すなわち、譲らない

感想や解釈など

「音」によってはじめて浮上し完成するもの(『リズと青い鳥』感想)

映画『リズと青い鳥』を見ました。原作未読、TVアニメシリーズは一期の途中までしか見ていませんが、話の大筋をとらえるのに問題はなさそうな印象を受けました(細かい描写はどうかわかりませんが)。

この作品をひとことで表すなら、という問いにたいして、私は「音」という言葉を選びます。それほどまでに「音」に、そして「音」によって視界から浮かび上がる事物を徹底して描き、そして視覚と聴覚の融合があってはじめて対話が成り立つという主題を導いている、そんな映画だと思います。

 

今回は映画にあらわれる「音」を軸にして、視覚情報にも触れつつ、感想を書きます。

(文章の展開には必要ないけれどこれはどうしても書いておきたい…!と思ったことがらは「***」で囲って書いています)

 

ネタバレを大いに含みます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、冒頭~「リズと青い鳥」のタイトルが出るまでの数分間。ローファーが道路を蹴る「靴音」のリアルさに気付きます。こつこつ、と靴底が階段やアスファルトの表面にぶつかる音です。ふたりの会話と同じぐらい、あるいはそれ以上の音量を持ったふたりの足音。ここから、言葉による会話がそれ以外の音より必ずしも優位であるわけではないことがわかります。

言葉は足音と同程度の意味しか持たない、とするか、足音は言葉と同程度に意味を持つ、とするか。これこそ単なる言葉遊びにすぎませんが、言い回し一つで全く異なる印象すら与えてしまう「言葉(文字)」のあやふやさも伴って(これは少し言い過ぎな感もありますが)、「靴音」は強烈なインパクトを持って冒頭の重要な要素のひとつになります。

 

このとき、画面(カメラ)は下方に向けられていました。シーンの主観である鎧塚の視線と一致します。

学校についたあとも、上履きを床にたたきつける音・そっと置く音、どちらも主体(動作主ではなく音が鳴る物体。「誰によって」ではなく「何が」)である上靴や足にフォーカスがかかっています。

この「足元へのフォーカス」は、現時点では「内向的な鎧塚の視点」と捉えるのが自然でしょう。じっさい、傘木と喋っているときも彼女の後ろを歩き、眼球は下に向いています。

 

 

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全編通して幾度となく描かれる「足元へのフォーカス」はいったん置いておいて、冒頭部分で印象的な視覚情報、「髪型・容姿」についても少しまとめましょう。

傘木の髪型はポニーテール。歩くたび、出した足と逆の方向へテールが揺れます。しかも、かなり大げさに揺れていました。対照的に、鎧塚の髪型はロングです。「手で髪を撫でつける」という彼女の癖も相まって、ほとんど髪は動きません。

ここに、(冒頭での)傘木→青い鳥、鎧塚→リズ の対応を見ることができます。結んだ髪を思いのまま遊ばせることのできる傘木は大空を自由に飛び回る青い鳥を連想させ、長い髪をなびかせることもせず寧ろみずからの手で抑え込んでいる手鎧塚は、孤独で人間の話相手がいないリズを想起させるからです。

また、傘木の大きな口・鎧塚のほとんど開かれない口も同じく、傘木が青い鳥であり鎧塚がリズであることを強く印象付けます。セリフによるイメージ付け「なんだか私たちみたい」も相まって、完全に我々に 傘木→青い鳥、鎧塚→リズ の対応図を刷り込ませています。

 

では、話を音と視線の関係に戻しましょう。

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足元へ焦点を合わせることによって、その視点の持ち主である鎧塚=リズの語り(のみ、と言い切ってしまってもよい)によってこの作品は進行するものだというイメージを受けます。それと同時に、足元へのフォーカスは鎧塚特有の(感情や言葉をはっきりと表にださないことによる)対話不全をあらわすものである、と。

それも間違いではありません。むしろ上記のように機能している場合も多々あります。

 

ですが、これだけでは説明できない状況もありました。鎧塚が関わっていない状況での会話です。傘木と剣崎の会話などでも、人物の顔が画面正面でアップになることはめったになく、それどころか鎧塚視点のときの同じように上履きにカメラが寄るシーンが多数ありました。

 

これをどう捉えるか。

これを、「足元へのフォーカス」ではなく「音」へのフォーカスだとして説明します(ただし、ここでいう「音」に「声」は含まれません)。

会話中とはいえ、ただそこに突っ立っているわけではないのですから、足の位置を変えたり、少し移動したりする際、必ず床と足がぶつかり、あるいは擦れて、「音」が生まれます。その瞬間を見逃さず、画面は音の主体=上靴 を視覚情報として切り取ります。

