに足音が響く。ひとりの女子生徒がみぞれの横を通りすぎる。三たび、快活な足音が聞こえてくる。もうひとりの主人公、傘木希美のものだ。その姿を認め立ちあがったみぞれは、希美に追随して歩きはじめる。下駄箱、希美が靴を脱ぐ。みぞれも脱ぐ。希美が上履きに履き替える。みぞれも履き替える。角を曲がる。希美が水飲み場で口をゆすぐ。みぞれもつづく。やがてふたりは音楽室に着き、練習をはじめる。

 ふたりの歩く動作、床を踏みしめるたびにかつかつ、きゅっきゅっと鳴る音のひとつひとつが音楽として響く。みぞれの行動は必ず希美に半歩遅れる――言うまでもないことだけれど、希美と同じ動作をするということは、まずもって当の希美がなにをするのか目撃しなければならず、必定「遅れ」をはらむ――が、その遅れが「ズレ」を形成し、その「ズレ」が「音楽的に」心地いいのだった。吹奏楽的な「合わせる」こと、「合うこと」への渇望に対し、もう一方でたしかに存在する「ずれること」の音楽性。映画はこのジレンマを軸に展開するといってもいい。実際、希美と「合うこと」をのぞんでやまないみぞれの想いとは裏腹に、ふたりは最後まですれ違いつづけてしまう。『リズと青い鳥』は、いわばそうした「すれ違い」の「音楽」とでもいうべき作品なのだった。

 

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 合わせること――物語

 みぞれにとって、希美の存在は自分のすべてなのだという――それほどみぞれは希美に入れ込んでいる。端的に依存ともいえるし、あるいは純粋な恋愛感情として観客の目にはうつる。先に述べたシークエンスにおける一連の「追随」の姿勢、あるいは音楽室でふいに、隣にすわる希美の肩に頭をもたせかけようとするみぞれのそぶりを見れば、それらは一目瞭然だろう。一方でふたりは決して「似ている」とはいえない。たとえば他の部員との付き合い方など顕著で、和気藹々と周囲に話しかけられる希美に対し、みぞれのほうは言葉少なで根本的に人付き合いが苦手なようだ。また、冒頭の音楽室のシーンでは希美が「好き」という言葉を頻繁に用いるが、そんな希美に恋愛感情のような「好き」を向けているみぞれと、ここも「好き」の度合いにおいて根本的に異なっている。そして、とりわけ大きな違いとなるのは「物語」に対する考え方の相違かもしれない。映画は、ふたりがいどむ合奏曲「リズと青い鳥」の元となる、同名の童話の「解釈」をめぐる、いわば「物語の物語」としての側面をそなえている。

 童話「リズと青い鳥」の主人公、ひとりぼっちの女の子であるリズは、ある日、小さな青い鳥を部屋に招き入れる。その青い鳥がなんと少女の姿に変わり、リズの唯一の親友となったのだった。寝食をともにし、強い信頼関係でむすばれるリズと青い鳥の少女――序盤は、この童話の物語がみぞれと希美の物語と並行して描かれる(どことなくジブリ風タッチのアニメーションだ)。この物語を元にした曲を合奏するにあたり、みぞれと希美は物語を解釈し、その「意図」ないしは「心情」に移入する必要があるのだった。というのも、ほかならぬみぞれのオーボエと希美のフルートが、一方がリズを、もう一方が青い鳥の少女を示しているからだという。みぞれは、自身を孤独なリズになぞらえる。対する希美は、みぞれにとっては、大空に羽ばたく青い鳥とうつる。それがみぞれなりの「物語」解釈なのだった。

 みぞれが生物室でひとり、水槽のなかのフグを見つめているシーン。ふと水槽越しになにか光がちらちらと明滅して、思わずみぞれは目を細める。顔をあげて光源のある窓の外を見やれば、向こうの棟には音楽室があり、ちょうど希美が練習にはげんでいる姿が飛び込んでくる。希美のフルートが反射した日光が、みぞれのもとまで届いていたのだった。みぞれに気づいた希美が届かない声でなにか言いながら大きく手を振り、対するみぞれも胸もとで小さく手を振り返して応える。オープニングに負けず劣らず美しいシーンだと思う。「言葉で伝える」ことの不得手なみぞれが、言葉を介さずして、偶然により希美と心を交わしあう(交わしあったような実感を得る)。コミュニケーションの苦手な、あるいは不可能な者に対する眼差しという点でいえば、前作『聲の形』は言わずもがな、テレビアニメ『たまこまーけっと』の傑作エピソード「クールなあの子にあっちっち(三話)」などもぼんやり思い起こさせた(もっとも、これは山田尚子が演出を担当した回ではないのだけれど)(そしてこう書きながら、それほど目立つ共通点もなかったような気がしてきたのだけれど)。同時に重要なのは、希美を見つけるのが「窓越し」であることだろう。実際、作中いくども鳥が窓の向こうを横切るが、本作においてはむしろ、窓の向こう=「外」にいるものはみな「青い鳥」のようにうつる。窓の向こうから光を差し向ける希美の姿は、とうぜんみぞれにとっての「青い鳥」の印象を強くするはずだ。

