Konifar's ZATSU

私はのび太の味方じゃないわ、悪の敵よ

何も起きなかったことを評価する

猫を2匹飼っているんだが、2匹目のツーがワンパクで常にいたずらを考えて生きている。しかしごく稀にいたずらを"しないで"いい子にしていることがある。そういう時に「偉いねぇ〜」と褒めようとして考えたことを雑にまとめておきたい。「何もしなかった」あるいは「何も起きなかった」ことをどう評価すべきなのかということだ。

 

猫の例だと、おとなしくしていたことに対する評価をする上で2つの問題がある。

 

まず、よく考えたらそもそも偉いわけではない。普段のいたずらが過ぎる分、相対的に偉く見えているのだ。この行動を褒めて評価してしまっていいのかという点。不良が更生して称賛されるのに似ている。

 

2つ目は、なぜ褒められたかわからないのではないかという点。何もしなかったことに対して褒めるという行為は、本人にとってもなぜ評価されたのかわかりづらい。もしくは本人はわかるかもしれないが、まわりから見たら何が評価に値するのかわからないことがある。常にいい子にしている猫ワンがこの評価を見たら不服に思うかもしれない。

 

こういう話は人間界の仕事の場でも悩ましいところである。たとえばインフラは何も起きないで安定可動していることが素晴らしい。アプリを作っている人もバグが起きないことは評価されるべきだ。

 

猫ツーのように、すでに何かが「起きている」状況での相対的評価はやりやすい。傾向に対して改善したかを見て、改善具合に対して評価すればよい。

 

対して、絶対評価は難しい。縁の下の力持ちは縁の下にいるから見つけにくいし、いなくなったら今の日常が壊れることを想像しにくい。健康な時に病気の時のことを想像して感謝できる人は少ないよね。

適切に定量的に評価するにはどうしたらいいのだろうか。

 

何も起きないことが評価されるべき仕事の場合には、想定とプロセスを評価すべきなのかもしれない。アプリのバグ0件だったとしたら、バグがなくなる工夫を必ずしているはずだし、バグがなくなったことで他に時間をかけられるようになったはずである。こういうのを深堀りすれば適切に評価できるのかもしれない。

 

問題は、その深堀りはめんどくさいということだ。他者にわかってもらえるくらい説明するのは意外とめんどくさいのだ。結局、何も起きないことの価値をわかっている人が評価するしかないのかもしれない。

 

とか考えているうちに猫ツーがエサを食い終わり、猫ワンのエサを漁ろうとしていた。何も起きないことの価値を本人がわかっていないこともあるのだ。