先日、杉松とふたりでゴッホ展に行った。京都国立近代美術館でやっていた。それで実感したが、ゴッホのなまの絵を見ることはものすごく疲れる。すさまじく疲労した。昼食をとってから絵を見たのに、美術館を出た後、二人とも甘いものが食べたくなっていた。
なぜこんなに疲労したのか、杉松と話し合った。杉松は「頭のおかしい人の話をずーっと聞いたあとみたいな気持ち」と言った。たしかに、と思った。ガーッと脳の処理能力を使わされた感覚。この世でなにが危険かって、伝達能力をぎりぎりのところでそなえた狂人ほど危険なものはない。
アントナン・アルトーに「ヴァン・ゴッホ」という文章がある。アルトーのこの文章も、脳の処理能力を要求してくるという意味で、ゴッホの絵に似ている。たまにそういう類の文章がある。なお、私の手元にあるのはちくま学芸文庫のものである。
河出文庫の『神の裁きと訣別するため』にも同じ文章が収録されていて、こちらのほうが入手は簡単そうだが、私はちくまの訳が好きである。河出のほうは、ちくまよりも読みやすく訳されている印象。ちくまの訳文はねじれており、読んでいて疲れるんだが、その疲労感が、ゴッホの絵を見ることの疲労感に似ていてよいと思う。
美術館を出た。ゴッホで疲労したわれわれは甘いものを食べることで同意した。目についたクレープ屋に入った。私はバナナ生クリームにするつもりだったが、おごってやると言われたので、バナナ生クリームチョコに変えた。杉松が「いちばん高いの!」と言った。私は、おごりだと知った途端にいちばん高いのを注文するような男である。
近くのベンチにすわって食べた。その後、「じゃそろそろ行こっか」と言った杉松のくちびるにチョコレートがべったり付いていたので爆笑してしまった。そんな状態でどこに行くつもりなのか。どこに行っても笑われるべったり具合。三十すぎの女にあるまじきワンパクな口元。
しかし、爆笑する私のくちびるには生クリームがべったり付いていたという。即座に指摘された。われわれは互いの顔を確認し、チョコレートと生クリームをきれいに拭き取ってから解散した。幼稚園児のつどい?
便器を見て興奮する
そういえば、ゴッホ展は美術館の三階でやっていたが、四階のコレクション・ギャラリーも同じチケットで見ることができた。こちらはゴッホとはとくに関係がないようだった。せっかくだし、という程度の薄いモチベーションで予備知識もなしに入ってみると、いきなりデュシャンの便器が置いてあってビックリした。
「デュシャンの便器」という言い方も我ながらひどいですけど、正式には、マルセル・デュシャンが1917年に発表した『泉』という作品ですね(ウィキペディアによれば)。
こんなに有名なものがあるとは思わなかったので、完全に不意を突かれた。感覚としては、ふらっと入った美術館にモナリザがぽーんと置かれていた感じ。われわれは「まさかあの便器が見れるとは」と興奮していた。便器を見て興奮する人間。コンセプチュアルですねえ。
帰宅後、本当にあれはデュシャンの便器だったのかと疑問に思い、調べてみた。どうやら展示されていたのは1964年の再制作版らしい。オリジナルはすでに紛失しているようだ。「オリジナルじゃなかったのか……」とがっかりしたが、そもそも、オリジナルからして既製の便器である。この状況における「がっかり」の根拠は何だ。
- 作者: アントナンアルトー,Antonin Artaud,粟津則雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1997/08
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