上野御徒町に、吉池という店がある。一階は魚屋、地下1はスーパー(とパン屋)、地下2は酒屋と荒物屋である。
我が陋屋からは電車で一本、月に一度ぐらい気の利いた魚が食いたくなった時に買い出しに行く。無論上野である、しばしばインバウンド共が己と活ガニを自撮りしようとして河岸声の親爺に止められている風景を見るのはご愛嬌だ。しかしそれよりよく見るのが近隣住民の年寄り衆(婆さんというほどしょぼくれてはいないが、マダムと呼ぶには雑気ない)。イメージよりは地元民という奴がこの辺には多く隠れている。
さてこの店、数年前に本店を改築し、さらに昨年ごろにレジを入れ替えた。当節はやりのセミセルフ式(レジ入力を店員がやり、支払だけ専用機でやるタイプ。客が時間をかけるのは支払いで、これを複線化するので全体の時短につながる)である。
これが入って最初の買い物の時はちょっとしたカオスだった。レジ=金を払う場所、という固定概念は強固なものなのである。年寄り衆(連中は説明にまた時間がかかる)を筆頭に時短につながるはずの新システムは、行列生産機と化していた。まー年寄りだから仕方あるまい、と思ってこちらも位の列に並んで会計を済ます。
その次の月である。年寄り衆はどうなったか。何のことはない見事に適応していたのである。あまつさえ、うち結構な数は現金ではなくスイカやらパスモやら、何らかの非現金決済を活用しているではないか。ついついレジで財布を取り出してしまうこちらとは利用頻度が違うのである。
さて、ここまで来て
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180418-00000058-sasahi-life
話はここへ帰結する。
バカか。
よほどこのアフロBBAの方が老人を侮っている。適応できるかどうかはひとえに個人の資質にほかならぬ。年寄りの全員が全員機械も使えぬ阿呆だと断じる根拠は何だ。無論、当方もn=1の話をしている。だがBBAが賢しらに書き立てる「お年寄り」はほとんど観念上のものだ。更に言えば、全員が全員そうだという話ではない。
反テクノロジーを謳って暮らしていくのは結構。勝手にしろ。しかしそれを正当化するのに勝手に「弱者様」を設定して無遠慮に世間を殴りつけることが正当な行いだろうか(反語、為念)。現実も見ていないような馬鹿が記者面を晒すな。