「そう。夢を見ているようなんだよね」。2011年4月11日。電話の向こうから、故ジャイアント馬場さん(享年61)の夫人・元子さん(享年78)さんのそんな言葉が聞こえた。記者の故郷、宮城・石巻市は同年3月11日の東日本大震災で未曽有の被害を受けた。4月にようやく帰省した際、元子さんの好物「萩の月」を贈り、お礼の電話を受けたのだ。

 通っていた小学校は真っ黒に焦げて漁船と廃車が重なっていた。父親の実家は一瞬で流された。言葉にできない悪臭と土煙。映画で見たベトナム戦争の跡地だってここまでじゃない。涙すら出なかった。

 夢の中にいるようでした――冒頭の言葉は記者の報告に対する返答だった。元子さんの実家も1995年の阪神・淡路大震災で被災した。元子さんはすぐに現地へ飛び、荒地の中を馬場さんと歩き、救援物資配布に動いた時、同様の思いを抱いたという。

 元子さんの「敵」だった時期がある。92年から全日本担当となり、馬場さんには本当に面倒を見ていただいた。しかしノア旗揚げの際は三沢さん寄りになっていたことは否めない。それでも毎年、馬場さんの命日には食事会にお誘いを受けた。記者にとって鬼より怖かった元子さんは晩年、すっかり穏やかになり涙もろくなった。「さみしい」と泣くこともあったと聞く。昨年1月の会ではお祝いのレイを首にかける大役を突然、命じられた。だが結局は何の恩返しもできなかった。

 最後の夕食では、記者の頑固で偏屈な(以下略)親戚がつくった石巻の笹かまぼこを食べて「おいしいねえ」と言ってくれたと聞いた。えっ、まさかそれをノドに詰まらせて…冗談を言おうとしても言葉が出なかった。

 人間発電所が再稼働を永遠休止した直後の訃報。馬場さんと元子さんはようやく同じお墓に入られる。鶴田さんも三沢さんも冬木さんもとうにこの世にはいない。記者だけが夢の中に置き去りにされてしまったのか。合掌。(運動部デスク・平塚雅人)