 

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 みぞれが自分と希美の関係を「リズと青い鳥」の物語に照らし合わせていく過程は、多くの観客にとって「危うい」とうつるかもしれない。だとすればみぞれの「危うさ」は、たとえば依存性や情動それじたいというよりも、むしろその過剰なまでの「物語」ひいては「記号」への拘泥にあてられるのではないか。あたかも、みぞれはシニフィアン(記号)にぴったり当てはまるシニフィエ(意味するもの)に拘泥しつづけているようだ。あるいはみぞれ自身、「希美というシニフィアン」に対する「シニフィエ」になりたがっているかのようにも見えてくる。みぞれは、希美のために、その希美との合奏のために、適切な「意味」すなわち「物語の答え」を探してやまない。「物語」にがんじがらめなのだった。換言すればそれは「喩え」の問題でもある。みぞれは自身をリズに、希美を青い鳥に「喩え」て世界を解釈しようとする。みぞれが手にする「青い鳥の羽根」や、もてあそぶ「赤い糸」も同様に、たえずみぞれにつきまとうのは「暗喩」の問題なのだった。そんなみぞれの「危うさ」に感情移入してしまうとすれば、作品全体がその「解釈」を後押ししてしまうからだろう。たとえば、明確に「鳥籠」の暗喩として示される校舎。あるいは、フグに餌をやった、というみぞれに対し、「リズみたいだね」と言う(言ってしまう)希美。他にも「喩え」は作中いくども自己言及的に提示される。その総体が「危うさ」と独特の緊張感をはらみ、また「息苦しさ」をも呼び起こしてしまうのだろう。

 「息苦しさ」の原因はまた、本作が「学校の外」を完全に遮断していることからもうかがえる。冒頭でふたりが高校に足を踏み入れて以降、映画の最後にいたるまでのあいだ、学校の「外部」が顔をのぞかせる瞬間は絶えてない。明確に意図した演出であることをうかがわせるのが、オーボエの後輩・剣崎梨々花とのシーンだ。希美とはまた異なるやり方で、後輩とのコミュニケーションを果たしたみぞれは、梨々花と遊びの約束を取りつける。しかし、実際におこなわれたはずの「プール遊び」の様子は梨々花の写真によって間接的に提示されるのみで、直接の映像としては起こされない。また、その前段となるシーンでは梨々花が大会に出るためのオーディションに落ちたことを嘆き、それがみぞれと親密になる契機ともなるのだが(ここでもみぞれは表層的な――たとえば「かわいい」――要素ではなく、「オーディションに落ちた」という「物語」に移入している、と解釈することもできるだろうか)「オーディション」自体の扱いは言葉にされるのみでそっけなく、総じて学校の「外部」が徹底的に省かれているのだった(ひるがえって、徹底された室内劇において緊張感を維持することのできるアングルや編集の手数の多さにも驚かされるのだけれど)。作品全体をかたどる「閉鎖」の雰囲気は同時に、やがては映画は「外」へとひらかれるだろうという予感をも呼び起こす。冒頭で学校=映画に足を踏み入れた希美とみぞれは、最後には学校=映画から出ていかなければならない、という確固たる予感。そして先回りして言えば、予感は的中する。一方は物理的な仕方で、また一方は未来の切実な問題として提示される。いま高校三年生のふたりは、やがては卒業して学校を去らねばならない。進路の分岐こそが、わずかずつずれながらも同じように歩を進めてきたふたりを決定的に分かつことになるのだった。

 

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※以下、結末部分のネタバレを含みます。

 

「ずれ」が「ずれ」ること――交錯

 傑出した音楽の才をもつみぞれは、指導教員の聡美から音大に進学することをすすめられる。そのことを知った希美もまた、音大への進学を示唆してしまう。みぞれにとっては希美がすべてなのだから、「希美が行くなら私も行く」というのが一貫したみぞれの態度だった(これを受けた部長・吉川優子の表情が曇り、一瞬だけ剣呑になるシーンの緊張感がすばらしい)。しかし、ふたりの「ズレ」はどんどん顕在化していく。「リズと青い鳥」の合奏がどうしてもうまくいかないのだ。同じく音楽の才に秀でた二年の高坂麗奈から、ふたりの息が合っていないことを指摘されてしまう。対比されるように提示される、シリーズ本編の主人公格ふたり――黄前久美子と麗奈の演奏は(「強気のリズ」とは称されるものの)なるほどぴったりと息が合っている。久美子と麗奈がセッションしている場所は、校舎の「外」。それを学校の窓越しにしか見ることのできないみぞれや希美にとって、久美子と麗奈もまた「青い鳥」だったのではないか。

