やどかり(宿借り)マネー

思うところあってブログ名元に戻しました。またそのうち変更するかもしれませんがどうぞよろしくお願いします。

発達障害 を含む記事

本田由紀について語るときに、アスペルガーが語ること

斎藤環だったと思うけど、ずっと前に書いていたな

日本の「社会的ひきこもり」には官僚と弁護士の子弟が目立つとか;

 

20代はともかく10~15年以上、ひきこもるケースについては、医師が患者を「障害者にしてしまう」(手続き上)ことも多い。通院医療費公費負担制度がある以上、そちらのほうが<弱者にやさしい>だろう。

 

社会的ひきこもりも国内だけで100万人いるっていうし、海外ニートが日本に戻ってきたら、居場所を見つけられない人はひきこもり化するしかないだろうな。女性の場合は、結婚して専業主婦になって、これまで通り「ひきこもり出会わない系人生」を継続するという手があったのだが(かつては)、その道もいつのまにか険しくなってきて。

 

日本の30代ニートの大半がHFPDD(広汎性発達障害)の疑いが濃厚って 臨床に当たる精神科医の声が日増しに大きくなってきてるようである。不思議なことに本田由紀って(ニート論が多いわりには)こういう指摘をしたことが無いよね 事実自体は国のなんとか白書にも書いてあることだが。

 

<精神科医が述べるニート論>と、<労働関連の学者が述べるニート論>は、まるで火星人論と水星人論である。違う星の話か?と突っ込みたくなるほど、描かれるニート像が違う。


労働法学系の人たちは、あらゆる最悪な可能性を考慮したうえでニートはいけん!とか、フリーターはダメだ!とか言っているだろうか?働かない奴はクズだ、とか、そういう<勤労の美徳>が、ホームレス化するしかない日本の障害者を放置しておく正当化になっている。障害者自立支援が自殺支援になってるこの放置国家で、よくそういう強者の論理が弱者に振りかざせるな、と新聞読んでいて思うけど、本田由紀(『教育の職業的意義』)も似たような感想しか持てなかった。

 JUGEMテーマ:アスペルガーの特殊支援教育・自立支援


アスペルガーは親が死んだらひとりぼっちになるの?

Jugem plusの検索ワード追跡を読んでいたら、「アスペルガー  親が死んだらひとりぼっち」という1行を見つけてドキっとした。この何年間、どれだけ考え続けても、どうやっても、自力で、ひとりで解決できそうにない問題。「親が死んだら、世界にひとりぼっちなの?」

 

情けない。

 

自分から心を開けば、いつだって愛してくれるひと、気にかけてくれるひとはいます!と、善意から空疎な励まし方をする人が出てきそうだ。おっしゃるとおり「自分はHFPDD(発達障害)なんだ・・」と自己憐憫に浸っていないで、友達をひとりでも増やす努力を怠っている点は否定できない。障害者手帳の功罪があって、あれが出てしまうと、「そうか!障害者なんだ」と異次元の人間になってしまったかのような、オールマイティな免罪符をもらったから自分のダメは全部他人や環境のせいにしても全然オッケーになったかのような、そういう人間に堕してしまった面もあるかもしれない。


ただ「親が死んだらどうなるのだろう?」はアスペルガーのみならず、すべての病者や障害者が心のどこかで抱えている不安だろうと思う。なぜなら健常者は健常者が好きであり、みんな普通の人が好きだという事実に気づくのはそれほど時間がかからないからだ(鈍感な発達障害者であってさえも)。前にNHKの「若い障害者は語る」、みたいな番組を見ていたら(スタジオには若い身体障害者が10人ぐらい座って、いろいろ語っている。なぜNHKがこの手の番組を作るときは、登場するのが全員、身障なのか?バカヤローわたしも出せ)、若い男の子が、微笑しながらも控え目に、「健常者と障害者は結局、分かれて暮らしているから・・・」と語っていた。


