最近、適性検査(入社試験)やらを受けるけれども、非言語系の算数みたいな問題がとても出来ない。
自分は昔、知能テストを受けて記憶力やら図形やらといった図的処理が全くできないと医者に言われたことがあるから仕方がないのかもしれない。
容姿も頭も悪く、どうにもならない。
自分が持たざるものであり、持てる者をみると惨めな気持ちになる。それは経歴やらでは解決できずに性的魅力が得られたら解決するのだろう。
知事のニュースを見て、ミシェル・ウエルベックの「闘争領域の拡大」という本を読むと感じる。
自分が入れたチンパンジー大学の三流学部のゼミでモデル体型で容姿がいい女が「報道に興味があります そしてダンスサークルに所属しています」と自己紹介をしたのを思いだした。
教授が「加計絡みの国会審議が盛り上がっているね」と話返したら、彼女は黙ってなにそれという顔をした。
彼女は所詮は政治や経済も世間の不平等や不公平などにも関心がなくて、ただ自分の容姿が生かせる仕事をしたいだけではないかと感じたものだった。
最近のセクハラ絡みの報道を見ると、個人が嫌だと感じるのは自由だと思うし抗議する権利はあると強く感じる。
しかし、同時にセクハラされてもキー局に入りたい人間は山ほどいそうだと求職者の立場から感じる。
また、セクハラでも持てる者と持たざる者の格差があるだろうということだ。
性的魅力がある者が受けるセクハラは、相手が勝手に価値を見出した性的嫌がらせだ。
しかし、容姿が醜い人間が受けるセクハラはゴミを見るような視点で受ける生殖権、生存権の否定だろうということだ。
セクハラと一括りになっているが実際には容姿が良い人間と悪い人間では分断がありそうだ。
グロテスクな容姿の男である自分はセクハラをされても良いから、それなりの会社に受かりたいと思ってしまうものだ。
そして、美人が受けるようなセクハラを受けたいと思ってしまう。
欲望される人間にはわからないだろうが、誰かに欲望されないというのはどこまでも痛むものだ。