通常立っているときに地面と接している(=なんらかの体の動きで音が鳴りうる状態にある)のは足だけですから、自然と足を映すシーンが多くなる、という具合です。

つまり、ただ単に視線が下を向いているからカメラが下を向く、というかたちではなく、音によって浮かび上がったアイテムをカメラが拾い上げる、という、音→目 の構造になっているのです。

 

ではなぜ会話の中核である「声」を差し置いて「(足)音」へ意識と画面を向けるのか。それは、繰り返しになりますが、「声」が会話の中核であるからにほかなりません。

詳しく説明します。「声」は会話に含まれる情報のほぼ全てである、これは誰しもが同意することでしょう。ゆえに、会話は「声」に意識を向けてさえいればいい、と間違った理解を招きがちです。しかし、声だけを聞いて他の音を聞こうとしないままでは、その会話のすべてを把握したとは言えません。声は会話の”ほぼ全て”であって、完全に”全て”ではないのですから。

身じろぎの足音、スカートの裾をきゅっと掴む衣擦れの音、息遣い。そういった声以外のありとあらゆる音もまた、声と同じぐらい雄弁です(同じぐらい、というとやや語弊があるように思われます。声は音でありながらむしろ「言葉(文字)」のかたちで理解されるのに対し、それ以外の物音はダイレクトに「音」のかたちで理解されるからです)。それらの音無くしての会話は、ただのテキストチャット同然です。ゆえに、声以外の音をはっきりと見せることが必要になってきます。

 

じっさいの会話では、我々が無意識に行っていることかもしれません。しかし、アニメになると話は別です。キャラクターが発する文章・声の調子・表情、ぐらいしか我々はアニメを見るときに考慮せず、その際の物音に気を配ることを忘れているのではないでしょうか。

この作品では、発話するキャラクターの顔・口ではなく、そういった諸々の「音」にあえてカメラを向け、浮かび上がらせることで、たんなるテキストの交換にとどまらないリアルな「会話」の情景、緊張感、感情の動きを演出しています。

 

 

この考え方は、足元以外の何かしらがズームされるときも同様に成り立ちます。例えば水槽のエアーポンプ。例えば頬杖をついたときの机。例えば鞄のファスナー。こういった言葉・文字にしない物音 / 通常忘れられ、あるいは描かれもしない物音を、どんな小さな音も逃さないですべてアップのカメラで切り取り、(しつこいようですが「声」ではなく)「音」の存在をこれでもかというほど主張しています。

 

 

* * *

序盤では鎧塚の視点に沿うかたちで物語は進んでいきますが、ストーリーが進行するにつれ、鎧塚が知らない傘木の視点も増えてゆきます。このあたりから、一瞬翳った表情を傘木が見せる描写や進路に関係する話も多くなり、いよいよ前もって示した 傘木→青い鳥、鎧塚→リズ の構図が、あるいは 傘木→リズ、鎧塚→青い鳥 でもありうるという布石にもなってきます。

傘木の視点に移っても変わらず徹底して描かれる足元のピックアップは、(「音」への注視であると同時に)序盤で印象付けた「鎧塚のうつむく視線」でもあるからです。

加えて、中盤以降の傘木はポニーテールがほとんど揺れません。少なくとも、冒頭のように大げさに揺れることはなくなります。これも、傘木は羽をもっていない、つまり 傘木→青い鳥 ではないという可能性の提示になっています。

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以上述べてきたように、情報の本質を担う要素である「音」が先行し、視界がそれに追従(あるいは同時に)するかたちで事物を切り取る、この形式が徹底されてきました。

 

では、「声」には何の力もなく、あってもなくても同じだという扱いなのか。こう結論づけてしまうのは誤りです。

印象的な例を挙げましょう。生物室にいる鎧塚・中庭を挟んで向かいの教室で練習をする傘木 のふたりが、窓越しに口パクで会話する場面です。フルートに反射した太陽光が鎧塚のセーラー服を照らすシーン。

中庭を挟んだ窓越しの口パクですから、当然そこに「声」はありません。フルートの反射光で遊び、身振りで会話を行っていたふたりですが、他の部員に呼ばれたのでしょうか、ほんの些細なきっかけでふたりのやりとりは中断されます。

