すこし特殊な一人暮らしをしている。
25歳、独身。一軒家に住んでいる。祖父とふたりで暮らしていた家が、ひとりになって、それから何となく、生活が続いている。
おしゃれな部屋づくりなんて、していない。DIYで作った家具なんてない。カーテンは、ヘビースモーカーだった祖父の影響で、黄ばんでいる。仏壇のある部屋で寝ているから、見上げると、会ったこともない曽祖父の写真がかざってある。
家の中にあるものは、祖父が生きていた頃と何も変わらない。冷蔵庫の整理もしていないから、ぼくが買った覚えのない、冷凍のお肉が出てきたりする。
五年ぐらい経つ。
祖父との生活がのこるわが家に、彼がいないことが当たり前になっているなぁと、感じることがある。
いつも座っていた椅子に、捨てそびれている電子レンジが置いてあったり、育てていた植木が枯れていたり。
曽祖父のとなりに飾られた、祖父の写真を、風景として捉えている自分に、なんだか冷たい人間なのかなぁとか思ったりする。
先月の末は、祖父の七回忌でした。
家じゃなくて、お寺の一室を借りて行われたお経をあげてもらう時間に、やってきたのはいつものお坊さんじゃなかった。
息子さんなのだろう、50歳ぐらいの若めの男性がやってきて、ゆっくりと読みはじめる。
お客さんと接することについて、転勤の辞令が出てから、ひどく落ち込んでいたぼくは、
「どうせ、このお坊さんにとっては、収入の一部なんだよね」
とか罰当たりなことを思っていた。
一通り終わり、いわゆるお説教がはじまる。
先に言うと、ぼくはそのお説教で、ボロボロに泣きじゃくり、鼻水を流すことになる。
内容が感動的だったわけじゃない。
ただ、ぼくが罰当たりな目線でみていたその若いお坊さんは、祖父との思い出を語り始めたのです。
家のどこにいつも座っていたとか、病気になってからのことや、短気なところ、家族のことをいつも話していたこと。
そのどれもが、ぼくが忘れかけていた祖父を、あまりにもそのまま、あまりにも綺麗に表現してくれていて、目の前に突然に、あの頃が思い出されました。
お坊さんにとって、何百もいる人の1人なのに、6年も時が経っているのに、それでも、あんなに明確に家族の前で思い出を語れる。その姿を、泣いて泣いて、見つめていました。母から妹へ、妹からぼくへ、ハンカチがバトンパスでまわってきて、無言でそれを受け取る。
思い出って何だろう。
忘れたら思い出じゃないのだろうか。思い出って、忘れたら思い出せないのだろうか。なにかをきっかけに、思い出せたらそれでいいんだろうか。
みんなが少しずつ、覚えていたら、それでいいのかもしれない。それが家族じゃなくて、お坊さんでも。近所の人でもいいのかもしれない。
いつかぼくが、捨てられなかった電子レンジをゴミに出して、現れた祖父の椅子に腰かけて、ふと思い出すことも、思い出なんじゃないやろか。
実家に帰ると、玄関に祖父の写真が置いてある。毎日眺めている、風景になった遺影の写真とはちがい、従兄弟の子を抱いた祖父の写真だ。
そっか。祖父は生きていたし、ぼくと生活をしていんだった。そんなことを再認識して、涙ぐんでしまった週末の金曜日です。思い出って何か、すごく考えてしまう日になりました。
どうしよう。また、なりたい人が増えてしまった。
あのお坊さんのように、いつかのことを、飾らなく、美しく語れる人になりたいなぁ。
思い出って、忘れても消えない、思い出せる。
消滅したり、死んだり、決してしないんだろうね。
ふわふわと、まわりで浮いているんだろうなぁ。