LGBTPZN Advent Calendar 2016 参加記事。
私がツイッターを始めたとき、南山まさかずはすでに死んでいた。私がツイッターを始めると、タイムラインに千代田まどかの状況が流れるようになった。千代田まどかは、エビデンスをエクセルでスクショする仕事を与えられ、適応障害に苦しんでいた。その後、別の企業に就職し、ホモ、松屋、職場の美少女に慰みを見出すようになった。さらに、マイクロソフトのエバンジェリストという肩書きを得て、今に至る。
インターネットではすべてがphotoshop可能である。南山まさかずの死でさえ、事実であるかどうかは分からない。本稿では、事実としての南山まさかずではなく、彼に言及したさまざまな声が織り成す神話を、考察の対象とする。
南山まさかずについての神話は、典型的には以下のような類型を持つ。第1に、彼が仕事を休みがちになっていたこと。第2に、■■■■■■■■ ■■■■■■■■。第3に、決定的な結果が「踏切」という場所に結び付けられることである。
労働に適応できないことは、どこまで悲惨なことなのだろうか? 失業あるいはそれに近い状態にいながら、謎の資金源を得て生き延びている人は、ツイッターにはいくらでもいる。たとえば、ずっと前から好きでし太郎。(foxnumber6) は、失業者であることを誇りにしながら、労働の害を雄弁に説いている。
もちろん、それが致命的な結果をもたらす場合もある。インターネットのプリンセスと同衾しながら、プリンスは哀れな乞食であることに、彼は耐えられなかったのかもしれない。
女子力が購買力の婉曲表現であり、包容力が経済力の婉曲表現である言語圏に、私たちは暮らしている。だから、女性がセックスの相手を選好するにあたって、対象の雇用状況を考慮することは当然である。しかし、これは本当に妥当だろうか? (論理的には無理があることを承知で、剥き出しの欲求のみを言えば、) すべての女性は、労働に適応できなかった者、失業者と就活落伍者に対して、無制限のセックスを提供すべきである。
死者の霊は存在しない。私たちは踏切を、存在しない死者を記念するイデオロキー的な装置として利用すべきではない。しかしながら、想像上の死者に率いられたレミングの群れは、女性器のように見えるすべてのものを蹂躙しながら、水平線の彼方にあるはずの場所を目指して突進する。
性よりも強力な隠喩であるものは、死である。理性がそれを打ち負かすことはできない。