4月16日、アメリカで開催された由緒あるマラソン大会「ボストンマラソン」で日本人の川内優輝さんが優勝した。日本人としては1987年の瀬古利彦さん以来31年ぶりの快挙なのだが、興奮したのは日本人だけではない。アメリカだけでなく世界中の長距離ファンが歓喜し、川内さんは地元のボストンでヒーローになった。その理由を説明しよう。

私が1995年末から住んでいるボストン周辺は冬が厳しく長い。10月末に雪が舞うこともあるし、4月にも大雪が降る。零下20度以下になることもあるので、冬を生き延びる植木は限られてしまう。ここに越したばかりのとき、近所の人から「4月中はよく氷点下になるから、花や木を植えるのは5月か6月まで待たないとだめだよ」と注意された。つまり、1年の半分が冬モードだ。

だが、そんな厳しい冬でも、ボストン人たちは外を走る。最初のうちは、除雪車が道脇に積み上げた雪で狭くなった道を走る人たちを見て「ボストン人ってクレイジーだな」と思っていたが、冬の間は屋内ランニングマシンで走るパターンを続けてみて理由がわかった。毎日2時間ランニングマシンで走っていても、春に外で走るとスピードは落ちているし翌日は全身の筋肉が痛んで動けない。地面を走るために必要な筋肉はランニングマシンで走るときに使うものとは異なるのだ。それらを数ヶ月使わないと退化してしまって秋の状態になかなか戻れない。そこで、冬の間にも屋外でジョギングをするようになり、そのうち零下20度でも路上のコンディションさえ良ければ走るようになってしまった。それどころか日本の夏は暑すぎで走れなくなってしまった。そういう意味では、私もすっかりボストン人になったということだろう。

伝統あるボストンマラソン

ボストン人が冬の間にも外で走るのにはほかにも理由がある。ボストンマラソンが催されるのは4月の第3月曜日の「ペイトリオッツ・デイ（愛国者の日）」で、冬が終わるのを待っていたらこのマラソンに向けてのトレーニングができない。私はマラソンを走る目標を抱いたことはないのだが、ボストンマラソン常連の知り合いの間では、「大雪だろうが、マイナス20度だろうが、外で走れない奴はボストンマラソンを走る資格がない」というのが常識になっている。そういった仲間の誘いで地元の5kmレースに出場したことがあるが、マイナス20度の雪の日だったので私がフリースジャケットを2枚重ね着していたら「そんな厚着をしたら走れないぞ」と笑われた。

そんなボストン人たちにとって、ボストンマラソンはプライドであり、アイデンティティでもある。最古のマラソンは言うまでもなくオリンピックだが、毎年催されるマラソンとして最も古いのはボストンマラソンなのだ。ワールドマラソンメジャーズの６つ（ボストン、東京、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨーク）のひとつでもある。

だが、ボストンのランナーだけでなく観客の間でも「最近はボストンマラソンが面白くなくなった」という愚痴が聞こえるようになっていた。男女とも先頭集団は東アフリカにあるケニヤやエチオピアのエリートランナーが独占するようになり、驚きの要素がなくなったのだ。男性部門では、1991年から昨年2017年にかけてケニヤとエチオピア以外の国籍の勝者はたった2人しかいない。レースが始まってすぐに先頭集団は東アフリカ出身のエリートが占めてしまう。始まる前から展開がわかっている試合を2時間以上も観るのはつまらないという心理なのだ。

ところが、2018年のボストンマラソンは誰にも予想できなかった展開になった。

無名の日本人ランナーが見せた驚きの展開

当日の4月16日は傘をさすことが不可能なほどの暴風雨になり、しかも気温は5度以下。時に視界が真っ白になるほどの豪雨になり、木の枝も落ちるほどの強風だ。多くの市民は家から一歩も出なかったくらいの悪天候だった。

気温そのものはさほど低くはないのだが、ずぶ濡れになった身体から暴風が体温を奪うので、乾燥したマイナス10度よりある意味たちが悪い。寒さに強いボストン人ですら多くの参加者が脚をつらせて脱落したほどだから、乾燥した暑い国から来たアフリカ勢にとっては最悪のコンディションだった。テレビを観ている人にも、無敵とみなされていたエリートたちが苦戦しているのがだんだん明らかになってきた。

その中で、ひとり黙々と自分のペースで走っているランナーがいた。日本人の川内優輝さんだ。日本では有名な市民ランナーだそうだが、海外ではほぼ無名の存在だ。皆、「Kawauchiって誰なんだ？　最初こんなに飛ばす者はどうせ後で脱落するよ」という感じだった。ところが、川内さんは、いったん先頭集団から姿を消しても、また舞い戻ってくるのだ。そして、独走していた昨年の優勝者であるジェフリー・キルイ（ケニヤ）の勝利がほぼ明らかになったと思ったときに、じわじわと彼に迫ってきた。川内さんは不可能と思われるほどのスピードでキルイに追いつき、追い抜き、そのままゴールを決めたのだった。しかも、2位のキルイに3分近い差をつけて。

共感を集めた‟公務員ランナー”

後でわかったことだが、マラソンを生中継した地元テレビ局WBZ-TVの視聴率は昨年の2倍近くになったという。意外な展開になったマラソンに夢中になり、そのまま観続けた人もいるだろうし、ソーシャルメディアで接戦を知ってテレビをつけた人もいるだろう。ともかく、観ている人たちが久々に目を離せなくなったボストンマラソンだったのだ。

川内さんはまたたく間にヒーローになった。

「Kawauchiとはいったい何者なのだ？」という疑問にこたえ、スーツ姿やパンダの衣装でマラソンを走る川内さんの映像がツイッターで広まった。2時間20分以内で最も多くのマラソン（79回）を走った世界記録保持者であることも注目を集めたが、何よりも話題になったのは、彼が公務員だということだった。

「スポンサーなし、コーチなし、フルタイムで働いた残りの時間でトレーニング」ということに、同様の立場にある多くの市民ランナーたちが共感を覚えたようだった。

そして、庶民のヒーローに

生体力学の博士号を持つあるアメリカの市民ランナーは、アメリカで現在最も有名な長距離選手ゲーレン・ラップと川内さんを比較するこんなツイートをした。

「ユーキ・カワウチvsゲーレン・ラップ、庶民代表のチャンピオンvsトップエリート、ロッキーvsドラゴ、事務職vs一度も働いたことがない者」

高校生のときから超一流選手だったゲーレン・ラップは、現在は世界最高のコーチと豊かな資金で選びぬかれた選手をトレーニングする陸上チーム「ナイキ・オレゴン・プロジェクト」のスター選手だ。ラップだけでなく、ボストンマラソンに勝てるような有力選手のほとんどがトレーニングに専念しているプロだ。アスリートがトレーニングに専念できるようにスポンサーがつきやすいシステムがあるアメリカはエリートアスリートにとってはありがたいものだ。けれども、援助がなかなか得られない国の選手やアマチュア選手は、恵まれたエリートたちと同じ土俵で勝負するのに不満を抱くこともあるのだろう。

そういった人々にとって、川内さんのゴールは胸がすく思いだったのだ。ボストンだけでなく世界中から称賛の声がツイッターにあふれた。川内さんは、ランナーだけでなく多くの人に「言い訳をせずに、黙々とがんばろう。そうすれば予期しなかったときに訪れるチャンスを掴むことができるかもしれない」という励みを与えた。

観ていた人に夢とモチベーションを与えた川内さんは、「日本人選手」という枠を超えてボストン人が世界に誇る「ボストンマラソンの勝者」になり、庶民のヒーローになったのだ。