アンコウさんと管理人の、学会の信心に対する質疑応答の専用部屋です。アンコウさんからの学会に関する様々な疑問点に対して管理人が答える、と言う形になります。(過去に行った「対話」とは別種のものです)
学会知識を持っている人には面白みもない話題でしょうけど、部外者にとっては意外に参考になる事項もあるかも知れません。
興味のある方は読んで、そして学会理解に繋がっていけると有難いと思っています。
更にそれ以上に興味のある人は、「Q&A外部部屋」を設けています。(書き込みは自由ですが、基本のルールは厳守して下さい)
胸躍る仏罰(説明)…アンコウさんのコメントからこの様な話が始まりました。若しよかったら参考にして下さい。
お部屋の設置ありがとうございます。
何が私に何ができるのか、責任を感じてしまいます。
創価学会や宗教に関して、現実ではなかなか聞けないことを聞いてみたいなと思っています。
もう10年以上も前、都内の居酒屋で同僚の男3人と朝まで創価学会のことを話した思い出があります。
その中に会員が1人居ました。
ああ、そういうことだったのかと、一般人には分からない事情も知ったり、私にとっては有意義なものでした。
世界を知ることは宗教を知ること。
またこの国の世の中を知るのも、そういう居酒屋での宗教や政治や様々な事情を知ることなのかもしれません。
よろしくお願いいたします。
こちらこそ宜しくお願いします。
出来るだけ易しい話にしたいと考えています。
「宗教対立について」
極差と極右の対立、イスラムとキリストの原理主義者らの対立、創価学会と日蓮正宗との対立などなど。外の者からみればその思想の違いが分からず似た者同士の対立に見えることが特徴としてあるように思います。
全く違う宗教や思想ならば対立は起こらず共存していける。
しかしながら似ているが故に存続の危機が相互にあるからかもしれません。
先日、町会の役員の婦人から「〇〇さんは、創価学会に嫌がらせを受けて引っ越したんですよ」という話を聞きました。これまで創価学会の執拗なつきまといから逃げた何軒かの家族もあると聞きました。
触らぬ神に祟りなしですから、深く内容は問いませんでしたが、こうした対立する宗派、批判者、辞めたいと願う人達に対しての攻撃は、相手を悪だと決めつけて社会常識から逸脱して激しいものだとの印象があります。
それは先に話した善悪二元論的な思考のせいだろうと思いますが、日頃、「平和や文化の大切さや平穏な心の在り方」をコマーシャルしていることと行動が極めて矛盾しているように思います。
どのような理由があるのでしょうか?
アンコウさんへ
先ず,本質的な話を記しておきます。それから私の考えを述べようと思います。
「疑問・批判」には、大まかに分けて二つの考えがあるようです。一つは「正常な」疑問、もう一つは「中傷的な」疑問。
正常な疑問や批判は「道理」に基づきます。理のある(理屈の通った)非常に真っ当な疑問です。誰が考えてもそう言う疑問になるだろうな,と言うような常識的な疑問です。
正常な,理のある疑問や批判からは、常識的な答えが導き出されます。正常な批判に対しては正常な話が出来ますから,結果的に当然だと言えます。
もう一つの中傷に基づいた疑問からは,まともな答えは何も出てきません。アンチ系のよくある学会に対する疑問、
「学会は暴力的な集金組織だ。そんな巨大なカルト組織が、一体どうして未だに存在するのでしょうか…?」
と言う,そもそも論として偏頗な決め付け的な疑問(中傷)形式に、果たして正しい答えが出てくるのでしょうか…。それこそ疑問とする話です。
アンコウさんの疑問は非常に「正常な疑問」だと思います。理を中心に,道理に基づく疑問を記載されています。こう言う正常な疑問に対しては、一学会員としては全力を込めた答え(自分の考え)を記すべきなのが、当然の理と言えます。
疑問とは須(すべから)くこう言う形のものであるべきだと思います。
…と言う少々硬い話から始まりましたが、とても大事な在り方ですので一応記しておきました。
アンコウさん提示の「宗教対立について」を、私なりに考えてみます。
お話を二つの部分に分けて考えます。
1,「先日~もあると聞きました」と言う噂話からの疑問。
2,宗教対立
1,「噂話」から導き出される疑問は、ある意味学会偏見の典型的な疑問だと言えます。
誰それから何々の話を聞いた…、ネット上での噂では何々…、ある家族が学会から何々の事をされた話を、誰それから聞いたが…等々。
…以上は全て「噂話」です。
何故か…、自分自身の目と耳とそして口で、聞いたり見たり,そしてその事を確認していないからです。全て(とも言えないまでも大半は)、ある意味、嘘出鱈目の話であることも充分あり得ます。そんな不確か極まりない「事実」を元にして学会を評価することは、恐ろしい限りの態度と言えますし、一学会員としての経験上からも何の意味も持てない事です。
このブログにもそう言う話を持って来る人は数多くいます。しかし,「自分が見た」という人は一人も居ません。例え見たという人も,学会信心の「本質」から考えると,彼等は話の表層(半分では無くほんの一部)しか見ていません。(これは今の話題からは外れますので,これだけにします)
「学会からの嫌がらせを受けた人の事を聞いたことがある」というフレーズも多いのですが、「聞いた事がある」という話のどれだけの部分に信憑性を持ち得るのか、非常に疑問とする処です。
実を言うと、この種の話には裏があります。
「火の無い所に云々」と言う言葉がありますが、乾燥した場所に無理矢理火をおこす人が現実存在するのです。私もアンチ系ブログをよく見ます。非常に多いのです,彼等の記事の中にそう言う非難中傷の話が…。その手のアンチ系の「事実」を積み重ねた結果、「学会の平和運動は誤魔化しだ」と言う結論話になってくるのです。
故に,正確な学会知識が必要になってきます。しっかりした学会知識を持っていないと、結局「面白そうな話」に引っ張られてしまい、「学会はやっぱり…」と言う偏頗(へんぱ)な思考方法に流れてしまいます。
世の中に、正確な学会知識を持って批判なり中傷(理のある中傷)をしている人は,ほぼ皆無と言えます。大半のアンチ系の人は「学会知識皆無」の状態で「批判」をしています。そんな批判が果たして正常かどうか、そこにこそ疑問を持つべきです。
2,「宗教の対立」は非常に多いと言えます。
しかし、そもそも論としては,宗教は本来「対立」するものだとも言えます。自分の教義が絶対だという信念も無く、自宗を中心とした宗教生活など出来るはずはありません。
エキュメディカル運動というものがあります。全世界の宗教を一つにと言う考えの運動です。しかしこれは余りにも馬鹿げた運動だと言えます。自分の宗派が世界平和、そして自己自身の平安に「絶対必要」なものなんだと思っている宗教者が、どうして他宗の教義など認めることが出来るのでしょうか?欺瞞そのものの運動です。
他宗との「対話」は必要だと,私も信じます。しかしミソも糞も一緒というのは,それはもう宗教では無くなります。他宗への妥協は、自宗の宗教教義の崩壊を意味します。そう言う在り方は,少なくとも自尊心を持って平和運動や自立運動を続けている宗教からすると無意味そのものの運動です。
と書くと、やっぱり学会は傲慢そのものという話に聞こえるでしょう。
ここで、正常に目を「対立」の在り方に向けてみて下さい。宗教対立は必要なことなのです。そして、対立によってでしか相互の教義の瑕疵(かし)、宗派そのものの正邪の見分けが付きません。
でも、その対立は「武力対立」ではありません。「対話対立」になります。
この本質的な話を誰も何も話しません。アンチ系に関しては皆無です。
道理のある話合い…この部屋でアンコウさんが務められているその在り方が大事なのです。学会は「話合い」と言う基本行動から一歩も外れていません。少なくとも学会本部の人達はそうだと言えます。
しかし当然、学会全体から考えると、我々の組織も人の集まりですので様々な考えの人もいます。若干の間違いもあるでしょうけど、それを針小棒大に,更に虫眼鏡で拡大しながら学会の話をするのは,どう見ても間違いだと言えます。
宗教対立の歴史的な事実を見ても,武力対立が中心にあったことは否めません。しかし、学会は「対話の対立」を中心にすべく努力をしている宗教団体です。そしてそれらを批判する人間は、上に述べた「理の無い疑問を持って中傷をする連中」なのです。且つまた、それらの意見や感想がネット上等に流れて、絶対的な数を持って学会攻撃のソース(情報源)になっているのです。その事実を知らないと,何も理解出来ません。
「平和の組織が、宣伝している事と実際にやっている事が矛盾しているのは,何故なんでしょうか…?」と言うアンコウさんからの疑問の答えが,ここにあるのです。彼等の話す「実際にやっている」事が、本当は何を意味しているのか…。
ネットの情報は「玉石混淆」の世界です。その中の「玉」をどうやって見つけ出し、そして無駄な「石」を捨て去ることが出来るのか…。
…正しい知識を持って、そして正常な目を持って,道理のある考えでネットを見ていかないと,見つけることは決して出来ません。
そうであるには、常に正常な批判力を持ち続けていないと難しいとも言えます。
