故郷
武藤山治(むとうさんじ)は、慶応三(一八六七)年、安八郡脇田村(現岐阜県海津市平田町蛇池)庄屋佐久間国三郎、母たねの長男として誕生し、地元の今尾小学校高等科(現海津市立今尾小学校)を卒業。『西洋事情』に感銘し、福澤先生に傾倒していた国三郎は、明治十三年に息子を慶應義塾幼稚舎に入学させる。慶應義塾で福澤先生から教えられた独立自尊、官へおもねらない近代市民の生き方などが、武藤の一生を貫く姿勢となった。明治十七年慶應義塾卒業、明治十八年渡米し、パシフィック大学で給仕をしながら、教室に通った。
武藤の故郷海津市は、揖斐川と長良川に挟まれた低地で、輪中を形成していた地帯である。海津市生涯学習センター(海津市平田仏師川四八三)の前庭に、東洋のロダンといわれた朝倉文夫作の高さ一六八センチもある武藤山治像が置かれている。武藤が暗殺されると、その遺徳を偲んで四万三千余の鐘紡従業員の浄財を集めて、鐘紡兵庫工場内に武藤山治記念館が建設された。いまわの際に洗礼を受けた武藤を偲び十字型の平面で設計され、その中央に同年に制作された武藤像が設置された。兵庫工場閉鎖後、像は本社、研究所を転々とした後、倉庫に眠っていたが、二〇〇六年二月に、現在の地に設置された。
パシフィック大学は、サンフランシスコから車で約二時間余のストックトンにある。大正八年、武藤はパシフィック大学に日本の図書購入の基金を寄付した。時間が経って、留学当時の佐久間山治と武藤山治が同一人物だと判明し、平成十八年十一月大学図書館改装を機に、同館一階ロビーに「武藤ルーム」が設置され、胸像、書、写真などが展示されているという。

海津市の武藤山治像
鐘紡兵庫工場
帰国後武藤姓に改姓し、日本最初の広告代理店を開業。明治二十七年三井銀行に入行。翌年、当時は三井の支配下にあった鐘淵紡績株式会社へ入社し、兵庫工場の建設に携わり、その後支配人となる。紡績工場の女工は、『女工哀史』に代表されるように、長時間労働など劣悪な労働環境に置かれていた。彼は、同業他社から疎まれながらも、従業員を家族同様に扱おうとした温情主義経営を貫いた。
「店の主人や工場主等は、店員や従業員を他人の子供を預かつて居ると思つて、家族同様にどこ迄も親身に世話をせねばならぬ。かくすれば、自然と使はれるものと使ふものとの間に一種の情愛が出来て、仕事の成績も自然と良好となり、これがために要する費用は損失とならぬのである。」(『実業読本』)
具体的な例として幼児保育舎、無料診療所、近代的な大食堂、退職者のための救済院、健康保険制度、病災救済を目的とする共済組合などを設け、従業員の福利厚生に力を注いだ。大正八年、大日本実業組合連合会委員長に就任。その後、鐘紡は武藤によって日本一の大会社へと成長した。
かつては国鉄鐘紡前駅が存在するほど隆盛を誇った鐘紡兵庫工場であったが、昭和二十年の神戸大空襲で壊滅的な罹災をし、閉鎖に至った。現在は神戸市兵庫区御崎町の御崎公園になっている。ここにJリーグ、ヴィッセル神戸のホームスタジアム、ノエビアスタジアム神戸がある。公園に隣接して、神戸百年記念病院がある。この病院の前身は、鐘紡病院。さらに遡れば工場従業員の診療にあたって、続いて生活困窮者に無料診療を行った明治四十年開設の鐘淵紡績兵庫工場付属診療所にたどり着く。
旧武藤山治邸
明治四十年、彼は神戸市垂水区東舞子町の舞子ビラ神戸(有栖川宮別邸跡)南側の海岸に和館と洋館が並立した邸宅を建設した。彼の逝去後、鐘紡に寄贈され、「鐘紡舞子倶楽部」として社員の厚生施設に利用されていたが、平成七年、明石海峡大橋建設に伴う国道二号拡幅工事のため、移転を余儀なくされ、洋館のみ狩口台七丁目五―六に移築した。平成十九年に内部の家具・絵画・蔵書を含め、この洋館はカネボウ(株)から兵庫県に寄贈され、当初の場所より約三百メートル西側、兵庫県立舞子公園内に移築・復元され、平成二十二年より公開されている。
この洋館は、木造二階建て、アメリカの一般的住宅形式であるコロニアル様式で、下見板張り、天然スレート葺きの急勾配の屋根、海に張り出した円形のベランダを特徴としている。今回の移築に当たって、当時の資料を基に建設当初の姿に復し、管理棟は当初建てられていた撞球室の外観を参考に新築された。
一、二階とも同じ間取りで、派手ではないが品のある内装が施されている。一階には応接室、広間、食堂、二階に書斎、広間(主寝室)、貴賓室がある。二階広間の壁には、中央に武藤の肖像画、左右に慶應の先輩で三井時代に恩を受けた中上川彦次郎と朝吹英吉の肖像画が掛けられている。全て和田英作の筆による。

舞子公園の旧武藤山治邸

武藤山治邸の食堂
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