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日本会議と「生長の家」、世間が知らない本当の関係

『島田裕巳』

読了まで7分

島田裕巳(宗教学者)

 「日本会議」のことが急に注目されるようになってきた。日本会議について論じた本がいくつも出版され、かなりの売り上げを見せている。それだけ世間は、この団体に注目していることになる。

 日本会議について扱った本では、この組織と新宗教の教団、「生長の家」との密接な関係が指摘されている。

 ただし、生長の家は日本会議の加盟団体ではないし、現在の教団はむしろ日本会議の路線に対しては批判的である。
「日本会議」の公式ホームページ
「日本会議」の公式ホームページ
 生長の家の創始者は谷口雅春という人物で、雑誌『生長の家』を刊行し、その合本である『生命の実相』を刊行することで、「誌友」と呼ばれる会員を集めた。

 新宗教のなかには、出版活動に重きをおいているところが少なくないが、生長の家はその先駆けである。

 ただ、生長の家の特徴は、『生命の実相』を読めば、万病が治り、貧乏も逃げていくと宣伝したことにある。評論家の大宅壮一は、新聞に大々的に掲載された『生命の実相』の広告を見て、これほど素晴らしい誇大広告があっただろうかと皮肉っていた。

 もう一つ、生長の家の特徴は、戦前においては天皇への帰一を説いて天皇信仰を強調し、さらには、太平洋戦争が勃発すると、それを「聖戦」と呼び、英米との和解を断固退けるべきだと主張したことにある。

 中国を撃滅するために「念波」を送るよう呼びかけたところでは、まるでオカルトの世界である。

 戦後になると、谷口は、「日本は決して負けたのではない」と主張し、生長の家の教えには「本来戦い無し」ということばがあるとして、本来は平和主義であると主張した。

 まるで御都合主義で、節操がないとも言えるが、谷口の思い切った言い方は、多くの読者に共感をもって迎えられた。

 彼は、早稲田大学の文学部で学んだインテリで、文才に恵まれていた。文章が書ける宗教家は珍しい。つまり、それまでの主張と合わない状況が生まれても、谷口は、それを文章の力で合理化できたのだ。

 戦後谷口にとって好都合だったのは、冷戦という事態が生まれ、東西の対立が生まれた点である。

 日本国内では、保守と革新、右翼と左翼が激しく対立するようになり、生長の家の天皇崇拝や国家主義、さらには家制度の復活などの主張は、保守陣営に支持され、社会的に大きな影響力をもった。

 具体的には、明治憲法復元、紀元節復活、日の丸擁護、優生保護法改正などを主張したが、これが戦前の軍国主義の時代に教育を受け、戦後急に生まれた民主主義の社会に違和感をもった人々の考えを代弁するものとなったのである。
「日本会議」もうひとつのルーツ

 さらに生長の家は、「生長の家政治連合」を結成して、参議院に議員を送り込んだ。
自民党の故・玉置和郎元総務庁長官(中央)。「生長の家政治連合」に所属し、支援を受けていた=昭和49年1月
 また、生長の家学生会全国総連合という学生運動の組織を結成したが、これは、1960年代広範に盛り上がる新旧左翼の学生運動に対抗するためのものであった。ここに集った人間たちが、現在の日本会議の事務局を担っている。

 新宗教はどこでもそうだが、その教団を作り上げた初代がもっともカリスマ的で、迫力があり、人を引きつける力をもっている。

 生長の家の場合がまさにそうで、谷口のカリスマ性が多くの会員、支持者を集めることに結びついた。

 しかし、そうしたカリスマ性を後継者も同じようにもつことは不可能である。

 それに、谷口が活躍した時代は次第に過去のものとなり、冷戦構造は崩れ、左右の対立という構図も重要性を失った。生長の家の教団自体が衰退したのも、時代の変化ということが大きかった。

 生長の家と日本会議の関係について、もう一つ注目する必要があるのが、谷口がかつて所属した大本のことである。

 大本は、出口なおという女性の教祖が開いた新宗教の一つだが、教団を大きく発展させたのは、神道家で、なおの娘すみと結婚した出口王仁三郎である。

 王仁三郎がいかにユニークな人物であるかは、拙著『日本の10大新宗教』(幻冬舎新書)でふれているので、それを参照していただきたいが、日本会議との関連で注目されるのは、この王仁三郎が1934年に組織した、「昭和神聖会」の存在である。

 昭和神聖会は、昭和維新を掲げる団体で、その賛同者には、大臣や貴族院議員、衆議院議員、陸海軍の将校なども名を連ねていた。

 この昭和維新会の綱領では、「皇道の本義に基づき祭政一致の確立を帰す」や「天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す」といったことばが並んでおり、これは、谷口の主張、さらには日本会議の思想にも通じるものをもっていた。

 王仁三郎は、全国を奔走し、組織の拡大につとめるが、国家権力の側は、昭和神聖会の急成長に警戒感を強め、それが1935年の大本に対する弾圧に結びつく。

 警察は、大本が国体の変革をめざしているとして、王仁三郎などの教団幹部を逮捕し、教団施設を徹底的に破壊した(昭和神聖会については、武田崇元「昭和神聖会と出口王仁三郎」『福神』第2号を参照)。
組織としての実態を必ずしも持っていない「日本会議」

 日本会議の代表役員のなかに、手かざしで知られる新宗教、崇教真光の教え主岡田光央が含まれていて、崇教真光は日本会議の大会に大量動員を行うなど、熱心に活動している。

 その崇教真光の創立者、岡田光玉は、世界救世教の元信者であったが、世界救世教の創立者、岡田茂吉は大本の幹部であった。

 現在の大本は、教団のあり方も変わり、日本会議に加盟しているわけではないが、日本会議のルーツの一つなのである。
大本の聖地、梅松苑にある「みろく殿」。「長生殿」が出来るまでの40年間、中心神殿だった=京都府綾部市
 そうした側面から、日本会議を見ていくことも、今必要なことではないだろうか。

 それにしても、日本会議についての本が立て続けに出版され、多くの読者を獲得している状況は不思議である。

 実は私は、少し前に『日本会議と創価学会』といった本を書こうとして準備も少し進めていた。

 ところが、「日本会議ブーム」が起こったことで、組織としての実態を必ずしも持っていないこの団体が、あたかも最近の日本を動かしてきたかのようなイメージが作られてしまった。

 そうした予想外な事態が起こったので、『日本会議と創価学会』はとりあえずお蔵入りにしたのだが、本当に日本会議には、関連の書籍が指摘しているような力があるのだろうか。

 私はたまたま、今年の3月、地震前の熊本で、日本会議の熊本支部が街頭で活動しているのを目撃した。ただ、全国で同じような活動が展開されているのかと言えば、そうではなく、むしろ熊本だけが熱心であるようだ(街頭で日本会議が活動している写真は必ず熊本である)。

 日本会議が右派運動の中心という見方は、分かりやすいかもしれないが、事実とはずれている。私たちは、冷静に日本会議の存在意義を評価しなければならないだろう。

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