• ブロッキングについて

    2018-04-24 17:4845分前53

    ブロッキングに関連する話題が沸騰しています。


    この話題について書く前に、まず私の立場を明らかにしておきたいと思います。まず、私はカドカワ株式会社の代表取締役社長を務めており、子会社には大手出版社である株式会社KADOKAWAがあるという意味で当事者でもあります。また、カドカワのもうひとつの子会社である株式会社ドワンゴは、ニコニコ動画などを運営しているウェブ企業であり、私はドワンゴの創業者でもあります。そういう意味では、今回のブロッキングについては出版社という権利者としてだけでなく、規制される可能性を心配すべきかもしれないウェブ事業者でもあるということで、2重の意味で利害関係者となります。

    さらには、政府の知財本部では本部員として、今回の緊急対策にいたる重要な会合の多くに出席しており、その当事者のひとりでもあります。


    結論からいうと、今回の緊急避難的な3サイトのブロッキングについて、積極的な姿勢を示した政府の決定を支持します。ネットなどをみても、議論に時間をかけていない、いきなりすぎると、批判の声があがっていますが、政府がいかに緊急の事案であったとしても、こんなに迅速に対策を練り、実行にうつすのは珍しいことではないでしょうか。普段、政府の行動の遅さ、危機感の無さに文句をいっているであろう我々が、政府の行動が早いことに対して、まず批判から入るのはフェアではないと思います。


    もちろん、法治国家として法制化を先行するべきだという意見は、正論です。しかし一方で、増大する海賊サイトの被害と、インターネットの世界の変化の早さにともなう手口の悪質化に対して、これまでの政府の著作権法等の法改正の議論はあまりにも時間がかかりすぎていた、というのも事実です。


    いまの緊急避難的なブロッキングはあくまでも臨時的、かつ最後のものとするべきであり、ちゃんとブロッキングの法的な根拠を定めた立法化をおこなったうえで、行政からの指示ではなく、違法かつ海外のサーバーで日本人向けのサービスをおこなっていて、連絡がとれないなどの悪質のサイトにかぎり、裁判所の仮処分申請でブロッキングできるような環境整備をできるだけ早期におこなうべきだと考えます。


    今回、悪質と名指しされた3サイトの中でも、特に漫画村による被害は甚大です。いまや若い世代は、電子書籍は買うものではなく、漫画村で読むものだという文化まで定着しつつあります。現在、出版業界は紙の出版物の売上が長期的な減少傾向にあるなか、電子書籍の売上増になんとか将来の望みをつないでいる状態です。まだ、紙の書籍の売上減を埋め合わせるほどではありませんが、電子書籍の売上はこれまで、毎年、着実に増加してきました。この売上の増加ペースが昨年の8月以降、多くの電子書籍サイトで急減しています。特に電子書籍の中でも電子コミックについては前月比で減少するようにまでなってきました。

    紙の出版物から電子へと移行するどころか、まだ、充分に成長していない電子書籍の市場まで壊滅しつつあるのです。


    特に若い世代では、電子書籍を買わないどころか、ただでネットで読めるのに紙のマンガをなぜ買わないといけないのかという認識まで広がりつつあります。この世代はまだ購買力の低いひとたちが中心ですが、10年後、20年後、いま書籍を買っていただいている年齢層まで次第に成長していくことを考えれば、出版業界は非常に危機的な状況であるといえるでしょう。


    出版社側の立場としてここまで書いてきましたが、海外の違法サイトに対してブロッキングが唯一、有効な対抗手段だという指摘は、じつは出版社である現KADOKAWAとドワンゴが経営統合する以前から、私が唱えている持論です。


    なぜブロッキングが、海外の違法サイトに対して唯一、有効な手段かというと、海外に置かれているサーバーに対して、日本の公権力を具体的に行使する手段がないからです。海外におかれているサーバーが日本人向けのサービスをやっている場合は日本の法律が及ぶし、日本でも裁判ができるという考え方はわりと最近は一般的なものになってきました。ただ、判決に強制力が伴わないので、たとえ日本の裁判に勝ったからサーバーを止めろといっても相手が従わなかったら終わりです。結局、現地で裁判をおこすしかありません。日本人向けの違法サイトをわざわざ海外のサーバーにおく業者は、日本人が裁判をおこすのが難しい、あるいは現地政府の強制執行力もあまり期待できない国をわざわざ選びますから、非常にやっかいです。