組織の中にいると、評価の基準は自分で見て知って判断していることより、知らないことなのに他人の評価を自分のものとして結論を出してしまう傾向が出ます。
社会性が未熟な人ほど無意識にそうしていて、実は社会はそれが多数派を形成している。
だから実力や実績ではなく「評判」で世の中が動いてしまう現実があるのだと思います。
また、自分が属している組織の実態は気づき難く、外から見ている人の方が的確に問題点を指摘できている傾向もあると思います。
自らのことを客観視することは難しい。
かなりの熟練者が感情を殺して意識的に訓練して出来るようになるのかもしれません。
特別な利害関係があるネット人達の批判は何か目論見があるのでしょう。
事実関係も調べるのは難しい。
しかし一般の人達が見聞きした具体的な話にはそれなりに裏が取れるものです。
ご近所ですから。
その婦人の話はあながち嘘ではない事実を一部知っています。
また創価学会員の傾向として変だと感じているのが池田名誉会長への無条件の信頼です。
人生の師匠だと言う人も居ます。
しかしながら会って直接話したことがないという。
会員は池田名誉会長が、昼間どのような仕事をして、どんな生活をしているか実は全く知らない。
にも拘わらず人生の師匠としてしまうことに一般常識にはない不自然なもを感じます。
それは組織内の「評判」の効果ではないかと思っています。
内部に居る人は、なかなか俯瞰(ふかん)的に自分の立場を掌握出来ないことも,ママあり得ます。下の文章はその典型だと言えますので,読んで考えて下さい。
『ウチの両親は創価学会員です。私も3世として、学会のあれこれを見たり聞いたりしていました。身近で彼等を見ながら思ったことは、創価学会とはとんでもない組織だと言う事です。
毎日、毎週何かの会合があって,二人はほとんど家にいません。小さな時はとても寂しい思いをしましたが、母親からの言葉で我慢していました。
「大きくなったら理解出来るよ…」と。
今は三十路。でも、未だに学会の事は理解出来ません。会合等の忙しさは,まあ仕事と思えば何とかなります。しかし、病気やお金の問題は全く理解出来ません。
父親は癌で苦しんでいます。学会の宗教を一生懸命にやっていて,どうして病気で苦しむのでしょうか? また、学会からの集金が毎年きます。両親は生活が苦しいながらも、毎回数十万という金額で学会に奉仕しています。
学会は早く潰れて欲しいと,本気で思っています。』
上記文は、或るアンチ系ブログの記事を、(無断で…)若干言葉を入れ替えて、読みやすく整理したものです。学会に対しての典型的な抗議文となっていますので、例文として載せてみました。
これは、学会の内部からの告白文章だと言えます。外から見た学会どころか、同じ「家族」から見た告白です。第一級の学会資料と言えます。
意外に思われるでしょうけど、でも、ここには学会活動の「表層」しか書かれていません。ブログ主は学会の信心の「し」の字も理解していない人間です。ほんの一部し書かれていないことは,仕方ありません。
彼(彼女)は、両親が病気で苦しんでいるのを見て,宗教をしているのにどうして苦しむのか、また、宗教組織にどうして大金を巻き上げられるのか不思議がっています。まあ、常識的な話でもあります。でも、飽くまで「常識的に見て」ですが…。
「日蓮教学」の知識がないと、目で見えている事実の奥にあるものが何も見えてきません。キーワードは「癌」(病気)です。(他にもありますが、ややこしくなりますので一つにします)
必要な知識は、「宿業」「宿業転換」「三障四魔」です。
〇宿業…自分の生命自体に積み重なる業(今回の場合は悪業)。生きている間に様々な悪作用を人生、生活に与える作用を言います。
〇宿業転換…宿業は生きている間に必ずでてきます。しかし、仏道修行によりそれが転換出来ます。なくなるかどうかは別として、小さくなることは確かです。
〇三障四魔…仏道修行(学会活動)中に必ず出てくる作用。宿業転換を停止させようとする働きです。
『病院で治せる病気は病院で治します。しかし、病院で治らない病気は信心で治します』
学会での「病気」の指導です。常識的には少々の胡散臭さも感じる言葉ですが、上記文は信心と言うものの在り方を話しているものです。
癌を完治する・しないは別として、上述の親御さんは、信心で癌と言う「宿業」を治そうとしています。それこそ命懸けの「信心」の闘いです。癌との闘いは、単なる肉体的な病気との闘いではありません、信心上での宿業転換の闘いなのです。御両親が必死になるのは当然の事です。更には息子(ブログの記事上では)の反対(魔)もあったようですから、三障四魔もでています。ブログ主は、自分で意識しないままご両親の信心の妨(さまた)げ(三障四魔)にもなっていたようです。
ブログ主は何も知らないまま、ご両親のその状況を判断して「苦労」と表現しています。何も知らないと言う事は、他人事ながらも恐ろしい話です。
「本当の学会の姿」は、ご両親の「その後の闘い」にあります。
ブログ主には宿業との闘いの姿だけ(苦労している姿)しか見えていません。何との闘いかも知りませんし、興味も無い様です。しかし、学会の信心の在り方は最後の最後まで見続けないと、何も見えないのです。本当は、最後の最後に癌(宿業)に「勝つ」と言う、その姿を見るべきなのです。
学会の「本当の事」を何も知らない息子さんは、ブログに「両親が苦しんでいる」と記します。「今の苦しみの姿」しか見えていないのです。全ての信心上の事が目の前に展開しているのに、全く何も見えていないのです。
身近な人は余計に、俯瞰(全体的な姿)を見ることが出来ないという典型が上述の話から理解出来ます。一番身近な人間こそ何も見えないこともよくある話となります。ましてや、外部から見る学会の姿など…。
アンチ系で言われる、「私は知っている。学会は…云々」の実態がここにあるのです。信心の本当の知識を持って見ない「事実」がどう見えるのか、考えさせられるブログです。
「師匠」の問題も同じ事が言えます。
先生のことを、何故学会員が口を揃えて「人生の師匠」だと話しているのか…。
学会員は常に先生の思想に触れています。映像画面からとは言え直接先生からの話を聞き,新聞を読み,そして書籍から先生の考え方を学んでいます。それを洗脳と呼ぶ人も多々存在しますが、そんな連中のことはどうでもいいことです。問題は、自分自身が先生の思想に共感出来るかどうかです。本気で先生の話に同感出来るから、だから更に先生の話を求めるのです。
それを「師匠を求める」と表現します。
先生のスピーチ集(本幹や幹部会の話の書籍版)、人間革命(新旧),書籍の数々は膨大なものが存在しています。学会への反論する人達の、果たして彼等の「何人」がそれらの書籍類を「実際に」読んでいるのか、かなり疑問とする事です…。数冊読んでそして批判、と言う態度は意味をなしません。下手をすれば一冊も読まずに中傷という話なら,何をか言わん哉…です。
「師匠」と言うのは,自分の判断、決定のことなのです。今話した奥に持っている意味をもう一度考えて頂けると嬉しいですね…。
私にも尊敬する人がいますが、もう故人であるためどんどん美化されていきます。
死去したニュースを聞き、できる限りの氏の著作を買い込んだ思い出があります。
青年期に強い影響を受け、辛い時に氏の著作で何度か救われた。
今も考えたや生き方に影響を受けているかもしれません。
しかし、会ったことはなく、文章だけの世界です。
もし近くに居て生活してたら氏の嫌な面を見て幻滅してたかもしれません。
今もファンで居られるのはよく知らないからいい思い出なのでしょう。
清貧という言葉がありますね。
聖職者は貧乏でなくてはならない。
金持ちの聖職者は如何わしい。
何故なら、崇高な理念の実現を叫んでみても、本心はお金儲けが目的だからです。
偉人といわれる歴史に名を残す人はお金に目もくれないで、
自らが信じるところの信念に殉じた人だからこそ、本心だとして皆が信じられる。
池田名誉会長がどのような人なのかは私には分かりません。
しかしながら客観的な業績は分かります。
莫大な資産と政治権力を手に入れ、数々の名誉称号の取得です。
俗物の特性として、お金が足りてくると、権力を求め、
その次は人々に賛嘆される名誉を求め、最後には血を求めるそうです。
血とは血筋の意味で、具体的には王室や皇室と関係を持って自らを特別な家柄とする。
いつも池田名誉会長の業績で不思議に思うのは、語られる業績に具体性がないことです。
何時、どこで、誰が、何をして受賞に至ったのか。
報道の基本ですが、聖教新聞にもその具体的な経緯の記載はないとか。
どのような貢献があったのか。
自らの身を飾り権威付けするため、会員から集めたお金を払って貢献したと思われても仕方がないのではないでしょうか。
圧倒的に多いアンチ系からの疑問文章です。これも無知から出てくる「中傷疑問」だと言えます。
どうしてそうなのかは、下の文章を読んで下さい。
Ⅰ-某国立有名大学の名誉教授称号規則(抜粋)
第1条 東京大学名誉教授(以下「名誉教授」という。)の称号の授与については、この規則の定めるところによる。
(教育研究評議会の議決)
第2条 名誉教授の称号の授与は、教育研究評議会の議決による。
(名誉教授の資格要件)
第3条 名誉教授の称号を受けることができる者は、次の各号に該当する者でなければならない。