 指導教員の聡美に、みぞれは言う。どうしてもリズのとった行動が理解できないのだと。愛する青い鳥とずっと一緒にいられるのなら、自分ならば、鳥籠からみすみす逃がすようなことは決してしないはずだ、と。聡美はみぞれに提案する。リズの行動ではなく、気持ちを理解するようつとめてみてはどうかと。一方そのころ、希美もみぞれに対する心境を吐露しはじめる。みぞれと自分のあいだにある、決定的な才能の差のこと(みぞれと異なり、希美は音大への進学をすすめられなかった)。みぞれがなにを考えているのかわからないときがあること。「かわいい」や気軽な「好き」の次元にいる希美、後輩にも難なく接することのできる希美は、いわば「表層」の付き合い方をしてきたのではなかったか。一方のみぞれは、わざわざ言葉や行動や表面にあらわすことはなくても、自分も相手もみな「心情」すなわち「物語」を内に秘めたものとして接してきたはずだ。だからみぞれは、リズの「心情」=「物語」の解釈によって、その真価を発揮する。「愛するからこそ青い鳥を放す」リズの気持ちにようやく合点がいき――もちろんそれは、自身がリズとして、希美という青い鳥を放すこととイコールなのだけれど――覚醒したみぞれが合奏にいどむシーンは圧巻だ(冴えわたるオーボエの演奏に、苦しげな希美の表情が重なりあう。涙目のように画面がゆがむ演出も印象的だ)。この合奏によって、みぞれと希美のふたりに決定的な「入れ違い」が起こる。リズの心情と完全に共鳴したみぞれが覚醒した姿は、あたかも大空に羽ばたく「青い鳥」そのもののようであり、リズ=みぞれから解き放たれる「青い鳥」希美のほうがむしろ、その圧倒的な才能の差を目にしたことで、(自分ではリズだと思っている)みぞれに「青い鳥」を幻視してしまうのだった。合奏場面の手前、「リズ」と「青い鳥」の「取り違え」を観客にうながすシーンでは、画面分割により左右に分かたれたみぞれと希美の顔が、あたかもふたりでひとりの人間であるかのように重ねあわされる――リズと青い鳥を同じひとりの役者(=本田望結)が演じているように――のだが、このときふたりの顔が完全にひとつになるわけではなく、微妙にずれたままであることに注目したい。また、合奏シーンとオーバーラップする、羽ばたく青い鳥のアニメーションは――これは完全に思い違いなのかもしれないけれど――どうも二羽の鳥の羽ばたきを鏡合わせにして無理矢理一羽にしているような動きをしている。二羽が一羽になろうとするために、かえって「ズレ」が顕在化してしまっているようなのだ。みぞれの本願――希美と一緒にいること、一緒になること、そこから一歩踏み出して「愛するからこそ青い鳥を逃がす」ことに思い当たったとき、今度はそのことにより希美とすれ違ってしまう。「ズレ」が「ズレ」ているのだった。

 

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 合奏を終えてふと、いつの間にか希美の姿が音楽室にないことに気づいたみぞれは、ほどなく窓の向こう、棟をへだてた生物室にその姿を発見する。みぞれがうずくまってフグの水槽を見つめていた生物室、あたかも青い鳥を見つけたかのように、窓の向こうの音楽室にいる希美と手を振り交わしあった、あの「リズみたいな」みぞれがいた生物室に、今度は希美がいる。「青い鳥のような」希美がかつていた音楽室に今いるのは、みぞれのほうなのだった。ふたりの「入れ違い」を決定づける見事な演出だと思う。音楽室と生物室が完全に隔絶しており、そのいわば「中間」となる場所が不在であることにも注目したい。前作『聲の形』における、主要な場面でもっとも効果的な機能をはたしていた「場所」は、あちらとこちらをへだてるあいだに架けられた「橋の上」だったはずだ。映画『リズと青い鳥』において、ないしはみぞれと希美のコミュニケーションにおいては、「中間」や「媒介」の存在がゆるされていない。