    現実問題として、海外の悪質な、確信犯的に運営されている違法サイトに対しては、ブロッキングしか対抗手段が原理的にありえないということは強調したいと思います。そしてインターネット業界がこのことを分かっているはずなのに回避手段があるからと曖昧に誤魔化していることは、欺瞞であるとさえ思います。


    実はブロッキングに対してインターネット業界から出ている批判は一点で、ブロッキングには回避手段があるから実効性に欠けるということだけです。では、別にブロッキング以外の技術的な解決策はあるのかというと、だれも答えられません。インターネット以外の別の方法で、という主張になるのでしょうが、さきほど説明したとおり、日本の法律と強制力が及ばない海外において、どういう手段があるのでしょうか? 要するにすべて現地で裁判をおこせ、ということになりますが、裁判が時間切れで役に立たない手法はすでにCDNと防弾サーバーという組みあわせで実現しています。CDNとは、世界中に配置されたサーバーを使ってコンテンツを配信するサービスです。また、防弾サーバーとは、誰が運営しているかわからないように匿名化されているサーバーを指します。漫画村をはじめとする違法サイトはこの2つを利用して運営者の身元の特定ができないようにしており、海外で裁判を起こしても被告の特定だけで膨大な時間がかかり、その間にIPアドレスのログの保存期間が切れるので追跡不可能になります。そして裁判の間もずっと被害は拡大し続けるのです。


    結局、回避手段があるとしても、根本的に有効な方法はブロッキングしかありません。


    ただし、根本的な解決にはなりませんが、有効な方法は他にもあります。ネットのこれまでの議論でも指摘されていたとおり、違法サイトの収入を断つ。具体的には広告を掲載できないようにするという方法です。これは、それなりの効果はあげます。有力な対策として、ぜひやるべきです。しかし、この方法にはいくつか欠点があります。


    ・ まともな企業は協力してくれるが、海外のアドネットワークを経由したり、出稿元がアダルトサイトなど、イメージの毀損をおそれないサイトの場合は、広告を止めません。

    ・ 違法サイトが破壊するコンテンツ市場のマーケット規模に比較すると、きわめて低額でサイトの運営は可能です。たとえば漫画村以前に話題になり大きな被害をもたらした類似のサイトである「フリーブックス」は、広告を一切掲載しなかった。もともと収入源を気にしない相手の場合には効力を持ちません。


    また、CDNをまず叩くべきだと議論があります。これも大切な視点ではあります。この場合のCDNというのはほとんど固有名詞であって、クラウドフレアという米国の会社です。ここはインターネットにおける海賊行為を支援する明確なイデオロギーを持っている会社として有名で、ほぼ交渉不可能です。米国でも問題となっていて、裁判で先日敗訴したので、これからは運営方針が変わる可能性はありますが、現状は交渉可能な相手ではありません。


    やはり根本的な解決法としてはブロッキング、およびそれに類する方法しかないのです。


    ブロッキングは通信の自由、検閲、表現の自由など憲法に触れる可能性があることが指摘されています。しかし、ブロッキングの根本の問題は、日本の法の及ばない海外のインターネットから、日本に住むユーザーへ違法サービスを提供するという、法の抜け穴をどう埋めるかということなのです。


    そもそも法治国家の根幹とは「法を執行できること」ではないでしょうか。


    海外のインターネットを使って、日本の法律を適用できない場所を意図的につくる犯罪者に対して、どういう強制執行力をもてるかという問題なのです。そのためにはブロッキングかそれに類する手段しかありません。ネットの批判の中には、中国の金盾(グレート・ファイアーウォールとも呼ばれる、国家によるインターネット検閲システムのこと)のような検閲社会につながる、という懸念がありますが、今回のブロッキングは中国のものとは根本的に異なります。天安門という文字を含むウェブサイトは見られなくするというような思想統制につながるような話ではなくて、日本の法律が及ばない海外で日本向けの違法サービスをおこなっているサイトをブロッキングするだけの話です。むしろ法治国家としては当然の行為ではないでしょうか?


