先々週だったか、亡くなったアニメ界の巨匠、高畑勲監督追悼記念に『火垂るの墓』をテレビで放送していました。
その後、台湾や香港でも追悼放送されたらしく、みんな目に汗を浮かべていたということがネットで書かれていました。あの映画で涙するのは世界共通のようです。
このせいか、私が以前書いた『火垂るの墓』関連の記事へのアクセスが放送当日から数日間、バズりにバズっていました。
放送中にさりげなくつぶやいたツイートも、2500リツイート突破。約3日間、Twitterの通知で私のケータイがバイブで終始震えっぱなし。バッテリー減少速度が通常の3倍どころか10倍以上になってしまいました。
まあ、私も放送確定から、
「これは絶対来る!」
と、何度もリライトして待ち構えていたんですけどね。
これを見て下さった方、改めて御礼申し上げます。
『火垂るの墓』でも描かれている神戸への空襲は何度か行われていますが、本題に入る前にこれを予習・復習しておきましょう。
中学生でもわかる神戸大空襲入門
神戸市は米軍の攻撃リストの中でも「真っ先に焼き払うべし都市」とマークされ、大規模なものだけでも3度空襲を受けています。
大小合わせて神戸が空襲を受けた回数は、なんと128回。これは東京の130回に次ぐ日本2位の記録であり、大阪の33回と比べてもいかに多いかがわかります。
1.第ゼロ回神戸空襲(昭和17年4月18日)
最初の空襲は、昭和17年にまでさかのぼります。
空母に無理やり搭載したアメリカのB25爆撃機が、東京や横須賀などを奇襲したこの空襲は、爆撃の指揮官の名をとって「ドーリットル空襲」と呼ばれ、知る人ぞ知る米軍による日本初の空襲です。
このB25爆撃機は元の空母に着艦できるわけがなく、日本をそのまま通り過ぎ中国大陸などに不時着。墜落して亡くなったり、日ソ中立条約を盾にソ連に着陸を拒否られたりという、良く言うとかなり大胆ですが、悪く言うと相当無茶な作戦でした。「アメリカ人が考えた特攻作戦」と言ってもいい。
その上、その割には物理的な被害は少なく、ドーリットルをもじって「Do nothing」(しかし、なにもおこらなかった)だと笑いのネタにされるほどでした。
しかし、神国日本の空が鬼畜米英に汚されたという心理的ダメージは大きく、海軍は何やってるんだと批難の声も高まりました。
これがミッドウェー海戦への伏線となったことから、太平洋戦争史のキーポイントでもあります。
「ドーリットル空襲」は東京など関東では目撃者も多く、作家の阿川弘之も徴兵検査当日ではっきり覚えていたこともあり、エッセイにしたためています。
それだけに、「ドーリットル空襲=東京だけ」というイメージも強いことは確かです。
つい一年前もTwitterで、
「横須賀で空母『龍鳳』に改装中の潜水母艦『大鯨』が、ドーリットル空襲の流れ爆弾に当たって損傷した」
と書いたら、東京しか空襲していない、知ったか乙と嘘つき呼ばわりされたほどでした。そんなおバカさんには一次資料を出してお仕置きしてあげましたが、それほど東京「だけ」というイメージが強いのです。
しかし、B25は神戸市にも来ており、爆弾を落としています。大阪より早くに空襲されていたことに、驚く人も多いかもしれません。
これが記録に残る神戸最初の空襲ですが、被害はほとんどなく「Do nothing」だったようです。
2.神戸大空襲予行演習(昭和20年2月4日)
「ドーリットル空襲」の頃はまだDo Nothingと皮肉れるほどの余裕があった日本も、昭和20年に入るとほとんど余裕がなくなっていました。
戦争中の体験記などを読むと、戦前は裕福だった文士も昭和19年末になると食うものも食えず、食糧事情が逼迫し始めた頃でもあります。
そんな早々、焼夷弾による爆撃が2月に行われました。
(国立公文書館デジタルアーカイブ『戦災概況図 神戸』より)
濃い赤の部分が被害箇所ですが、これは焼夷弾の威力を試すための実験空襲だったことが米軍の公開資料からわかっています。場所もピンポイントで、被害もさほどでもなかったそうです。
しかし、これは翌月から起こる地獄絵図の無差別爆撃の、ほんの腕鳴らしに過ぎませんでした。
3.第一回神戸大空襲(3月17日)
空襲実施機数(B29):307機
投下爆弾量:約2,328トン(焼夷弾が中心)