(1) 東京大学(以下「本学」という。)の総長又は教授として在職5年以上で退職したこと。
(2) 本学における功労が大であること。
(3) 学術上又は教育上の功績が顕著であること。
…中略…
第11条 名誉教授の称号の授与の議決をするためには、評議員定数の2分の1を超え、かつ、外国出張中の者を除く評議員総数の4分の3以上の者が出席し、出席者の4分の3以上の者の賛成がなければならない。
…以下略…
この規則は、ある国立大学の「名誉教授の称号授与」の規則です。国立大学は基本名誉を重んじます。お金を払うからくれるという簡易、いい加減なものではありません。
池田先生の世界の大学からの「名誉教授の称号授与」は、大半が各国の国立大学からのものです。上述の規則がそのまま当てはまるものだと考えても間違いはありません。
こう言う厳しい規則に則って、先生の名誉教授授与が行われています。先生から大学へのアプローチは一切ありません。逆に各大学から,大学の名誉をもって、大学の権威で池田先生に授与を決めているのです。
アンチ系のブログにはこう言う「事実」は一切書かれていません。
大学からの名誉教授と言うものは、日本人一般が考えているようなそんな軽い,薄っぺらな称号ではないのです。上の国立大学からしても、いい加減な人間に、自分の大学の名前の入った名誉称号を,審査もせずに簡単に授与させることがあるかどうか…。
上述の規則の意味は、アンチ系の話している「称号」批判が、如何にいい加減な知識と、下らない嫉妬心や中傷感で充ち満ちているかが理解出来る事実なのです。
Ⅱ-国連平和賞
国連の授与する賞です。
じっくりこれも考えて下さい。国連がお金で平和賞という大事なものを授与させることがあるのかどうか…。
Ⅲ-対談について
先生は対談も、世界の知性ある方々と非常に多くなされています。名誉称号とは直接関係ありませんが、近接するものですのでここに載せます。
この事に関して過去記事がありますので参考にして下さい。…参照ページ(「対談集について」のお話)。()内をコピィしてブログサイト内検索ボックスにペーストして下さい。
特にカレルギー伯(EUの生みの親の一人)に関しては、来日した時に周りから止められたにもかかわらず、伯自身の非常に強い意志で先生との対話をされたと言う歴史があります。これがどういう意味を持っているのかを考えて下さい。
人間にとってその人の持っている思想、そして実際の行動はとても大事です。
何を考え,どんな思想で行動し、そして何を実際にしているのか…。そう言う在り方、生き方を人は感動を持って自分の中に受け入れるものだと思います。例え、周りがどんなに悪口雑言をしようとも、自分で決めたその人に対する尊敬の気持ちは簡単に変わる訳はありません。
周りの意見に紛動されるのは、いい加減な気持ちで「尊敬したような気持ち」になっているだけだと思います。
先生の思想は、先生の書いた書籍(スピーチ集、提案、小説等)に記載されています。その先生の実際の行動を、見る人はしっかり見ています。そして、その結果が様々な名称号等として表れているのです。
悪意のある人は「名誉称号授与」しか見ませんし,記載しません。そう言う人々は、先生の書籍類など一切目も通していないのです。これは単なる悪意の中傷にしか過ぎません。
もっと事象の「奥」を見るべきです。奥を見るには適切な正しい「知識」が必要です。知識を持ってもう一度先生の行動を見直して下さい。
一度持った「偏見」はなかなか修正出来ないのが人間です。でも、しっかりした知識を得ることによって「偏見」は「正見」に変化します。
本当の批判と言うものは、正見を基礎としてやって行くべきものだと思います。
補足
書き忘れました。
聖教新聞に、今話し合っている類似のものが掲載されています。称号授与等の「説明」も載っていますので、若しお持ちでしたら読んで下さい。
3/4(日)…台湾「苗栗(びょうりつ)県から池田先生に「名誉権民証」(一面)
3/7(水)…ブラジル・ジャカレパグア統合大学「名誉教授称号」(1,2面)
3/20(火)…イタリア・ボルゴ・サン・ロレンツォ市、池田ご夫妻を「名誉市民」(1,2面)
何せ数が多いので最近のだけを載せました。
聖教新聞、SGIグラフ等にはしっかり先生の業績は記載されています。逆に不思議なのは、どうしてこれだけの業績を普通の新聞は取り上げないのでしょうか…?
不思議だと思いませんか…。
世の中には、賞があってもそれに対する業績が伴わないものもあります。
例えば、後進国の大学ではある金額を支払えば名誉教授となれるそうです。
日本の大学でなかなか教授になれない人が多額の金銭を支払い名誉教授になり、
「名誉」の記載を消し取って自分の名刺に「〇〇教授」と記載して配るようなこともあるそうです。
学術的に大学に貢献したか、金銭的に貢献したのか、どちらも貢献があったとして名誉教授になるわけです。
日本は大学のモラルが高く、そういうことはしないそうです。
もちろん、どちらにしても名誉教授は学位ではありません。
もし池田名誉会長が学術的な貢献で海外の大学から送られたものであるのならば、
その論文の内容を聖教新聞に「詳細」に記載すればいい。
書かないことの理由を探すのは難しい。会員の方も読みたいと思うでしょうから。
インターネットは元々論文検索のために発達したツールです。
専門分野の論文を常に検索して調べている人達もいますが、引用もされてないですね。
実はその業績を調べてみても出てこない。
だからマスコミも相手にしていないのは妥当だと思っています。
世の中は何かの賞を受賞したことに対する業績は何だったのかが大切なことで、
受賞した権威に対する尊敬だけを示すのは社会性を疑われる。
会員向けの権威付けにのる必要はないでしょう。
もし聖教新聞、SGIグラフの報道に価値のある業績が本当に記載されているのであれば、社会貢献の意義は大きいですね。
価値があるかどうかその専門分野の方に問い合わせてみてはどうでしょうか。
また、あれほど多くの研究されてそれに伴う実績があるのなら、人類のほとんどの天才を軽く凌駕してます。
また、これはいつも思うことですが創価学会員の池田名誉会長に関する伝聞の多さです。
側近しか知りえないエピソードとして出所不明の出来事が語られる。
本当に事実ならば全部聖教新聞に書けばいいと思います。
責任を問われるからできないのだと思います。
おそらく先に話した「評判」の効果を狙ったものだろう仮説しています。
…と言う上述の話だけでは理解不能だと思いますので、一応新聞掲載の頭だけそのまま掲載します。(掲載分が長いので、それ以上は勘弁して下さい)
●台湾/苗栗(びょうりつ)県から池田先生に「名誉権民証」(3/4分)
苗栗市/台湾の苗栗県から池田大作先生に「名誉権民証」が送られた。世界駅な平和・文化・教育への貢献と、良き県民として行動する台湾SGI(創価学会インターナショナル)への卓越したリーダーシップを讃えたものである。授与式は2日、同県苗栗市にある県政府で晴れやかに行われ、徐耀昌県長から代理の原田会長に証書が託された。
●ブラジル/ジャカレパグア統合大学より池田先生に名誉教授称号(3/7分)
ブラジルの人間教育の楽譜「ジャカレバグア統合大学」から池田大作先生に「名誉教授」称号が贈られた。平和・文化・教育への卓越した貢献を讃えたものである。授与式は3日(現地時間)、サンパウロ州イタベビ市のブラジルSGI(創価学会インターナショナル)自然文化センターで行われたブラジルSGI総会の席上で挙行され、池田博正SGI副会長はじめ、南米訪問団、ブラジルSGI代表の他、元法務大臣のジョゼ・グレゴリ博士、ブラジル日本文化福祉協会の呉屋敷新城晴美会長、世界的音楽家のアマラウ・ビエイラ氏ら多数の来賓が出席。この模様は全土480会場に中継され,一万人を超える友が見守った。
●イタリア/ボルゴ・サン・ロレンツォ市より池田先生ご夫妻を名誉市民に(3/20分)
イタリア中部のトスカーナ州ボルゴ・サン・ロレンツォ市から,池田大作先生ご夫妻に「名誉市民」称号が贈られた。これは,池田先生の長年にわたる多文化間の対話促進と,核兵器廃絶の為の間断なき闘争を顕彰するとともに、その行動を献身的に支えてきた香峯子夫人の貢献をたたえたものである。授与式は17日午後4時(現地時間)、同市内で行われ,パオロ・オモボーニ市長から,イタリアSGI(創価学会インターナショナル)の代表に、池田先生ご夫妻への証書が託された。
…以上
多分こう言う文章は、見たことも聞いたこともないのでは…。
学会批判の本当の問題が「何処」の「誰」にあるのか見えてきそうですね…。
本気で疑問を持っているのであれば、池田先生の書籍がどれだけあるのか、先ず自分自身で調べてみるべきです。知らない、調べたこともない、ましてや読んでもいない…。しかし、批判だけはする…。
これは単なる中傷です。
自分は書籍を読んだ、スピーチ集も読んだ、毎年の提言も読んでいる、しかし自分の意見は「こうだ」と言う話であるなら取り付く島もあります。しかしそうではないようですね…。
「感想」は感想でいいと思います。その感想を持つことは大事だと思います。しかし、どうもアンコウさんの在り方は違うような気がしますが、どうですか?