    違法サイトを運営しているひとたちは日本の法律の抜け穴を知っていますし、その抜け穴が簡単には埋まらないだろうとたかをくくっていますが、潜在的には自分たちがやっていることは禁止されて当然だと思っています。だから、今回、ブロッキングも辞さないという政府の発表を受けて、慌てて自主的にサイトを閉鎖して逃亡したのです。


    今回の政府の発表が、もし、慎重に法制化を含めて検討する、だったら、海賊サイトの運営者たちに、鼻で笑われて終わりだったでしょう。


    これまで私は5年ぐらい知財委員会などで、国境をまたぐ違法サイトはブロッキングでしか根本解決しない(正確には世界統一でもして国境をなくせば別ですが)ことを指摘してきました。賛同者は次第に増えてきましたが、いままでほとんど議論はおこなわれませんでした。風向きが変わったのは漫画村の前に問題となったフリーブックス以降です。昨年8月以降、フリーブックス閉鎖後急速に成長した漫画村の実態が明らかになり、今年に入ってからブロッキングの議論が一挙に進展しました。いくつかの偶然が重なった奇跡的なことだと思います。


    今回の政府のブロッキングにかかわる施策を拙速だと批判するよりも、変化の早いネットの世界に比して対応が後手にまわりがちで時間もかかっていた法制化の議論を、一挙に進める好機だと関係者の皆様には捉えていただき、違法サイトに対して実効性のあるブロッキングの法制化にむけて、みなさんの知恵をお借りできればと思っています。


    カドカワ株式会社 

    代表取締役社長 川上量生


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  • ジブリのノスタルジーの源泉はなにか

    2015-06-13 16:3466
     ジブリ作品のひとつの特徴としてよく言われることに、見ていると、どこかなつかしい感じがするというものがある。
     観客に自分が昔住んでいたふるさとをなつかしむような気持ち、”郷愁”いわゆるノスタルジーを感じさせる要素が含まれているのである。
     こういうノスタルジーを感じさせる作品はジブリ以外にもあって、たとえば最近の映画では、三丁目の夕日が分かりやすい例だろう。
     いったいこの”なつかしい”という感覚はどこから来るのだろう。

     なつかしいという言葉どおりに素直に解釈すると、昔よく見ていたものを、ひさしぶりに見たときにわき起こる感情ということになるだろう。
     もうすこし補足するとしたら、なつかしいと思うには、たんに昔よく見ていただけでなく、それが好きだったものだったり、もしくは自分の楽しかった出来事や時代にリンクされた記憶であることが必要であるように見える。
     そういうなつかしいという感情を呼び起こす作品とはいったいなんなんだろうかというのが、ぼくが長年考えていた疑問だ。

     なにが不思議かって、懐かしいもなにも、ノスタルジーを感じているみなさんは、映画で描かれている世界に昔住んでいたわけじゃないだろ、ってことである。
     天空の城ラピュタの世界はそもそもファンタジーの世界だし、人間が住む町のモデルだってヨーロッパのどこかだろう。トトロの世界は、まだ舞台が日本だけど、けっしてリアルな昔の日本というわけじゃない。三丁目の夕日にしたって、実際の昭和の描かれている時代を体験しているのは、たぶん、60代以上だろうけど、どうも、それより若い世代の観客もノスタルジーを感じているようだ。
     みんないったいなにを見て懐かしいと感じているのだろう。

     ジブリの作品は観客の原風景を描いている。そういう説明もある。つまり子供の頃、昔みて、心の奥底に存在している風景と似ているから懐かしい、というものだ。これはある年代以上の世代の観客に対してはそれなりに説得力のある説明だ。でも、若い世代はどうだろう。30代以下は子供の頃から現代の無機質な都市生活で生きているから原風景も異なるはずである。
     これについては身も蓋もない説明があって、30代以下は子供の頃にトトロとかみて育っているから、そもそもジブリ作品がなつかしい、というものだ。
     年寄り世代はまだ開発が進む前の原風景、若い世代は昔からジブリ作品をみていたから、それぞれ懐かしいという説明は、結構、完成されているのだが、これを納得しちゃうと話が終わってしまうので、もう少し一般的な説明ができないか考えてみよう。

