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「「チベット」と「中国文明」の関係(3)」について 劉公嗣さんの記事本文よりも、記事に付せられたコメントも含めてトラックバックを付けさせていただく結果となりますが、正直言って、私もそんなにチベット問題について勉強しているわけではありません。 ただ「後にチベット族を形成したであろう民族」ではなく、現在につながるチベット族が基本的に形成されたのは、唐初のソンツェン・ガンポ王がチベット高原を統一し、都をラサに定め、吐蕃王朝を開いてからでしょう。 面白いことに、「伝説では吐蕃王室は中国遼東地方より移住した鮮卑拓抜部出身の王家が起源とされ」ているようです。もちろん、真偽のほどは分かりません。ただ、地理的問題から言っても、インドとの間にはヒマラヤがあり、インドから民族が流入することはほとんどなく、前にも書いたとおり、チベット高原に入った時期に前後があれ、現在の「陝西・甘粛・四川などを経てチベット高原に進出し(あるいは駆逐され)ていった」集団が、上記ソンツェン・ガンポ王に統一されてチベット族を形成するに到ったのではないかと考えます。 私の吐蕃王朝についての知識は、基本的にウィキペディアの記事によっていますが、これを読んでいると、チベット族が歴史に登場したはじめにかなりの中国文化の影響が受けたことが察せられます。有名なところでは、唐の文成公主が上記ソンツェン・ガンポ王に「嫁入り」した話があります。彼女が唐から多くの職人をチベットに連れて行ったと言います。 その吐蕃は唐の滅亡(907年)に先立つこと30年にして滅亡します。 宋の時代にチベットがどうなっていたか?については、なかなか記述がなく、おそらく分裂状態にあったものと思われますが、おそらく北方の遼や金の圧力を受けていた宋がチベットに影響力を発揮できたとも思われず、その宋もやがて元に滅ぼされます。 元がチベットを支配下に置いた(少なくとも清がチベットを支配下に置いたレベルにおいて)ことは間違いなく、パスパ文字で有名なパスパのような人物も現れます。 考えようによっては、チベットが中国王朝の支配下に入ったのは、この元の時代と言えるかもしれません。(中には、モンゴル人が皇帝となった元を中国王朝に数えることに抵抗される向きもあるのかもしれませんが、少なくとも元の中国王朝としての側面は大きなものがあり、これが元王朝の主要な側面だと私は考えます)。 次の明の時代、おそらく元や清と違って、明はチベットを「版図」に入れていないというのが、私たちが高校の歴史地図帳などで習った日本の東洋史界の伝統的な見解なのでしょうが、明初、朱元璋配下の鄧愈によるチベット攻略の事跡があります。 もっとも、北方に逃亡したモンゴル勢力に押され気味であった明が、名目上はともかく元や清レベルでの支配をチベットに行い得たとも考えられませんが、今後継続して調べていきたいと思います。 清初というか、明末清初の混乱に乗してか?、チベットを支配したのはモンゴル系のグシ・ハンであり、彼の一族の支配は清代、雍正帝の時代まで続き、以降、チベットは西蔵と呼ばれ、清朝の支配下に置かれるようになり、現代に到ります。 |
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