私はアンコウさんに先生を尊敬しなさい,と話している訳ではありません。先ず自分自身で先生の思想や業績を知るべき,そしてその上で意見を言うべき…そう話しているのです。
「仮説」を定義するのであれば、その仮説を「証明する作業」が必要だと,そう思いますが、間違っていますか?
私は「事実」を証明しています。その私の提示した事実を破折するだけの論理的な批判が、今度は貴方に必要になってくると思いますが…どうでしょう?
引用ありがとうございます。
聖教新聞の記事でしょうか。
私の予想通りでした。確かに無いなと。
記事に具体的な記載がない話は、かなり以前、公明党の地方議員と話ました。
その地方議員は無い感じているようですが、そこに読み方の相違があるようですね。
つまり記事にある貢献とは、
>卓越したリーダーシップを讃えたも
>平和・文化・教育への卓越した貢献を讃えたもの
>池田先生の長年にわたる多文化間の対話促進と,核兵器廃絶の為の間断なき闘争を顕彰する
それらは具体的に何でしょうかということです。
これらは社交辞令でしょうと。
報道であるならば、それらの貢献を具体的に書けばいい。
記者が取材して、受賞の経緯やエピソードを書けば紙面が充実しますね。
それが何故ないのか。不自然に思わないのが私には不思議に思えます。
地方新聞に記事を載せている友人は、イベント取材で、参加者の生の声を届けようと取材しています。
まず、どんな記者もそうするでしょう。
当然、文字数に制限があるなか工夫して背景までリアルに伝えます。
さすがプロだなと。
それが全くない聖教新聞の記事を不審に思わない読者の心理状況にはもしかしたら一般人とは違う作用があるのかも。
ひとつには、貢献の内容は読者が勝手に予想するべきものだという錯覚でしょう。
日常、池田大作名誉会長の多くの書籍を読んでいるで無意識に行動を読み手が想定しているのかもしれませんね。
内面的に会員それぞれの立派な名誉会長がいるわけで、盛大な授賞式があったと書けば、会員が勝手にそれぞれの行動が思い浮かべてくれる。
だから記事にならない記事でいい。
マインドコントロールの手法にもそういう事例があった記憶があります。
ちょっとついていけない感性だと思いました。
他の方からもコメントいただきました。
ありがとうございます。
また夜にできるかぎり返信します。
知らないから知りたいと思うのが私の本心です。
最初のきっかけは「仏罰」です。
そんなことが本当にあるのかどうか。
また創価学会の会員は本気で信じている人達なのかどうか。
また社会生活の営んでいれば創価学会との多少の関係は生まれます。
私は多い方かもしれません。
ある時期は、仕事で、共産党と公明党の地方議員に随分悩まされました(笑)
住民側の代表としてよく出てくる党だからです。
私には意思の疎通が難しい人達だから知っておきたい。
思考方法や価値観を知ることに価値があると思いコンメントしています。
また最近、先に話した「引っ越し事件」に恐怖を感じています。
対立すると怖い団体だと。イヤガラセで地域から追い出してしまうのですから。
もしかしたら宗教団体でありながら社会性の欠如した反社会的な団体に変質したのではないかと思っています。
池田名誉会長についてはよく知りません。
しかしながら組織の特徴から池田名誉会長の個人の人格が強く反映されたものだろうと予測しています。
ですから私の考えを述べて反論を待っています。
当然、間違いがあれば考えを改めるつもりです。
神はいるか居ないかの議論は、どちらも立証不能です。
通常、断言する側に立証責任が生まれる。法律ではそうなっています。
つまり相互に立証不能なのに言い張る。
これは滑稽ですから、私は立証不能なものは当初から仮説もしくはそう思うとしています。
宗教の特性からかその区別なく、根拠示さず断言する人が創価学会や関係団体に多いと感じています。
また、十分な立証できないからあり得ないことだという短絡的な見方もしていません。
大人ですからそのケースの方が世の中は多いを知っています。
またこれまで見た創価学会や関係団体のやり取りの特徴として、
①レッテル貼りが多い、②組織や個人が無謬であることの前提が多い、③善悪二元論的な議論が多い、④勝ちに拘るあまり社会性を失っていると感じています。
私は①②③④ともやるつもりはありません。
他人との会話が成立する条件として、どこかに自分の考えに誤りがあるかもしれないとの前提が必要だと思うからです。
見てきた関係団体との議論にはそこが欠如しているから、子供じみた罵り合いになっているのだと思っています。
できるかぎり学んでいきますのでよろしくお願いいたします。
別件ですが、当部屋を移動しました。一応ご報告を…。
コメントを頂くのは結構なことなんですが、出来ればページの表紙をしっかり読んでからにして下さい。注意事項を書いています。
ここはアンコウさんとの話の場です。外野部屋を作っていますので、若しよかったら、その他の人はそちらにお願いします。
一応お二人のコメントは削除して,外野部屋に移動しました。少少面倒いので、次回より削除のみします。
宜しくお願いします。
私は、先生の書いたものを、学術論文として話してはいません。一人の人間の「思想」及び「行動原理」の発する場として話しています。
先生を慕う人は,先生の学術論文としての優秀さ,特異さを評価しているのではありません。先生の「人間としての在り方」を、先生の書籍類、スピーチ類、そしてプラス行動を実際に目にして(又はSGIの行動を通して間接的に)、「凄い」という評価をしているのです。
池田先生の「思想」は先ず、「SEIKYO online」(中身をググって下さい)に概略載っています。また、「池田大作 提案」をググるとズラリとそれぞれの「提案」(の原稿)が検索出来ます。知っていましたか?
批判は批判で受け止めています。でも、アンコウさんも批判と同時に批判の元を勉強して下さい。貴方の書かれることはほぼ「想像の産物」からの「仮定理論」です。現実、事実を知っている,また実際に読んでいる人にとっては、アンコウさんのその「仮定」はかなり滑稽に感じます。
「群盲像を話す…」。そんなおかしさを感じるお話です。
話の基礎を一緒に作りませんか?貴方の実際に読破した,又は読破しようとしている先生の書籍なり提言を元に、その実感想を話していくべきの様に感じています。
「事実」の確認、評論、批判とは、そう言うものなんじゃないかと思っていますが、どうでしょうか?