     ジブリ作品のノスタルジーの源泉についてよく聞く、別の説明は、コンクリートとプラスチックなど人工物に暮らしている現代人は、木でつくられた家や家具、田園風景、農耕や牧畜とよりそった牧歌的な風景など、より自然と調和した生活に戻りたいという本能があり、そういったものに懐かしさを感じる、といったかんじのものだ。
     なるほど。多少の説得力は確かにある。ある程度はあたっているのかもしれない。本能であれば、実際に自分たちが経験していない風景に懐かしさを感じるというのもありえる話かもしれない。
     でも、ちょっと御都合主義の説明にも思える。たとえば現実の世界で木造建築物である歴史あるお寺とか見て、懐かしいと思うだろうか、木製の北欧家具を好むひとは多いだろうが、懐かしいと思って買っているのだろうか。単純に人間の本能だというなら、人間の先祖のジャングルでの樹上生活や草原での狩りだって懐かしく思えそうだが、そんなひとってどれぐらい存在しているのだろう。
     古いから、より自然と調和しているからといって、そのままノスタルジーに結びつくわけではなさそうに思えるのだ。
     古さと自然以外になにが必要か。

     ノスタルジーを呼び起こすものに対するよくある指摘は、それは「古き良き時代の美化されたイメージ」であるということだ。
     単純な昔の記憶とかではなく、美化されたものである必要があるということだ。
     なるほど、「三丁目の夕日」にしたって、実際の昭和の時代を知っている人から、あんなに綺麗なもんじゃなかった、という批判はよく耳にする話だ。やっぱり昔の記憶を美化しているのである。
     美化された記憶。なるほど感覚的には分からないでもない。でも、それってどういうことだろう。なぜ美化された記憶からなるイメージに対して、人間は懐かしいと感じるのだろうか。
     ここは「コンテンツの秘密」で説明されているイケメン、美女論と同じ理屈が展開できるだろう。宮崎吾朗監督の指摘によるとイケメン、美女の顔とはもっとも特徴のない顔であり、それがゆえ、全部、同じになってしまうということである。そして「コンテンツの秘密」では、その理由を人間が人生の経験のなかで出会った顔の平均が、理想的な顔として脳のなかにイメージがつくられるからだという説明が与えられている。
     おそらくジブリ作品で描かれているノスタルジックな風景というのは、人間が人生のなかで出会って脳のなかにつくられた人間が生活する風景に関する平均的なイメージと共鳴していると解釈できるのではないだろうか。

     このモデルだと、ノスタルジーをかきたてる風景がなぜ見たことのないものなのか、なぜそれが美化されたものなのか、というふたつの疑問が同時に説明出来る。それは「コンテンツの秘密」でのイケメンや美女の説明とまったく同じである。いままで見てきたものの平均が脳のなかにモデルとしてつくられそれを美しいと感じる仕組みが脳のなかにあるからだと解釈できるのだ。
     ただ、見たことのない風景を人間が美しいと思う仕組みについては説明できても、なぜ、それがノスタルジーをかきたてるのか、なつかしいと思うかについては、まだ、ちゃんと説明できていない。
     このことについてさらに考察するにあたって、そもそもノスタルジーをかきたてる風景と共鳴する観客の心の中にあるモデルとはいったいどんな要素で構成されているかをあらためてはっきりさせる必要があるだろう。

     ジブリ作品や三丁目の夕日に対して、観客が本当はなににたいしてノスタルジーをかきたてられているのか、ひとつは美化されているイメージであるという指摘があった。
     じつは、もうひとつよく指摘されていることがあって、観客が反応しているのは風景ではなく、描かれている人間関係に対してではないかというものだ。人情の温かみ、優しさに全てが覆われている人間関係である。たとえ厳しい人がいたとしてもそのうらには絶対的な主人公に対する優しさが必ずある。そういった人間関係に対して、ノスタルジーを感じているというのだ。
     これは非常に説得力のある指摘だと思う。ただ、これも暖かい人間関係を描けば懐かしさを感じるかというと、例外のほうが多いように思うので、それだけで説明するのは難しいだろう。しかし、確かに重要な要素のひとつには違いないだろう。
     そうするとノスタルジーをかきおこす観客の心の中のイメージには美しい風景と暖かい人間関係というふたつの構成要素は少なくともあるということになる。
     そして暖かい人間関係というものも人生の中で経験した平均的な人間関係が理想の人間関係として人間の心の中につくられるという理解で大丈夫だろうか。本当か?性善説にたつなら一応、成立しそうな仮定ではある。

