2018年04月17日
イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢に会いに行く
この辺の話はビュールレ財団の恥と言えるのにもかかわらず展覧会でのキャプションや図録では詳細に説明されていて,「よくここまでぶっちゃけたなw」と思うくらいであったのだが(本展覧会のハイライトはこの詳細な時系列を説明した年表だったかもしれない),展覧会HPではほとんど説明がない。インターネットで広まらなければいいと考えたか,それとも広報側と学芸員側で意志の食い違いがあって,それがこういう形で表に出たか。「グレーだよねこのコレクション」というところまで含めて説明するのが展覧会であるという意志の発露だとするなら,これはこれでおもしろい現象であった。
展示作品数は64点とそれほど多くないが,大作が多くて見応えはあった。展示品はほぼ全て19世紀以降のもの。新古典主義のアングルから始まって,ロマン派のドラクロワ,写実主義のクールベとコローがいて,分類の難しいアンリ・ファンタン=ラトゥールがいて,あとは大量の印象派・ポスト印象派。印象派の物量は圧倒的で,「至上の印象派展」をうたうだけのことはある(さすがに誇張ではあったけど)。さすがに個人コレクションだけあって,今まであまり日本に巡回してこなかったのだろう,初見の作品も多かった。
白眉はやはりルノワールの《イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢》で,「絵画史上、最強の美少女。」と散々宣伝されていたように(美少女に“センター”とルビを振るセンスはどうかと思う),まあとんでもなく美少女である。ちょうどルノワールが印象派からの揺り戻しで古典主義に振れていた時期の作品であり,印象派と古典主義の折衷が,かくもふんわりとした柔らかさと明るさに美しさを同居させることに成功したのだろう。かわいらしい服に長い髪にもかかわらず,快活そうにも見える。ところでこのカーン・ダンヴェール家はユダヤ系フランス人で,イレーヌ嬢は当時8歳であった。年齢から推測のつく通り,彼女はその人生で第二次世界大戦を経験しており,彼女の家族も多くがアウシュヴィッツで亡くなっている。イレーヌ自身はカトリックに改宗してイタリアに移住していたことが功を奏して生き延びた。この作品は戦中にナチス=ドイツが没収していたが,終戦直後にイレーヌの手に戻った。そして1949年にエミール・ビュールレがイレーヌ本人と交渉して買い取ったという来歴であるが,よく売ってもらえたものだ。イレーヌがエミール・ビュールレがどういう実業家であったか知らなかったわけでもあるまいし,イレーヌが困窮していたというわけでもない。創作のタネになりそうなレベルの不思議である。
もう1点の目玉がセザンヌの《赤いチョッキの少年》で(ちょうど窃盗団逮捕のニュースの画像の作品),どう見ても右腕が左腕と比べて長すぎるわけだが,これは奥の緑色のソファと右腕を平行に描きたかったから引き伸ばしたという画家本人のコメントが残っている。リアルさ(迫真性)よりも構図の方が重要と考えるセザンヌらしい発想である。ところで《赤いチョッキの少年》は他にもあり,おそらく本作よりもアメリカのバーンズ・コレクションにある作品の方が有名。キャプション等でそちらに触れられていないのは,説明として片手落ち感があった。
ところで本展,印象派中心の展覧会で,しかも盛んに宣伝されていた割にはそこそこ空いていた。期間が長いので客が分散したか。ともあれ印象派がじっくり見られる機会は(西美の常設展を除けば)そうそうないので,その意味でもお勧め。
Posted by dg_law at 02:00│Comments(2)
この記事へのコメント
>イレーヌ氏の件
時期的にはイスラエル建国直後で、第一次中東戦争が終盤戦(か終わったぐらい)なので、絵を売却して、献金の資金源にしたのかもしれませんね。
時期的にはイスラエル建国直後で、第一次中東戦争が終盤戦(か終わったぐらい)なので、絵を売却して、献金の資金源にしたのかもしれませんね。
Posted by とーます at 2018年04月20日 12:25
なるほど。イレーヌ氏がどのくらいシオニズムに関心を持っていたか次第でしょうが,おもしろい推測ですね。
Posted by DG-Law at 2018年04月21日 01:22