職場でちょっとあまりにきつい単純作業があったんで、音楽聞きながらやることにした。音楽聞いてればそれ自体が娯楽なので、単純作業もさほど苦痛にはならなくなる。で、それやってたらあんのじょう、俺と同じ年代のおっさんが「なに聞いてるんですか」って聞いてきて、そのとき聞いてたのはsasakure.UKだったんだけど、聞いてきたおっさんはこの世代なりの、それもインターネットの外側にいる人だったので、正直に答えたら説明でまためんどくさいことになるよなあと思って「オフコースです」って答えておいた。実際に暗記するくらい聞いてはいますし。相手の世代考えても、あのタイプのおっさんがオフコース=根暗っていう図式で把握してるのは知ってるので、それ以上会話が弾みそうにないという点でもベストのチョイスだったと思います。
で、そう答えてからしばらくして「俺はなんでこんな気を回しているのだろう」となんかものすごく微妙な気分になった。
ふだん俺は自分と他人を比較することが非常に少ない。他人に対する興味そのものが薄いし、自分が興味を持たれるという可能性もあまり想定してない。本を読むのも音楽を聞くのも、完全に自分の内部で完結している娯楽なので、基本的に他人とそれを共有することにも興味がない。ただ「俺はこう思った」っていうのだけはだれかに聞いてほしいので、こうやってブログで文章書くことはする。
で、おっさんに質問されて「オフコースです」という嘘をつくまでのあいだには、俺は相当に頭を回している。しかしその回しかたにはほとんど意味がない。俺は要は余計な会話をしたくないだけである。仮に俺が正直に答えたとして、相手がその知識を必要としていないことは明白だし、向こうだって別に興味を持って聞いたわけではないだろう。ボカロのカルチャーからすべて説明するのはアホもいいところである。
そのおっさんは以前に「朝日新聞には嘘しか書いてない」というようなことを言っていたので、たぶん逆にネットにまったく触れていないわけではないのだろうが、そういう人になにかを理解してもらうのも虚しい。
なんかこういうときに、自分の内部がなんかの深淵であるような気がすることがある。俺は偏りはかなりあるだろうが、知識がないほうではない。いまの環境でいえば、俺より学識のある人間は周囲には皆無だと思う。しかし俺はそれを活用することがまったくない。単に自分が知りたいから調べるし、読みたいから読む。興亡の世界史シリーズの「ケルトの水脈」はけっこうおもしろいです。ただそれを知ったからといってどうだというのか。目の前の人は「ケルト」と聞いてもその単語自体を知らないに違いない。ましてネオ・ドルイディズムなんぞ2時間かけて説明しても理解してくれるかどうか。このへんのことは、たとえばはてなで記事を上げればブコメで言及する人はいくらでもいるだろう。常識とまではいわないが、ちょっと詳しい人ならまったく聞いたことがないということもないと思う。俺にとってはその程度の認識である。
しかしその知識や興味はだれにも共有されない。そう感じたときに、たまにだけど、自分の内部が、知識だけを蓄積した真っ暗な穴のようなものだと思うことがある。読むことは、だれにも必要とされていない。知ることも、別に必要とされていない。にもかかわらず、俺は読むし、調べる。うちの奥さまがたまに「あんたもよくやるよね、だれにも頼まれてないのに」とか言うことがあるけど、まあまさにそんな感じだ。
たぶん周囲のおっさんたちは、俺がそうした、生きるために特に必要でもない知識をためこんでいるあいだに、なんかほかのことを知ったり学んだりしているわけだ。そう考えると、おかしいのは俺のほうであり、許されていないのは俺の存在のほうであるような気がしてくる。
まあ、友だちつくればいいだけなんですけどね。自分の知ってることを制御せずに会話できるってのは楽しいことだってのは知ってるんで。でも億劫だよねえ……。