 映画はラストスパートになだれこむ。快活な印象からうってかわって言葉少なな希美に対し、みぞれが大胆にも「大好きのハグ」を求めて両手を広げる(希美の視点からみたとき、そのシルエットはあたかも空に羽ばたく鳥の翼のようにみえる)。しかしもう待つことはしない、みぞれは自分から希美に抱きつく。「大好きのハグ」の慣例にならい、希美の好きなところをたくさんあげつらうみぞれ。「希美の全部が好き」。対して提示される希美の「好き」はひとつ――「みぞれのオーボエが好き」。両者を決定的に分かつ才能の壁を示すと同時に、みぞれの「好き」と希美の「好き」の違いを残酷なまでに示しているようでもある。「物語」の解釈により昇華したみぞれは、今では「ハグ」という「行為」により羽ばたき、「表層」ないしは「行為」を重んじていたはずの希美が、今度は「心情」ないし「物語」の重さで飛び立てなくなってしまったようにもうつる。ただしそれは、観客が「リズに自己を代入するみぞれ」に移入して映画を観ていたために、かえってそのような「入れ替わり」の印象が強まる(実際、映画はまずそのように観てもらうように出来ているとは思うが)だけであって、本来その「心情」=「内面」と「表情」=「外面」というふたつの要素は相反するものではなく、もともと両者にひとしくそなわっていたものだったのだろう、とは思う。そもそも「解釈」というのは事後的なものでしかないのだから。ふたりは同じように同じであるために、決定的にたがえてしまうのだった(これも「ズレ」の「ズレ」だ)。とりわけハグを交わすシーンにおける抑制された、それでいてエモーショナルなアニメ表現は感動的だった。発話に合わせてわずかにふるえる喉頭。うろたえるように、こらえるようにせわしなく動く瞳。涙をこぼさずして、多くを語らずに語りおおせてしまう表現の多彩さにあっと息を呑んでしまった。

 最初に踏み入れた学校=映画は、最後にはきちんと出ていかねばならない。音大を目指すのであろうみぞれは、冒頭と同様、練習のために音楽室へとおもむく。対する希美は過去問をたずさえて受験勉強をしに、図書室へと向かう。二階と一階。ふたりがそれぞれ別の方向へと歩いていくシーンは、ふたたび印象的な劇伴とともに、オープニングの変奏をなしてもいる。みぞれが目を向ける音楽室の窓の向こうにも、希美が見つめる図書室の窓の向こうにも、同じように鳥影がすばやく横切っていく。たがいちがいに「青い鳥」を幻視しているのかもしれない(それでいて、その鳥はおそらく同じ鳥なのだ)。ふたりは文字通り学校をあとにする。冒頭と呼応する、唯一の下校シーンをラストのラストに持ってくるところも徹底している。そして帰り道、ふたりの発話が、最後の最後にただ一度だけ重なりあう。作品で唯一ふたりがシンクロする瞬間だ。直後にみぞれが発する「ハッピーアイスクリーム!」を希美が受けとめそこねるのも、「一瞬のシンクロ」がかえってなにげなく、それゆえに貴重なものであることを強調する。それは映画の終わり、青春の終わりをはっきりと告げるようでもある。

 

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 「解釈」「喩え」「記号」「物語」を完膚なきまでに破壊し、外の世界への脱出を作品に要請するのではなく、ただそれらを青春のひとときとして、確実に終わるもの、そうあるべきものとして、入った場所からただ静かに出ていくという、それだけを描いて表現してみせたところに気概を感じたのだった。物語が物語であること、またそれらをそのようにとらえることの危うさを作り手としてはっきり自覚しておきながら、それでいてその機能を登場人物たちに内面化させつつ、かつ肯定も否定もしないままに作品としてあらしめるという作品のあり方はちょっとほかに例をみない。たとえば前作『聲の形』においては(ヒロイン西宮の「恋心」をはじめ)登場人物たちがめいめい抱え錯誤する「文脈」のひとつひとつが一種の「ノイズ」として了解されていたように思うのだが、本作『リズと青い鳥』もそれと地続きであり、本来そこには存在しないはずの「文脈」や「記号」や「物語」を幻視し、それにしたがって行動してしまう者たちの「危うさ」を描くものへ、山田尚子ジュブナイルは昇華されてきているように思える。同時に、観客であるわたしたちがそこに青春のきらびやかさのようなものを感じるとき、わたしたちもまたそこへさまざまな「ノイズ」としての「文脈」を持ち込んでしまっているのかもしれない。所々に散りばめられた「暗喩」。暗喩があること、それじたいがすごいわけではなく、ただ読ませること、読んでしまうことを「そういうもの」だとして、肯定もせず否定もせずただそこにあらしめてしまうのが山田尚子という作家のおそろしさなのかもしれない。そうしてそれらは「記号」や「物語」の力が強いアニメーションでしか表現できないものなのだろう。

 いろいろ書いてみたものの、一度観ただけなので細部の間違いも多いだろうし、また味わいつくせなかった部分も多々あっただろうと思う。小心者なのでのちのちしれっと記事を書き換えたり消したりするかもしれないが、とりあえず一度目のインプレッションは以上のような具合だった。近いうちに二度目を観る予定なので、今度は希美に「移入」しながら観てみようかしら(そう、作品はこうした「移入」を許してくれるのだ)。あと、山田尚子監督でアニメ映画版『最愛の子ども』が観たい、とちょっと思った。