そうですね。時間の合間をみながら読んでみたいと思います。
SNSで知り合った人から池田名誉会長の著作を何冊か紹介されました。
それは読んでます。もう題名も忘れてしまいましたが。
またSIG提言だったか、興味があったのでテキストを打ってもらったこともあります。
それらの書き物についての細部にわたっての疑問や批判はありますが、それは機会があれば思い出すでしょうからそうします。
また、事実というのは私が見たり経験した範囲のことでお話しするようにしています。
創価学会は言っていることと行動や実態が違うじゃないかという根本的な疑問も多いものですから。
仲間内でよく創価学会の話しで出てくるのも実はそれです。
崇高な理念も分かる。庶民のためにというのも同意できる。
しかしながら実態は、会の利益のためだけに露骨に損得を計算して行動しているのが創価学会ではないかという疑問です。
また、にも拘わらず会員は会についていく理由はなんなのかと。
基本的なここでの在り方を少々…。
アンコウさんの疑問提起への私の意見、感想は、この「本部屋」でのお話でしか対応しませんので、そこを押さえて置いて下さい。
「外部部屋」での感想なり意見はそれはそれで貴重なんでしょうけど、私はここ以外の話に対しては、本部屋での話とは完全に切り離しています。
「収拾」と「混乱」の問題になります。基本ルールに則った形にして行かないと、アナーキーそのものの在り方になります。私は、アンチ系のブログでその経験を嫌という程していますので、そこはご了承を…。
アンコウさんの最後の部分の話を,貴方からの疑問提起と受け取ります。
「学会の崇高な理念は理解出来るが、学会として組織の為だけの行動をしているのは疑問だ」
と言うお話です。
「会の利益」がどういうものを言っているのかよく分かりませんが、学会員から金銭を受け取ることを話しているのであれば、組織が、組織の運営を維持していくのにお金が必要なことは当然だと私は思います。その金額の多寡を話しているのであれば、会員が多くなれば金額も多くなるのも当然と言えます。単純な「計算」だと言えます。
そもそも、戸田先生の時代(昭和20年~30年代)は、学会運営金全ては全て戸田先生の事業の売上金でやっていました。会員が増えてきて、それだけではどうしようもなくなり、学会員の側から学会への「交付金」という形で納めるようになってきた歴史があります。
さて、現在の交付金納めは
1, 広布部員としての登録(基準があります)
2, 地区、支部、本部幹部がその人の状況を聞きに回ります(生活に厳しそうであれば、広布部員への登録を遠慮して貰います)
3, 交付金は銀行、郵便局振り込みとなります
以上の流れで行われます。その中には「強制力」は一切入っていません。何故交付金納入に「学会からの強制力」を付与したようにアンチ連が記載しているのか、非常に疑問を持っています。そして問題は、その「仮想強制力」が学会の「集金作用」として描かれる訳です。そこには事実の「じ」の字も入っていないのです。
そして、問題の大きなものの一つに、会員が何故交付金を納め続けるのか…。
以下に記してみます。但し、言い方は出来る限り「普通の話し言葉」で表現します。学会用語だと理解不能になりますから…。
学会員が学会へお金を渡す理由。
1, 数倍、ある時は数百倍の「見返り」があるからです。人間誰でも見返りや損得で行動します。学会員も同じだと言えます。
2, 自分の「業」(悪の宿業)が、学会への献金により消えてしまうから。(勿論全てという話ではありませんが)その後より良い生活になってくるから。
3, 今現在貧乏で苦しい生活をしているが、献金をすることによって将来的にお金持ちになってくるか、若しくはお金に苦労の無い生活になるから。
4, 学会も組織です。運営費も必要だと思います。会館も幹部の給与も必要になります。その必要経費を皆で捻出する為です。
多分まだまだあるかとは思いますが、思いつくままの「理由」はこんな感じになるかと思います。
以上の話は「~だと思う」や「~そう言う事を言われているから」という受動的なものではないと言うことを、ここではっきり言っておきます。そう言う話に持って行くとややこしくなります。
何故か…。
池田先生を尊敬しているから。代々の会長を尊敬しているから。学会の在り方を「経験上」信じているから。学会の歴史の数々を知り、それを信じているから。功徳(見返り)が実際にでるから。
また、信仰上の言葉を使うと、日蓮大聖人を信じ,そしてその教えを「身を持って」信じ,確信しているから。外部から何を言われようとも,自分自身の「信心の体験」を信じているから。
「だから学会を信じて,そして学会に対してお金を注ぎ込む訳です」
ここには「受動」は一切ありません。「強制」もないのです。あるのは自分自身の意志で行動する気持ちだけです。そもそも「交付金受納」は自分自身で決めることです。やりたくない人には強制しません。私も立場が立場ですので,毎年「体験」している話になります。
以上の話は「事実」を元に「現実」の話をしています。この話を「どうして」「理由は…」と言う更なる疑問を付けないようにお願いします。
千日手はいつまで経っても先に進みませんから…。
それは興味深い話をして頂きました。
創価学会への寄付の話ですね。
近所に1000万円を寄付した婦人が居ます。
通常は入らないお金が入ってきたので、その半分を創価学会に寄付したそうです。
内容の詳細は本人から聞いた話ですので伝聞ではありません。
1000万円という金額は私にとっては恐ろしく大きな金額で理解できませんが、
創価学会に寄付する人達にとっては驚くような話ではないのかもしれませんね。
寄付の理由は長年会にお世話になっているからだという内容でしたが、信仰心がある人にしか理解できないものなのでしょう。
つまり相関関係が証明できない良いことがあったのを創価学会のおかげであると信じていて寄付に至ったということです。
お金が入った良いことと創価学会の信仰に相関がない話だと思ったのは、私のそれまでの社会経験からの判断です。
内容から何ら関係性のない事象だと一般人ならば大方はそう思えることです。
そこが創価学会を信じている人の違いですね。
その時の婦人の話には見返りの話は無く、今日、ああそういうメカニズムもあるのかと発見できました。
monlingenさんに率直な話をして頂きました。
以上のことから、私の感想としては、やはりキリスト教の免罪符に似ているなと思いました。
教会はお金が欲しいので免罪符を発行した。
お金がある人は免罪符で罪がゆるされ救われる。
免罪符を買える裕福な人だけ救わるのは変だと、反感を持つ人達がプロテスタント派を作った。という経緯ですね。
神と教会と信者の3者の関係性はどうあるべきか。どの宗教も同じことを課題としていますね。
他に収益を持たない教会が信者から搾取することで維持・発展するのは、教会が寄付を受けても信者にそれに見合うほどの見返りを払う必要がないからです。
許し、救ってくれるのは、神がやることですから。
教会がただで潤い、信者は一方的に搾取されるビジネスになります。
それが信者にとって幸福になることなのかどうか。ご利益が無ければ損だけが残ります。
現在日本の法律では、信教の自由があり、同時に自己責任が生まれます。
余程悪質な詐欺的な行為で社会問題化しない限り、ご利益が無かったからと、支払った寄付の返還を求めてもまず裁判で勝てません。
ですから宗教団体はどんなご利益の話をしても責任を問われることはないわけです。
何年か前、ラジオ人生相談で加藤諦三氏が言っていました。
「幸せになるために努力は必要です。努力した人が幸せになる。しかし努力をしているのに一向に幸せにならない人が居る。その人をよくよく観察してみると、周囲に利用する人が居るものです。」といった内容でした。
創価学会の人は大変な努力をしていますね。長年ここに住んでいて見ています。
寄付、新聞の販売、選挙の票集め。選挙前になると、路上で婦人と定年後の男性が夜遅くまでいつも集まって何か会議しています。
献身的ですが、その労働とお金は全て創価学会とそこに従事している人のものになります。
長年のそうした努力を他のことに傾けていれば、裕福な生活があったのではないかと、私には見えてしまうのです。
こう言う話合いを,私はかなりの人とした経験を持っていますが、今回初めて実のある、「答えのある」話が出来た感覚を受けています。とても嬉しいです。
単純化します。
「労働対価」と言う言葉を使用します。当「労働」に対して当然報われるだけの「対価」が得られるという意味で言うと、当労働に対して、数倍の対価が得られるという「経験」を学会の人は持っているという話です。経験は「体験」とも言います。
労働を信心に置き換えれば、「信仰体験」となります。
唯注意して欲しいのは、「信仰心がある人にしか理解出来ない」との貴方のお話ですが、それは間違いです。正しくは「信心の『体験』がある人しか理解出来ない」という言葉になります。これは全く別の意味になります。
また、カトリックの「免罪符」とも違う処は、裕福な人しか神からの免罪は受けられない,ではなく、生活に困っている人にも「免罪」されると言う事です。これははっきり違う所です。貧富の差での信仰体験の差は一切ありません。
絶対的な話ではありません。相対的な話だと考えて下さい。
何億円学会に払うのと、何千円払うのと、信心の体験からすると全く同じなのです。ここが理解出来ない所になるはずです。かなりややこしくなりますので、説明はここではしませんので、「そう言う事もあるのかな」と心の片隅に置いておいて下さい。
もう一度話します。
学会の人々は「御利益の体験」を持っているから、学会に居続けています。見返りが実際にあるから学会を支持しています。学会に騙されているから、強制があるから…ではありません。金持ち、貧乏人の違いはないのです。
実際に「御利益」のない信仰に,学会員は、何故何十年も縋(すが)り付いているのか…それなりの,そして理屈の通った「理由」を持っています。理解出来ないことも「現実」として存在します。
「相対性理論」…アインシュタイン博士が提起した当時、ほぼ誰もその理論を理解出来ませんでした。シュレディンガー方程式もそうです。これらの理論は非常に奇妙で、恐ろしく非常識なものです。でも「現実」にこれらの方程式は、我々の宇宙に事実として存在しています。
信じて下さい,とは言いません。しかし、「かもしれない」という気持ちになって貰えると有難いですね。
創価学会の人が何故信仰を続けるのか。
これは私も疑問に思っているところです。
なぜ疑問かと言えば、一般会員については一方的に服従を強いられ利用されるだけの関係性にしか見えないからです。