その直後のシーンもまた好例です。音楽室での合同練習で目と目があったふたり。手でサインを送り、またも口パクで意思疎通をとりますが、またちょっとしたことで断絶します。

ここから分かる通り、いくら目で相手をとらえていてもそもそも声がなければ会話はできない、という、「音」の重要さは声の存在を前提としているのです。

静かな理科室。すぐさま一変して、うるさいぐらい様々な音にあふれる音楽室。そのどちらにいても、声なき会話は会話として成立しない、ということを描き、そうすることによってラストの互いの好きなところを「言い合う」大好きのハグを引っ張ってくる展開が鮮やかでした。

 

さて、本作において「楽器」の立ち位置はどこなのか、ということについても触れます。

楽器は、声と同じく「言葉・文字」の部類に属します。滝先生のセリフにもあった通り、楽器によって奏でられる音は「楽譜に現れない隙間」を汲み取り、奏者の心情とリンクさせる必要があります。会話においてこの「楽譜に現れない隙間」に対応するのが「(セリフを文字におこしたときに現れない)物音」で、「演奏」と「会話」が完全に同じ構図であることを明らかにしています。

したがってオーボエとフルートのソロはまさしく、リズと青い鳥の「掛け合い」になっているのです。

 

楽器も、発話者の口元と同じように、画面中央にアップで映ることはめったにありませんでした。はじめて大々的に楽器が画面に映るのが、クライマックスの第三楽章演奏シーンです。

 

が、その前に今一度、この作品の画面について触れようと思います。

先ほどからずっと「物音が発生している箇所へレンズが向けられピントがあっている」というようなことを述べてきました。しかし、これは必ずしも画面中央で起こっていることではありません。むしろ音源は隅に映ることが多く、中央を含めた画面の大部分はそれ以外の背景(ほぼ全てが校舎内)で占められていました。

なにかしらにフォーカスする際、ピントはあっていないものの毎回といっていいほど学校の備品が映っており、どのシーンでも「学校」という存在感(威圧感、と言ってしまってもいいほど)を放ち続けています。

すなわち「学校」は「リズの家(ないし鳥かご)」であり、すべての音はそこで鳴っているのです。そこで発生する進路の話は「青い鳥を逃がすか逃がさないか」というところに直結させることができ、日常と童話のやや唐突な切り替わりを結ぶイメージとしてはたらいています。

「学校」を画面の中央に据えること、ただ「音」を見せるのではなくその音が「響く」環境までも克明に描くこと。ここにこの作品の「音」へのこだわりがあります。同じ音でも、場所が違えばその反響のしかたも変わります。鎧塚と傘木、別々のふたりがおなじ響かせ方で音を鳴らすことができるのは、この学校の中だけ。青い鳥が人間のすがたでリズと触れ合うことができるのは、リズの家のそばだけ。この物悲しくもある前提を共通項として、童話と日常の反復は続きます。

「学校」を画面中心に置くことで日常をかくも巧妙に物語に結び付け、しかしながら鎧塚はリズであると同時に青い鳥でもあり、傘木は青い鳥であると同時にリズでもある、という、童話のような単純な構造では済まされない鎧塚と傘木だけの関係が浮き彫りにされます。

 

音の発生源をとりまく環境にさえもカメラが向けられている、という話をしたところで、クライマックスの第三楽章の話をしましょう。

 

鎧塚が自身の気持ちを咀嚼し、何をどのように傘木に伝えればいいのかを知った後の演奏です。ここで初めて、鎧塚・傘木の顔のアップがはっきりと画面中央に映ります。他の楽器も(あくまで奏者は映さない程度に)しっかりと画面に登場し、全体として「リズと青い鳥」という楽譜にあらわれないあるものを表現するに至っています。

このシーンまでずっと抑圧されてきた、話者・奏者の顔を映す画面。それが一気に解き放たれます。数々の楽器、迷いのない瞳でオーボエを吹く鎧塚の横顔、長い休符の間に傘木のひざ上に置かれるフルート。以前とはくらべものにならない音圧の演奏と、カメラの切り替わり、そして青い鳥が羽ばたくような演出も相まって、決して派手さはないもののこれまでのすべての描写が積み重なって、圧倒的な感情量があらわれました。

 

ここで興味深い点があります。画面のぼかしです。

演奏も中盤を迎えたあたりから、画面にぼかしが入り、またピントが合い――というようになります。このシーンでの視点→傘木の瞳が涙で潤んでいるから、というのがもちろん理由の一つです。