義務教育から死ぬまで、障害者を徹底して視界から排除するという政策をえんえんと取り続ける日本(の官僚)は何を考えて生きている連中なのだろうか?彼らはきっと自分だけは異形にはならない、自分の係累だけは末裔まで普通の人、健常者であるという信念を持っているのだろう。そのような臭いものにはふた的な障害者施策をとりつづけたことの結果、この国の現実の弱者が「親が死んだら、自分も自殺せざるをえなくなる・・」という不安を慢性的に抱え込むようになったのだが。

もちろん弱者にとって一番利益のあることを、国のエリートや権力者が政策として実行することは、ほとんど無い。この国の障害者は不可触賤民であり、ただのカモなのだ。権力のある人・力の強い人が、さらに自分が儲かって、権力を集中させるための道具として徹底的に利用され、搾取され、ボロボロにされるのだ。


ちょっと脱線。 10年ぐらい前(?)、ハンセン氏病の患者のドキュメンタリー映画を観たことがある。その映画の中のハンセン氏病の患者は本土から遠い離れ小島に隔離されて、患者の集団で暮らしている。若い女性患者は同じ療養所に住む男性患者と結婚した。

しかしその女性患者の父親(ハンセン氏病ではない)は本土で暮らしているのだが、ある日、病死した。それを知った女性患者は嘆きのあまり自殺未遂をし、あやうく命を落とすところだった。

 

かなり以前に観たドキュメンタリーなのでうろおぼえなのだけど、そういう内容だった。心ふさがるエピソードである。映画のシーンは命を取り留めた女性患者(彼女は熱心に詩を書いている。彼女の言葉で綴る映画である)はまだぼんやりした意識の中で、実父は死んでしまったのだという確かな感じと、自分の夫が自分のために台所で朝食を用意してくれているのを、療養所の自分の部屋の布団の中で感じている。


「結婚できているような女性病者でも、ずっと離れて暮らしている実の父親が死んだら、自分はもう生きていけないと本気で絶望するものなのだなぁ・・・」とその映画を観て大変なショックをうけた。詩を書いている繊細な女性だからだと特殊化できない。彼女は命は助かったけど、いまはサンポールと薔薇の肥料があれば即死できてしまうから、自分もそのような現実と直面したらどうなるか自信ない。

 

・・・ハンセン氏病の話から、アスペルガーの話に脱線を戻す。

アスペルガーの場合、問題が深刻なのは、他者と交流し、双方が長期間、やっていけるような社会的な関係を作ることにかなりのハードルや困難を感じる人が多いように思う。一般化しすぎか。本当に友達がいないまんま中年と呼ばれる年齢に突入し、金銭的な問題も心理的な課題もほとんど放置されていて、このまま年とっていったらきついだろうなぁと思いながら、支援らしき支援はゼロのまま、ひとりで部屋で朽ちていくのだろうという絶望の予感。

 

でも本当に親が死んだらどうなるんだろう?頭イタいよ。それから先の孤独に耐えられるのだろうか?本当に孤独な人間は「俺は孤独なんだ」なんていわない気もする。でも概してアスペルガーの人は本当に孤独である。健常者で孤独な人が無縁死するのと、発達障害で孤独な人が行き倒れるのとではどちらが悲惨だろうか。定型の孤独と、発達障害者の孤独は質的に異なるような気もする。

 

でも本当にひとりぼっちになってしまうよね<真性アスペルガー症候群のひと。自称の連中は知らんけど。最近、またリアルで自称にあった(結婚していてフルタイムで働いていて、友達いっぱいで、サークルの親分みたいな存在の人だがアスペルガー自称している)。どう見ても、彼のような夢見がちな馬鹿には、上にづらづら書いてきたような悩みは体験したことのないものであろう。わたしも自称だったらよかったのだが。

まあ、本物の国の障害者施策というのは、個個の障害者のこういった不安にこたえるものでなくてはならないのだが、日本における障害者に関する政策というのは、官僚・役人が自分の仕事量を確保して、きれいな仕事ばかりできる特権階級的生活を維持し、生涯賃金8億円を達成するためだけに存在している政策なので(「役人の、役人による、役人のためだけの障害者自立支援政策」と呼ぶべきだ)、障害者予算は官僚機構に全部食われてしまって、こんな現実のなにが社会民主主義だよと思うのだが。

当事者のみなさん、なにか戦略はお持ちで?