被害区域:兵庫区、林田区、葺合区、新開地、元町、三ノ宮
東京大空襲から一週間後、神戸ははじめて大規模空爆の被害に晒されます。
この空襲によって、西は現在の長田区・兵庫区、東は三ノ宮駅前など神戸市の西半分が多大な被害を受けました。
妹尾河童の傑作、『少年H』で描かれている神戸空襲は、この3月のものです。
(いずれの写真も神戸市「神戸の戦災 写真から見る戦災」より)
4.第二回神戸大空襲(5月11日)
空襲実施機数(B29):92機。
投下爆弾量:約450トン(通常爆弾が中心)
被害区域:本山村、本庄村、住吉村、御影町など(現在の東灘区、灘区)*1
東灘区にあった航空機工場*2が目標とされました。天気は曇のち雨だったと記録されています。
爆弾による精密爆撃で、当時は「本庄村」だった東灘区とその周辺が被害を受けました。
3.第三回神戸大空襲(6月5日)
空襲実施機数(B29):474機。
投下爆弾量:約3,079トン(焼夷弾が中心)
被害区域:現在の神戸市全体+芦屋・西宮市
俗に「神戸大空襲」というのは、この日の空襲をさしていることが多く、『火垂るの墓』に描かれ母親が亡くなった空襲もこの日のことです。
前回の空襲で焼け残ったところすべてが対象となり、西は須磨・垂水、東は西宮まで広範囲に及びました。
そしてこれは明らかに住民密集地区を狙ったもので、「焼き払え」という声が聞こえてきそうな無差別爆撃でした。
ちなみに、神戸生まれだった我が父親は、この空襲のことを覚えているそうです。
父親は奈良に疎開していたので、直接被害を受けたわけではありません。空襲直前まで神戸にいたそうですが、たまたまか曾祖母のもとに帰っていた祖母と父が、数日経って祖母と一緒に荷物を取りに帰ったら、家どころか神戸の町が「消えていた」と。
当時5歳(満4歳)なので細かいことは覚えていないそうですが、焼き払われっぷりの神戸市の光景だけは記憶に焼き付いているそうな。
そしてよく考えると、オヤジと節子は同い年だったことに最近気づきました。つまり、フィクションながら節子が生きていれば、私くらいの子どもがいて、おそらくは孫もたくさんということになりますね。
空襲はこれだけではありませんでした。
5月3日より神戸港に機雷が投下され、7月には長崎型プルトニウム原爆と全く同じ形・重量の「模擬原爆」が、川崎車両などに落とされています。
8月5日には、「阪神空襲」と呼ぶべき、現在の尼崎市から芦屋市にかけての無差別爆撃も行われています。
その上、グラマン戦闘機による機銃掃射は、数えるのも面倒くさいほど行われていたので、「毎日が空襲だった」と言っても大げさでもなんでもないでしょう。
空襲で受けた神戸の被害は、
・戦災家屋数141,983戸・
・総戦災者数
罹災者530,858人
死者7,491人
負傷者17,014人(神戸市ホームページより)
となっていますが、確定資料が行政機関も持っておらず、実数はもっと多めとされています。
また、人口千人当たりの戦争被害率は47.4人。これは当時の五大都市(東京・大阪・名古屋・横浜・神戸)で最高を示しています。
神戸は「猫の額」ほどの平地に人が密集して住んでいたので、空襲など火に包まれると逃げ場がなく、それが多数の死者を生んだ地理的要因もありました。
空襲により神戸がどれだけ焼き払われたのか、戦後のカラー映像が残っているのでこちらもどうぞ。映像、それもカラーで見ると空襲が昨日のことのようにリアルになります。
70年後も残る戦争の疵
神戸大空襲や終戦からすでに70年を過ぎ、戦争は過去の本棚で眠りにつくことが多い出来事です。
さらに1995年の阪神淡路大震災で、神戸が多大な被害を受け建て替えなどが進んでいます。
阪神淡路大震災でも24年経ち疵を探すのは困難になってきたのに、70年前の空襲の跡なんてさすがにもうないだろう・・・。
ところが、その跡が残っていたりするのです。それも、意外すぎるほどの場所に・・・。
JR三ノ宮駅
JR三ノ宮駅は、戦前から特急『燕』などの優等列車が停車する鉄道の要衝でした。
三ノ宮界隈が人とモノの中心地になるのは、戦前は神戸駅・新開地にあった市役所や繁華街がこちらに引っ越してきた戦後のことですが、戦前の三ノ宮駅は神戸港発着の国内・国際船のアクセス駅として、大いに賑わいました。当時の海外渡航は船がメインだったため、空港のターミナル駅のようなものと思えばいいでしょう。「ターミナル駅」を名乗るには神戸港までめちゃくちゃ遠いですが、戦前はそんなもの。