運営者側に居る人達とそれに関連した企業の人達は、仕事ですから理由としては別でしょう。
もし仮に信仰体験による人間的成長があるのならば、社会の中で目立ちますね。
宗教政党という特殊な事情があり会員以外の人は入れ難い党が毎回700万票以上の得票を得るですから、国内の会員規模も何百万人でしょう。
そうした規模の人達が、それ以外の人達中で生活していれば、誰もが認められるような特性が出てくるはずです。
会員が他の人より幸福になる傾向が客観的に明らかなはずです。
しかし、長年同じ地域に住んでいますが、創価学会の家が特別幸せになっていっているような感じは受けません。
逆に重大な問題を抱えているケースが傾向的にあるような気がします。
それは仕事で知る創価学会の人にも傾向が同じですので、地域の差があるようには思いません。
創価学会の主張する現世利益があるのなら、調査して統計的に証明すればいい。
もし傾向的に幸福になるのであれば、国家の利益ですから国教化してもいいと思っています。
戦後直後からある団体で、時間的にもサンプル数においても不足しない。
創価学会がそれをやらない理由がどこにあるのか。
実は違う結果を調査済みなのではないかと思っていたりもします。
先に話したように、創価学会内はゼロサム経済ですから、会が潤っている分、会員は疲弊してくるだろうというメカニズムが根拠です。
もうひとつ会員が信仰を続ける理由を考えています。
「依存」にあるのではないかという仮説です。
池田名誉会長は会員は一体化してしていますね。数々の発言からそう感じます。
同時に創価学会の組織とも一体化している。
そして会員は「題目」にも依存していることを、創価学会の運営側は予測していますね。
それらのそう思う根拠は、長くなりましたのでまたの機会に。
気になる部分を切り取って,出来るだけ自分なりの説明を加えます。
●『一般会員については一方的に服従を強いられ利用されるだけの関係性にしか見えないからです』
…貴方の話される「服従を強いられているだけ」の人間達が、現在日本、世界にはかなりの人数が存在しています。(私は正確な数は掌握していません。日本プラス世界では,少なくとも2~3千万人かと想像します。間違っていた場合は申し訳ありません)
日本人は一応おいておきます。アメリカ、ヨーロッパはご承知の通りキリスト教の国々です。特にその中の「プロテスタント」は、名前が示すようにプロテスト(抗議)する人々です。彼等は、少なくとも日本人の持っていない非常に攻撃的な、少々自信過剰の性質の人間達です。そんな自分の意見をはっきり話せる、偉く批判精神旺盛な人々が、貴方の結論付けられる「服従を強いられる」人々なのでしょうか…。
…違いますね。少しの疑問でも、自分自身の名前で組織に対して「抗議」出来る人々なのです。そう言う方々が、何故貴方の「想像力で構築された学会」に何十年も「服従」され続けているのでしょうか…。貴方は本来、こう言う話に対して、本当であれば疑問を持つべきです。
本当の学会組織は、日本人が勝手に思い込んでいる強制・服従の組織ではありません。欧米の人々は学会のその本質がはっきり理解・認識出来ているから、だから今現在も学会の活動を喜んでやっているのです。
貴方の「~しか見えない」と言う想像上の「結論」は、全く間違っています。人種、思想、政治、宗教当の坩堝(るつぼ)である欧米の人間に、その「想像上の服従仮説」を当て嵌(あては)めることは勘違いも甚だしいことだと言えます。
出来ればこの件に関しては、もう一度しっかり考察、出来れば現実の話を中心に考えて頂けると有難いですね…。
●『創価学会の家が特別幸せになっていっているような感じは受けません。逆に重大な問題を抱えているケースが傾向的にあるような気がします』
…この話は説明しません。何故か…信心の「基本」に突入してしまう,非常に厄介な話題ですから…。この説明は信心の言葉を多用します。失礼な言い方ですが、今のアンコウさんには決して理解出来ません。
貴方の「(幸せな)感じは受けません」「様な気がします」と言う、「個人的な感想」に関して一言。
貴方のすぐ隣に住む家庭の一家の事を、貴方がどれだけの「事実」を知っておられるか…。
貯金は?病気を持っているのか,健康なのか?仕事の種類は?給与は?友人関係は?…
何も知らないはずです。ましてや一家の人々が現在どれだけの「幸せ具合」なのかを云々しようとすると、途端に思考停止になるはずです。
思考停止は、即ち想像力の話に突き進みます。「多分~なんだろう」という。
創価学会の人々への,一般人からの「感想」「意見」とはそう言う種類のものなのです。
●『創価学会の主張する現世利益があるのなら、調査して統計的に証明すればいい』
…私もそう思います。公共、私企業どれでもいいので、こう言う正式な宗教統計は必要だと思います…。(これに類する記事を過去に書いています。若し参考になれば「生命科学研究所」をブログ内検索で…)
ただ、実際に各宗教にその旨を確認し合えるかどうかは…かなり厳しいものがあります。
●『創価学会内はゼロサム経済ですから、会が潤っている分、会員は疲弊してくるだろうというメカニズムが根拠です』
…「~が根拠です」と言う話も、そもそもの理論が「想像の仮定」に基づいています。
「~ゼロサム経済」の根拠がどこから来るのかよく理解出来ません。そう思うことは「感想」「意見」としては大事だと思いますが、現実の根拠付けのない話は単なる「決め付け」「中傷」でしかありません。創価学会員からの直接の「話」「意見」を統計学的に調査すべきであるのに、貴方の「仮説」にはどこにも統計上有意なものが見当たりません。
資料・根拠は「事実」を収集すべきです。そこが崩れるとどうなっていくかは、多分想像出来るはずです。
●『「依存」にあるのではないかという仮説です』
…「共依存」という意味で言えば、若しかしてそう言う心理学的な相互作用はあり得るとは思います。でも、どんな組織でもお互いに依存し合っていることは現実世界です。宗教だけが「依存」に関して潔癖であらねばならないという話は,余り健康的ではありません。家族も会社も,そして国家も「依存」という言葉で説明出来る部分が多く存在しています。
同じ依存でもどこから見るかが問題なんだと思います。良い角度かそうでないか…。見る人によるものなんでしょうね…。
以上の話は学会の事実を元に記しています。これらのことを認める・認めないは貴方自身の問題ですので「強制」はしません。でも、理解しようと「努める」ことは必要なことです。
全ての私の話が無意味なものだと判断するのであれば、これ以後の話合いは意味を持ちません。私もそれなりの意義、意欲を持って説明している分、貴方が若し理解出来る話の場合は、その旨の言葉を記して頂けると、私にも少々の達成感は出てきます。これまでの話がどうなのか,さっぱりな現在の状態では、「糠に釘」の感覚の、なんだかな…と言う「感想」を持ち続けています。
お互いに譲歩する所は譲歩、出来ない所はそうである旨を記して下さると,有難いですね。
私の今迄の話は完全に貴方に合わせています。言葉も貴方に合わせています。本来であれば「信心上の言葉」を使用すべきですが、それをほぼ一切無くしたまま話している事を認識して頂くと嬉しいです。
基本的な話・提案をします。
そろそろ「現実」的な話に進みませんでしょうか…。
私は学会の現実・事実等を、一般用語を使用しながら綴っています。でも、アンコウさんは「そう思う」「そう仮定する」等の話に終始しているような気がします。
「現実の話」と「想像上の話」を、どう巧くやりくりしたとしても決してまともな結論はでてきません。認めたくない場合もあるでしょうけど、気持ちを抑えてそうすべき時もあります。でないと、平行線どころか全く別の角度同士の話になります。
武道の全くの初心者が、道場の門を初めてくぐった所を想像して下さい。先生や先輩と対峙して稽古を始めた場合、初心者の在り方はどうあるべきでしょうか?先輩の話を全て受け入れないと,以後決して正常な稽古には入れません。若しそのまま何十年練習しようとも、初心者技術のままです。…簡単に想像出来る話です。
私は「嘘話」をしている訳ではありません。「事実」を分かり易い形で話しているだけです。それを信じる・信じないは、偏(ひとえ)にアンコウさんの側の問題です。全てを信じる必要も義務もありませんが、しかし「そうかもしれない」という態度は必要だと思います。その思い、気持ちがないと何も理解も出来ないし、何も知ることも出来ません。
この状態を崩すには、以前に話した「池田先生の書籍の読破」が一つの大きな「共通項目」になると信じます。でないと、いつまで経っても、盲人の人が象と言う生き物に触れて、「像とは細長い生き物だ」と強弁するのを聞いている健常人の状態が続いてしまいます…。
もう10年ほど前になりますが、創価学会の人とメールのやり取りをしていました。
こちらから望んだことではないのですが、先方は勧誘したかったようです。
何回かのやり取りの中で、「仏を傷つけた罪は重い。あなたは死ぬでしょう」と言って音信不通になりました。
全く意味が理解できなかったので気になり、創価学会の人に仲介を頼み、様子を見に行ってもらいました。
私のメールで酷く傷ついたらしく、それが原因で統合失調症が悪化して某施設に入院してしまったのことでした。
正直なところ、どの発言が彼を傷つけたのか、まだ私には分かりません。
創価学会の人には良く分かるのでしょうけど、仏というのは彼自身のことで創価学会の人は皆そうらしいですね。
拙いことをしたと今も反省しています。
様々人の考えがあり、世の中は共存して生きています。
私は他人の考えを変えようとしたことなどありませんが、創価学会の人の特徴として他人の考えを変えようとしますね。
そして同意してもらえないことを極端に嫌がる。
反論したり矛盾点を指摘したりすれば、突然スイッチが入り、日頃大人しい人なのに「あなたは死ぬでしょう」なんて言い出す。
話をしている最中、ふと顔をみたら真っ赤になって怒っていたなんてこともあります。
実はアンチャブルなんでしょうね。創価学会の評価を率直にするのは。
創価学会の人が仏であれば、意見の違う私は悪魔のような存在なのでしょう。
善悪二元論の世界は、それで相手を敵視してしまうスイッチが入る。
monlingenさんの今回のコメントにそうしたことを思い出しました。
現実の共有の話が、何故そう言う話になるのか理解が出来ません。
アンコウさんが兎に角「想像上の仮定」の話に終始するのを、「事実」の共有の提案をしようとしているだけなのですが、何が不満なのか…。
私の話を否定しながら、自分の話は肯定しろ,と言う云い方に近いような気がします。おまけにスイッチが入ると学会員は急変するという方向に持って行くというのは、どうなんでしょうか?