結婚式、行ったことない~アスペルガーと交友関係

『仕事がしたい! 発達障害がある人の就労相談』 (梅永 雄二 () 明石書店・256ページ 2010/1/30出版)という本の中に、アスペルガー症候群の診断基準の表がいくつか載っているのだが、その表のすべてに「友だちがいない」という1行があった。

 

実にそうで、友だちが欲しくないわけでは決してない!が、<他人と一緒に何かをするのは考えただけでも疲れる・・(自分がいる部屋に自分以外の人間が1人でもいるとどっと疲れる)>から、交流の場からどんどん遠ざかってゆき、年齢にしてはおそろしく友人が少ない。社交の場もほとんど無ければ(どこに出かけていっても、空気がまるで読めないために、早々と排除される)、誰かと電話で話すということも(多分)かなり少ないだろう(そもそも携帯を持ったことがない。PHSもね)という、おそろしいほど孤独な年月を過ごしているが・・

 

アスペルガーゆえかそれが大して苦にならないのだった。ひとりきりが苦痛であればもっと何とかなったと思うのだが・・。ある種のものぐるおしさを抱えたまま断念している。

 

実をいうと年賀状をくれる人もゼロではない、し、小学校のときからずっと友達・・という女性もいるのだが、(10年以上会ってない)、新しく交友関係を作って、遊びに行く・・とか考えると、いきなりエベレストを踏破しろと言われているぐらい無理なものを感じるのだった。

 

その小学校時代からの友人なのだが(複数いる)、数年前結婚した。結婚式だが、共通の友人のなかでわたしだけ呼ばれなかった。(表向きの)理由は「食事が大変だから」ということらしい。ヴィーガンをホテルの披露宴に招いても・・と思ったらしい。いまはいいかげんなヴィーガンだけど、そのころは自分ひとりでも、誰かが一緒にいるときでも、ものすごく厳格に菜食を守っていたのだ。ホテルでの式だから、フレンチのフルコースらしかった(行った人の話)。


それが裏目にでたのだろうけど、わたし的にはものすご~くショックだった。絶交してないけど、それ以来、その人とはこちらから連絡とらなくなった(と、いっても向こうには変化ないだろう。わたしはもともと受動的な人づきあいしかできないのだ)。年賀状来てたけど、返事出してない。今年は喪中だったが、誰にも連絡しなかった。なんか賀状がきたら安心する付き合いっていうのは、家に泊めてくれたら安心する付き合いっていうのと同じで、付き合いの深さ(=相手が自分をどのように評価しているか?という探り合い)をやっているようで疲れるのだった。ひとりでネットになにか書いている時間のほうがマシだ。

 

よく思うが、やはり「書物起因性の自称アスペルガー」の男女には、自称を止めてほしいと思う。<友だちだって多いし、集団適応(学校~会社~)において困難や挫折を体験したことも無い>のに、「自分も自分の家族もアスペルガーなんですっ!」って自称しまくっている、当事者ブロガーも散見されるが(1人ではない)、本当に専門医の診断が一度でも出ているのならともかく(「広汎性発達障害」という症状名が書かれた書類を持っているということ)、ただただ知能検査の結果だけを見て、自分で判断して、アスペルガーとブログに銘打って書き続ける・・と、本物のHFPDD(発達障害)が迷惑する。ただ高知能者であるということと、発達障害であるということは、いうまでもなく全く別物だ。いまや「アスペルガー」は「統合失調症」と同レベルの重度障害であるという事実の重みが、この手のしあわせいっぱいの自称アスペルガーさんには分かっていないのではないかと思われる。

 JUGEMテーマ:アスペルガーの特殊支援教育・自立支援


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