優等列車はすべて神戸発着だったのですが、なんで神戸じゃなくて三ノ宮発着にしないのか。
その理由は簡単です。三ノ宮駅に列車を折り返す設備や信号設備がないから。*3
駅の一階にあるコンコースです。
最近耐震補強が始まり、電灯がオールLED化され見栄えは変わってしまいましたが、装飾が非常に凝っているコンクリート製の円柱が並んでいます。
この風景・・・
『火垂るの墓』のオープニングは、主人公の清太が衰弱死する衝撃のシーンから始まりますが、彼がもたれかかって死んだ円柱は、このJR三ノ宮駅のものです。
耐震補強で味気も素っ気もなくなった駅の円柱ですが、一本だけ手付かずのものが残っています。
他は補強済みなのでこの一本だけがやけに浮いていますが、そもそもこれがオリジナル。確信犯的に残っているので、JRがわざと残したのでしょう。
コンコースもある意味戦争を生き抜いた遺産ではあるのですが、傷跡はもっと意外なところにあります。
JRと阪急を結ぶ連絡通路が外に走っています。
写真は土曜日の朝6時時点なので人が少ないですが、通勤通学ラッシュや土日の昼間になると、乗り換えなどの人であふれかえるほどの黒山三昧となります。
三ノ宮駅を通勤通学で使っている人なら、何度も通ったことがあるのではないでしょうか。田舎者の私は一度も使ったことはありません。
こんなところに、実は戦争の傷跡が残っていたりするのです。
一見何気ない通路ですが、左側のJRとの境界線にある鉄のガードに注目。
ガードに孔(あな)が開いていることがわかりますか。
JRのホームが途切れそうな際の鉄板に、無数の孔が開いています。
これは腐食で穴が開いたのではなく、米軍戦闘機による機銃掃射の跡なのです。
元々は高架の上なので間近で見ることはできないはずですが、連絡通路のおかげでJRの高架を人間目線で、それも超間近で見ることができるのですが、そうだからこそ発見できた戦争の痕の一つです。
鉄板のめくれ具合から、北の方から南の方向へ撃たれたことがわかります。
鉄板自体はそれほど厚くもないのですが、それでもめくれて孔が開くほどの威力。人間がまともに食らったら、身体に孔が開くどころではないでしょう。
それにしても、何故70年も修理もされず穴が開いたままになっているのか。
理由は推測ながら、孔が開いていても取り替えるほどの価値がなく、それ以前に修理・修繕すべきところは、あの時代なら山ほどありました。こんなところは、後回しと顧みられないのです。
そのまま放置プレイされたまま月日は経ち、機銃掃射の痕など忘れ去られていたが、連絡通路が出来たことによって誰かが再発見したのだと。
この銃痕は、「ここにありますよ」と看板が立っているわけではありません。それだけに、最初に見つけた人はよく見つけたなと感心するのですが、
大多数の人は何も知らずに素通りしています。人通りが多いからこそ、まさかこんなところに・・・という意外性もあるのです。
70年前の孔は、今日も何も語らないまま、そしてほとんどの人に気づかれないまま、行き交う人々の往来を見続けています。
ここにあるなら・・・
この時、私の頭にある考えが浮かびました。
「ガードにあるなら、駅のホームのどこかにも機銃掃射の痕があるんじゃないか?」
この仮説をもとに、JR三ノ宮駅ホームを舐め回すことになりました。どうせこの後にJRに乗って遠出するので、もののついでです。
三ノ宮駅ホームから見た、連絡通路横の銃痕です。
駅は70年の月日で何回かリフォームされているのか、戦前からありそうなものは屋根を支える骨組みくらい。
その骨組みも鉄筋の厚さが連絡通路横と違うため、判定がビミョーなのはあるものの、これだ!というものはなかなかお会いできません。
上を見、たまにうーんとうなってはホーム上を歩く私の姿は、傍目から見るとさぞかし異様に見えたことでしょう。
長い三ノ宮駅ホームを端から端まで見ること小一時間、ついに見つけました。
明らかに機銃掃射の痕です。厚い鉄筋を貫通していることがわかります。
鉄筋に穴が空いているほどのものは、この一ヶ所だけでした。
が!
