満州族による清朝樹立の皮肉な結果
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作成日時 : 2008/03/22 01:29
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「清朝の位置づけと満漢関係」について
現在、中国にはチベット族自治区や新彊ウイグル族自治区、内モンゴル自治区、広西壮族自治区など、比較的人口の多い民族はそれぞれ自治区を有しているが、満族(満州族の現代中国での呼称)自治区というものはない。
それは、満州族が故地「満州」(現中国東北地方)を離れ、大挙して中国全土の支配に乗り出したからであり、結果として、中国東北地方と漢族居住地は一体化してしまった。
最初、清朝は「満州」を「自分たちの故地」として漢族の移住を禁止したようだが、北方ロシアの圧力を受けるに至って、兵士の兵糧確保のために、漢族の移入を黙認するようになり、結果として「満州」では、農地開発が進み次々と荒野が農地に変わっていった。
結果として、満州族は故地でも圧倒的少数派となってしまったのである。一方で前の記事に書いたように満州族と漢族との文化的融合が進んだ。
日本などでは、漢族による少数民族地区への進出を漢族の「侵略」のように思っている人が少なくないようだが、歴史的には蒙古族の元や満州族の清など、いわゆる征服王朝の下で、漢族が少数民族地区へ強制移住させられたり、少数民族地区への進出が可能になったという事実も忘れてはならないと思う。
結果として、生まれたのが同地域での複数民族の混住という状況であり、中国では旧ソビエト連邦のような民族共和国の連邦と言った形を取れず、民族自治区方式を取らざるを得なかったのである。
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