話の最初の部分をもう一度読んで頂けると、先が見えてきそうですが…。
でなければ、これ以上の話は無意味だと結論出来そうですが…。
「偏見」は非常に身勝手なものだと思っています。一度「偏見」に落ち込んでしまうと、どんな正しい答えが返ってこようとも全く受け付けなくなります。自分の偏見感の「枠の中」でしか考えられなくなります。おまけに自分自身は広い気持ちで聞いている,とそう言う「偏見」に囚われたままです。
私の今迄話してきた趣旨は下の二つだけです。
1, 自分の経験した学会の事実からアンコウさんへの答え
2, 学会の書籍の一つでも実際に読んで,それ(事実)を元に意見交換すべき
私はアンコウさんの考えを変えようとしている訳ではありません。変わる訳もないし、必要も感じていません。
問題は、小さくとも何でもいいので、何か一つ共通認識を持ちたいだけなのです。学会用語を使用しなかったのはその為です。
武道初心者は、ある意味偏見に囚われている人が多い事実があります。
兎に角、自分の遣り方に拘(こだわ)り続けます。先輩の正しさには一切目を向けません。余裕もないですしね…。でも、そんな人は決して上手くなりません。大体は途中で消えていきます。
仕事でも趣味でも同じ事が言えます。
初心者には、先生や先輩が知識の宝庫だと言う事に決して気付きません。
でも、気付こうと努力出来た人が、本当に上達します。
アンコウさんは、私が貴方の世界に近寄って,貴方の世界の言葉で話していることに気付こうともしていません。
お互い近付いた上での話が必要になってきます。その努力をお互いにもう一度して行くべきだと思いますが、この考えは間違っていますか…?
返信ありがとうございます。
MonLinGenさん信仰している宗教の話ですから、否定的なことを言われれば気分が悪いだろうと、それで反応みてみました。
別に他人の宗教を批判してもしょうがない。私は特別な利害関係にある人間ではないですから。
また、私の発言をよく読んでもらえればわかりますが、私が創価学会に対して経験したこと見てきたことを話してます。
それに対して、このような思考のメカニズムがあるのではと問うています。
まず、そのことをご確認ください。
私の発言に、知らないことをこうだと断定するなどどこにもありません。
創価学会の人の内面的な部分の仮説ですので、私が知る由もないわけで、間違っていれば反論していだけると嬉しいです。
当然のことながら、私は創価学会の一般会員の方を理解するためにコメントを入れています。
池田大作名誉会長には興味がありません。
書籍については、以前にも話した通り何冊か読んでます。
で、その前提で、もとに戻し具体的にひとつひとつ話をさせていだだくと、
先のMonLinGenさん回答で「プロテスタント国の創価学会」について。
プロテスタント気質は自立心が強いイメージがありますが、ヨーロッパに何人の創価学会が居るのか全く不明ですね。
にもかかわらず、プロテスタント国にも広まっているというのは、何か強引なこじつけを感があります。
よく会員から世界何か国に広まっているという話も聞きますが、では海外で何人の会員がいるのですかと問うても回答が無かった経験があります。
そういう話は創価学会のコマーシャルでしょう。実態はよくわからない。
もしかしたら、強く主張するほどの会員は居ないのではないか。
また、そんな国内の人には実態のよく分からない海外の話をする理由は、国内会員の減少が顕著になってきたので、指揮の低下を恐れての会員向けのアピールではないか。
などなど、思っています。
プロテスタント国に創価学会が根付いていると主張するのなら、会員の実数を示さないと他人には説得力がありません。
このように創価学会の会員向けの主張は常に怪しさがありますね。
プロパガンダ的な手法も多い。
報道写真の偽造や狂言裁判まで行い他宗の悪口のキャンペーンを張ってきた歴史は消えないのではないでしょうか。
全てを鵜呑みにすれば社会性を疑われますから、創価学会の報道や口コミでアナウンスするものは如何わしいものだという前提は持つべきでしょう。
信仰ですからそれが難しいことなのは何となく理解できますが。
ヒトラーは「宣伝を賢明に、継続的して使用すれば、国民に天国を地獄と思わせることもできるし、逆に、きわめてみじめな生活を極楽と思わせることもできる。」と言ってますね。
自分が今置かれている状況を偏りがなく判断するのは難しい作業でしょう。
組織の中にいれば周囲の意見に左右されるし、外の世界と比べることも難しくなります。
私は金持ちです、私は幸せです、私は頑張っています、私は頭がいい、私は仕事ができます、などなど創価学会の人からよく聞きます。
見栄っ張りなのか、これらが事実なのか、他人には分からない場合が多いですね。
幸福感は主観的な問題ですし。
もし実態は違うのに、創価学会によってそう信じ込まされているのなら、実に悪質な手法をとる団体になりますね。
今晩はここまでで、他はまた、私の回答および質疑を順番にしていきます。
創価学会の「世界に広がる…」と言うスローガンを見ると、会員数が気になってくるのは常識です。様々なネット、ブログ等を見てもその話題は欠きません。
学会からの正式な公表はなされていないようです。一応アバウトですが下に数字を記します。若しこんな数字ででも満足頂けると,嬉しいですね。
創価学会よりの公称は860万世帯(世帯数に3を掛けると部員数になるかと…)との話です。また、192ヶ国に学会員が生活しているという事です。
更には、学会正規のサイト「SOKAnet」には、『創価学会インタナショナル(SGI)は、世界192カ国・地域に1200万人以上のメンバーを擁する』
因に、アメリカSGIのメンバーが約23~35万2千人の幅になるようです。
あるQ&Aサイトから、不確かながらこんな数字が載っていました。
SGI北米 352000
SGI欧州 105000
SGI中米 20000
SGI南米 236000
SGI中東・アフリカ 25000
SGIアジア・豪州 1017000
小計 約200万
SGIジャパン 約1000万
SGIワールドワイド 約1200万
もっと調べると正確な数字が出てきそうですが、私自身こう言う数字には何の興味も持てないので、それ以上は調べていません。若し更なる興味がありましたら,調査の続行をお願いします。
補足(感想)
キリスト教の信者は2000年をかけて何十億人となりました。創価学会はせいぜい100年前後。これをどう見るか,どう感じるかは,文字通り様々だろうと思います。
一人の学会員として上述の数字を見ての感想は、「へえ、頑張っているな…」です。それ以上の感覚は持ちません。そもそも興味の対象が違う訳ですから、当然です。
数字は単に「数」の集まりです。
宗教は「人間」の集まりを見ます。個々それぞれの個性を持った、生きている人間の生活を見ます。生きていると言う事は、その人の現実の「苦労」も目にします。そして、信仰者として、そう言う人に対して「慈悲心」(同情心と言い換えることも可能かと)を持って彼(彼女)に接しようとします。更には、一緒になって苦労の元を解決しようと努力します。
それが「人間を見る」と言う事です。
数字を見ても何も感じません。いくら努力して見続けたとしても、お金が出てくる訳でも、方程式が見えてくる訳でもありません。数字とは、参考にはなりますが、しかしその程度のものです。
アンチ系の人々が数字に拘(こだわ)り続けるのは、彼等は「人間」を見ていない証拠と言えます。人間が大事だと言う事が,さっぱり理解出来ないから,仕方なく数字のマジックを信じ切るようです。
返信ありがとうございます。
その資料によれば、宗教先進国の欧州で10万人。やはり根付いたという話は言い過ぎなように感じます。
世界の宗教人口はほとんどキリストとイスラム占められていて、仏教全体でも5.7%。またその多くはアジア周辺でしょう。創価学会がその数に入っているかは分かりません。
世界に広まっている。言葉としては間違いがないでしょうが誇大広告でしょう。
また今後創価学会が増えていくのか減っていくのかの予想は、その人の立場によって左右されますね。希望的観測が入りますから。
根本的な問題として創価学会が布教を拡大しようとしているのかどうか、
最近の動向をみていると、会員を内輪で囲って食べていければいいやというのが、創価学会に従事している人達の本音ではないでしょうか。
組織は目的があって存在します。目的を達成すれば解散。もしくはもう明らかに目的が達成できないと分かった時点で解散すべきものでしょう。
しかし往々にしてそうはならない。
専従職員の生活があってそうはさせない強力な保身が生まれますから。
創価学会の国内の現状をみても減少傾向にあって、今後世界に拡大していくようには思えないです。
他、また後で返信します。
アンコウさんにとって,創価学会が組織として持っている「目的」とは、どういうものだと思われますか?