上の写真のように、「何か」が当たって凹み穴となっているものは、私が老眼に鞭打って凝視したところ、4~5ヶ所は存在していました。
人間の背が届かない部分なので、おそらく鉄が厚く銃弾を弾き返した際に出来た凹みなのかもしれません。
これがホームのどこにあるのかは・・・ホームの屋根あたりを凝視して小一時間かかるので、三ノ宮駅近辺で小一時間の時間ができたら、是非チャレンジしてみて下さい。
阪急三宮駅
JR三ノ宮駅の隣にあるのが、「お阪急」こと阪急電鉄の三宮駅です。
1936年(昭和11)に開業したこの駅は、「世界一格好いい駅」と呼ばれた超近代的な駅でした。
(上の写真のカラー化)
ビルの真ん中に作られたトンネルから、電車がニュイっと出てくる光景は、地元民や鉄道好きな人にはおなじみです。
しかし、よく考えるとビルの中に電車が通り抜けるというのは、攻めに攻めまくったデザイン。それが実にモダンで、ハイカラ好きな神戸っ子の誇りでした。
そして、駅の中も阪急らしい高級感あふれる造りになっていました。
川西英という版画家が戦前に制作した阪急三宮駅ですが、ビルをくぐったトンネル奥に見えるホームが、「省線」と呼ばれていたJR三ノ宮駅です。
これを見るだけで、当時のモダンぶりがわかります。阪急電車に乗って三宮駅に着く前の、信号の赤や青色が艶めかしく感じる暗いトンネル(実はビルの中)を抜けると、そこには奥まで伸びた近代的なホームが。
地下鉄すらほとんどなかった時代、まるで手塚治虫アニメか銀河鉄道999のような世界だったことでしょう。手塚治虫は、宝塚とは言え阪急沿線の出身。阪急で神戸にも来たことがあると本に書いていたので、あのマンガのインスピレーションは、三宮駅の近未来SF感から生まれたのかもしれません。
初代の三宮駅ビルは、残念ながら阪神淡路大震災で壊れてしまい、現在は残っていません。今でも残っていれば、絶好の「昭和考古学」ネタだったのですが、ないものは仕方ない。
が、西側は残り現在でも使われています。
どこかの高級ホテルを思わせるような、白亜を中心とした色使いとデザイン。阪急の前に「お」をつけたくなるような高級イメージは、こういうところからも来ているのです。
この西口は、神戸に来たらわざわざ見に行く価値があるほど芸術的なので(というか、阪急神戸線に乗って三宮に行けばイヤでも見れる)、ここはまた別記事で掘ってみようと思います。
現在の駅ホームは、構造こそ変わっていますが基本的な位置は変わっていません。ホーム上の屋根も当時のままです。
そこで、ふと上を向いて屋根を見てみると!
なんだか穴を何かで埋めた感が。
これ、実は空襲で焼夷弾が屋根を貫いた痕なのです。
私がこの時点でネットで得た情報では、一ヶ所だけでした。
(神戸市ホームページより)
空襲で焼けた阪急三宮駅です。
上の写真をカラー化してみました。
奥の右の屋根の部分が当時のホームですが、屋根に爆弾で開いた孔が数多くあるのがわかります。カラーにすると、背筋が寒くなるほどリアルです。
また、左の駅ビルの4階と5階が焼けて窓枠がグシャグチャになっていることもわかります。焼夷弾が天上から貫き熱で焼けたか溶けたのでしょうが、3階までは焼夷弾も貫かなかったのでしょう。
この写真の右側の屋根が、多少補修されているとは言え今も使われているのですが、こんなに穴が開いているなら一ヶ所なわけがない。私のカンはそう申しておりました。
ここでも、坂本九の名曲そのままに上を向いて歩いてみると、やはり私のカンは正解でした。
あるはあるは、孔を埋めた跡が!!
孔の大きさからして、焼夷弾ではなく機銃掃射の痕じゃないかというものも発見しました。
これでもまだ一部です。これはそうじゃないかな!?ただの老朽化じゃないのかな!?と断定できないものまで入れると、阪急神戸三宮駅の真上はある意味「孔だらけ」でした。
また、こんなものもありました。
空襲の熱で鉄骨が曲がってしまった姿も残っています。曲がりは設計上のデフォルトかな!?と思ってしまうほどにさりげないですが、熱で曲がったものです。
鉄が変形するほどの温度に、駅は達していたということでしょうが、おそらく数百度にはなっていたことでしょう。そこにいた人たちは、こういう言い方をするのも何ですが、こんがりとローストされたということでしょうね・・・。
阪神大震災の傷跡でさえ探すのが難しくなった今ですが、70年前の戦争の傷跡が、都会のど真ん中のど真ん中で出会えることは、非常に不思議なことでもあります。この出会いは偶然ですが、こういった小さな傷痕は今でも町の至るところに残っているかもしれません。
誰も見向きもしないささやかな戦争の痕・・・これも「昭和考古学」であり、「B級歴史学」のすすめでもあるのです。