ですが、それだけとも思えません。フォーカス=音の発生の注視 を徹底している本作で、ただ「涙で目が潤んでいるから」という理由だけでここまで(1度や2度ではなかった)のことをするでしょうか。序盤で、足元へのフォーカスが「音による事物の視界への浮上」と「鎧塚の視点・心情の向かう先」というふたつをあらわしたように、この第三楽章においても、「涙で潤む瞳の表現」以外のもうひとつの意味を求めるべきです。

じっさい、鎧塚とそのオーボエ、それから自身とそのフルートはフォーカス→ぼかし→……の画面演出が入っていなかったと記憶しています。

 

ここは解釈に困るところです。私自身納得のいく解釈ができていないので、ここでむやみに言及するのは控えることとします。

 

その後、生物室。

ここでも「音の発生源をフォーカスする」というのが守られていて、ハグするとき・した後の、手と制服がこすれるおと、歩み寄るときの足音がきっちりアップで映ります。ふたりのハグのしかたすら音の差に表れていて、ここまで来てなお、というかここまでやってきたからこそ、というか、鎧塚と傘木は異なる存在であることを明示しています。

大好きのハグで、鎧塚は(正確には覚えていませんが…)「足音」や「笑い声」といった、やはり「音」に関することに言及しています。確か「髪」と「全部」以外は音に関係していたと思います。

「足音」、つまり足元への言及があったのは重要です。当初我々は、視点が下を向くのは鎧塚がうつむいているから、鎧塚が鬱屈した状態にあるから、と思っていました。しかし(そういうシーンもあったにせよ少なくとも鎧塚→傘木の)足元へのフォーカスは、決して負のイメージのみを持つものではないことがわかります。音がしたから事物が視界に浮上する、それだけを淡々と繰り返し、「音」の重要さを我々に知らせていたのです。

対する傘木は、「オーボエ」とだけ。やはりふたりは同じしかたで互いを見ているわけではなく、相互理解が果たされたからといって同一の存在になるわけでもありません(ただし同一存在になれないことが悪いこと、と決めつけるのは不適であるというのは、この映画を見た人間には言わずもがなでしょうが…)。

 

それから、ふたりは別々の道を選ぶことになります。

ここで注目してほしいのが、鎧塚の髪です。冒頭をはじめ要所要所で「髪を撫でつける」動作を挟むことで、抑圧、ないし鬱屈した彼女の状態をあらわしていました。けれどラストのこのシーンでは、髪を押さえつけることなく、むしろ歩くたびに髪が自然に揺れています。

冒頭のシーンを思い出してください。鎧塚の前を歩く傘木(ここでの傘木は青い鳥だった)のポニーテールは、大げさなぐらい揺れていました。しかし今は、傘木のポニーテールも、鎧塚のロングも、歩くたびに揺れています。髪は羽のメタファーでした。つまりどちらも、羽ばたいているのです。

 

 

 

 

繰り返しになりますが、総じて、これは「音」の映画だったと思います。

(i)「声」の存在を前提として (ii)その際にあらわれる「音」を余すことなく視界に浮上させ (iii)それが響く「環境」があって、ようやく「会話」が成立する、そんな印象が残っています。どの1つが欠けても相互理解が成立せず、逆に言えば「音」によってはじめて完成するのです。

余分なものを切り落として分かりやすくすることができるアニメという媒体を逆手に取り、話者の口元を映さずに会話の「音」に視界をあわせるという大胆な、それでいて(表情変化や口の動きなどの大きな動きがないという点で)抑圧された表現。説明的なセリフや派手なストーリーを完全に排除して、画面にうつるすべてのもの・スピーカーから流れるすべてのもの に登場人物の感情をリンクさせるという手法。TVシリーズとはかなり趣向を変えて、鎧塚と傘木のふたりだけの感情を描くことに特化しているな、と感じました(シリーズ名を冠していない理由もこのへんにあるのかもしれません)。

 

ふだん切り落とされる「音」をひとつひとつ拾い、それらによって浮き上がる事物とそれを取り巻く環境のみを画面にうつすことで、その場の感情の機微をかえって明確に見せること。映像と音響が固定された(音響が視聴者に依存せず、無音や片耳イヤホンなどを許さない)映画という場でしか表現方法なのかもしれません。

 

 

 

 

 

最後に

鎧塚が髪の毛を撫でつけるとき、あるシーンを境に手が逆になっていたような気がするんですが、その真偽・あるいは面白い解釈があったらぜひ教えてください。お願いします。