信心の根本の話になりますので,別枠の話題としました。
或るブログにこんな話が載っていました。
「SGIが広がっているという学会の宣伝は間違いだ。ある国に一人しか居ないという話も出ていたが、たった一人で世界SGIとは、暴言もいい処だ!学会はそんないい加減な話を広めているのか」(要旨)
と言う、ごもっともなお話です。同時に、信心の事を全く理解していない人だな…とも。
1549年日本に宣教師が来ました。名前はフランシスコ・ザビエル。カトリック教会のイエズス会の司祭をしていた人です。
当時の日本は、ご存じの通り戦国期の真っ盛りでした。下克上の世で、いつどこで誰が死んでも文句の言えない物騒な世の中でした。しかし彼は、自ら進んで、その混沌とした日本にキリストの教えを広める為に飛び込んできたのです。「死身(ししん)弘法(ぐほう)の人」とは当にこの人のことを言うのでしょう。
彼の弘教の成果はともかく、法(キリスト教)を広める為には自分自身の身をも捨て切る覚悟を持って来日したという,その事実が大事です。彼はたった一人(日本人の仲間もいたようですが)でした。
そして、上述のSGI会員の話も、「たった一人」です。
どう考えるかは自由ですが、私は非常に凄いことだと思います。周りに誰も仲間のいない中での生活で、兎に角弘法(仏法の教義を広める事)を続ける事は、簡単に安易な評価が出来るものではありません。
何を見るべきか…。
「信仰」と言うものの奥深さを見ないと、何も見えませんし、何も知り得ません。
信心は「体験」がものを言います。信仰体験の無い人にどんなに理を尽くした話をしても、何も理解出来ないことは承知していますが、しかし、想像力というものは誰にもあると信じる気持ちから言うと、貴方には「若しかして…」と言う感覚を持って欲しい気持ちでもあります。
学会側からの「嘘の宣伝」により学会員は苦労している、と言う貴方の評価は完全に間違っています。見るべき、そして考えるべきは、会員の信仰に対する「確信(又は体験)」です。信心の確信があるからこそ、学会の話している事に対して「納得」が出来るのです。
学会員は大学卒業の人も,学者さんも、更には会社の社長さんも多々おられます。そう言う人が、唯学会の話を鵜呑みにして苦労ばかりしているんだと,貴方は本気で思われていますか?そうであれば、仕方のない話になります。思想はそれぞれ自由だと言うしかありませんから…。
若しそうでないなら、一般で言われている「学会・会員の関係の在り方」に若干でも疑問を持つ気持ちがあるのであれば、もっと深く考えて欲しいと思います。
草創期に学会は、こんな事を盛んに言われました。
「学会は貧乏人と病人の集まりだ」
祖母もそう言われながら,でも歯を食いしばって学会からは離れませんでした。
さて、現在の学会は…?
逆に「学会は金を持っている」と「非難」されています。草創期に学会を馬鹿にしていた人は、一体どこに消えてしまったのでしょうか…?
彼等はただ学会の表面(のそのほんの一部)しか見ていなかったのです。時間が経った時点で学会の本当の姿が見えてくるのです。
若し本当に学会に疑問を持つのであれば、先ず、一般で話されている学会に対しての「偏見」を捨て去るべきです。表面だけしか見ないその行動を改めていくべきです。表面しか見ない人は、草創期に学会を馬鹿にしていた人の眷属(けんぞく…同じ考えの人々)です。
そして、一つひとつ「そうかもしれないな…」と言う気持ちで見ていく態度が必要になってくると,私はそう感じています。
自分が学会知識に関して全くのド素人だと、アンコウさんは自分自身に言い聞かせながらこの話の流れを追っていかないと、結局ド素人のままで終わります。
私は、武道初心者がド素人のまま消えていくのを何人も見ています。そんな、遣り切れない寂しい事実を、何度も見ているのです…。
学会はお金を持っているのでしょうけど、組織がお金を持っているのであって、一般会員はどうなのか。
一般会員は学会がお金持ちになった分貧乏になっていると考えると計算が合います。
宗教団体は性質上、信者からしか収益しないのですから。
いや一般会員はご利益を受けているから貧乏にはならずにお金持ちになるはず。
という傾向は、外から見ている私からは無いです。
周囲の会員の暮らしぶりは信仰で忙しく、家庭内の不和や離婚、経済状況の破綻も見てきました。多くはあまり芳しくない。
「確信」や「体験」がある信仰者は何か特別な奥深い精神性を持った人達であるという話については、
若いころお付き合いしていた彼女から同様の話を聞いたことがあります。
自らが尊敬しているマイ占い師のことをそう言ってました。
一回の見料が3万円、その他特別な判断をお願いする時には更にかかっていたかもしれません。
その占い師は一般人には分からない難しい勉強を長年も続けてきて、特別な能力身に付けた人だと言ってました。
その特別な人の判断に従っているのだから、自分も特別になれて必ず幸せになれると信じているわけです。
また新宿アルタ前で、交通整理をしている人達がいました。
何だか非常に偉そうに無関係な一般通行人に指図してました。
芸能人の出演が終わったらしく、次はお台場に行くという。
仲間に「お疲れ様でした」と労い合い、お台場に移動していきました。
ボランティアだそうです。
そう、芸能人の追っかけ部隊です。
特別有名で才能のある芸能人の傍に常に居いて、行動をよく知る自分はやはり普通じゃなく特別な人間だから、
何の権限もないのにもかかわらず一般通行人に指図するわけです。
他人の仕事場を追っかけているだけの生産性のない時間が、彼らにとっては特別な人間になれる時間だったりします。
それらの共通する特徴として、自分はパンピーとは違う特別な存在であり、
特別な権限や待遇を受けるべき存在で、高度な自分を理解できる人もやはり特別高いしか分からないのだと。
また、同時にそれは現実のあるがままの自分ではないので、周囲の人を常に見下し自身の優秀性を確かめなくてはならなくなる。
周囲の人の欠点を常に探し出し、欠点とは思えないようなことまでこじつけたり、
嘘のレッテル貼りをしてまで他人の才能や能力を認めず、だから自分は周囲とは違い特別優秀なのだと自己解釈をしなければならなくなる。
それが自己愛性人格障害というものらしいです。パンピーとは一般市民、素人、普通の人という意味だそうです。
これは、宗教の信者、芸能人の追っかけ、占い師に凝る人などに多いと心理学の世界ではされています。
宗教の教祖は特別な神々しい存在であり、信じて師事する自分もやはり近しい特別な存在になれる。
報酬がなく実生活とは違う借り物の地位ですが、教団から地位を与えられて益々思い上がり、
大人であるにもかかわらず子供じみた幼稚な万能感まで得てしまう。
自信を持つことは一般的には良いことでしょう。
でも、ある程度の年齢に達すれば自身を客観視できずそうした考えであれば社会生活が破綻していきますね。
仕事は競争の社会ですから、相手の能力や自分の能力を正確に把握する必要があるし、
プライベートな人間関係は互いに良さをリスペクトする関係から生まれるものですから、それができないと友人ができず孤独になる。
おそらく教団はそういうメカニズムを理解していて、囲い込みをかけて社会から隔離し、教団に依存させている。
そういう魂胆だろうなと思っています。
敵を知り己を知れば100戦しても危うくない。
その境地は命をかけて戦いに明け暮れてのものものでしょうね。
若いころは根拠のない自信を持っていたからこそ戦いに挑めたわけですが、
その継続の結果、年齢がいけば自己の弱点と強みを熟知していく。
それで強みの部分で戦うことが経済効率がいいとなるし、あるがままの自分を知り精神的にも安定していく。
強みの発見は、無謀な戦いの負けを繰り返してきて反省し、努力し、ひとつ勝てるようになったから確認できた。
同種のふたつ目の勝ちはもういらない。自己満足だけの行為になりますから。
そういった意味で、勝ちに拘るより、人生は負けに価値があるのではないかと思っています。
monlingenさんの言われた共依存と池田名誉会長の著作についてはまた別の機会にコメントします。
意外に長くなりました。
で、別部屋を再度作りましたので、以後そちらに移動お願いします。
MonLinGen(2018年4月5日 8時48分)