     美しい風景と暖かい人間関係。しかし、それでも、なつかしいという感覚はいったいなんだろう。経験してないものを懐かしく感じるのは、どこからもたらされる感覚なのだろうか。
     やはり素直に考えると「懐かしく」感じるということは、ぼくらは美しい風景と暖かい人間関係をやはり過去に経験していると考えるほかない。やはり美しい風景や暖かい人間関係はぼくらの原風景になっていなければいけないのだろう。
     しかし、世代の違い住む場所の違い、ジブリの場合は国籍の違いまでを乗り越えて、共通の原風景を与えるなんてことがどうして可能になるのだろうか。
     共通の原風景があるとしたら、それはいったいなんなのか。

     考えられる回答はひとつしかないように思う。
     美しい風景、暖かい人間関係、それはきっとまだ幼い自分が子供の視点から見た世界の姿なのだということだ。
     人間関係でいえば子供から見た大人の世界は実際よりも優しいものにうつるはずだ。大人は子供に優しくするものだし、子供は大人の隠れた悪意を理解しない。みんなの記憶で世界はもっと自分に優しかったのである。
     じゃあ、美しい風景とはなにか、それは子供から見た世界の風景である。重要なことは風景そのものがなつかしいかではなく、ありふれた風景が新鮮に見えるという感覚を再現できるかという点にある。
     これも「コンテンツの秘密」に書いてあることだが、ジブリのアニメの特徴は情報量の多さにある。映像を見て、観客が受け取る情報量が多いのだ。これはまだ世界のすべてが輝いて見える子供が見る世界の再現になっているのではないか。
     子供が見た世界の再現という観点から考えると、ぼくがもっともノスタルジーを感じるジブリアニメが天空の城ラピュタであることも説明がつく。主人公が男の子だから、もっともすんなり感情移入ができるということだろう。

     結論として、つまりジブリアニメが生み出すノスタルジーの源泉は子供から見た世界の見え方の再現を作品がおこなっているというのがぼくがたどり着いた答えになる。
     
     小さい頃を思い出して欲しい。まわりにうつるすべてのものはキラキラと輝いていて、すてきな秘密を隠しているように見えた。世界は美しかった。
     これからなにが起こるのか、きっと素敵な未来に違いない。自分はきっと愛されていて、まわりのひとたちは怖いときもあるけれど、みんないいひとだった。
     ぼくらにとって世界はもっと優しかった。


     
     
     

     
     



  • 任天堂とDeNAの提携について

    2015-03-18 20:1979
    はっきりいってぼくはブロマガなんか書いている時間はない。
    でも、任天堂とDeNAの昨日の驚くべきニュースとそれにつづくいろいろな
    ひとの感想。とくに否定的な論調の記事を見るにつけ、どうしてもひとこと
    書かなくていけないという衝動にかられた。

    なぜか。それは本当にいまぼくがこんなものなど書いている時間なんてないからだ。
    4月10日に書き下ろしで発売される予定の本の原稿がまだ半分しかできていないのだ。
    そんなとき、ぼくはネットで喧嘩をしたり、余計な文章を書きたいという衝動を
    押さえられなくなるのだ。

    でも、本当に時間なくてやばいので感想を要点だけ。

    ・ 大前提として任天堂岩田社長は一石三鳥以上は狙っているだろう。
    ・ 任天堂がネット戦略をすすめるにおいてもっとも不足しているリソースはおそらくウェブエンジニアではないか。それも大量に欲しいはず。一定レベル以上のウェブエンジニアを数百名程度提供できる余力がある日本のウェブ企業は、ソシャゲバブルの崩壊したDeNAとグリーだけだろう。任天堂の場合、世界展開が必要で、DeNAはベストチョイス。
    ・ 任天堂の最大の狙いは↑じゃないか?スマホアプリへのキャラの貸し出しはDeNA側からのバーター条件。任天堂はここでスマホカードを切った。
    ・ キャラの貸し出しに終わるか、もともとスマホ向きともいわれているトモダチコレクションやどうぶつの森などの実質的なスマホ版までふみこめるかどうかが今後の焦点。
    ・ DeNAのひとは全体的に頭がいい人が多いので、自社のメリットは確実にとりにくるでしょう。なんだかんだ双方満足のいくディールは成立する可能性は高いと思う。
    ・ 両者にとって会心の一手になるのではないか。とくにDeNAは再度、スマホゲームの台風の目になるのではないか。

    結論としてとてもすばらしい提携だと思います。
    これはすごい。