歴史秘話ヒストリア「家康 大航海時代に出会う! イギリスの侍 按針の大冒険」[解][字] 2018.04.18

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それから赤松さんおっしゃったような、ビジネス面の努力、そして何より社会の理解によって海賊版と社会全体が向き合っていくことが必要だと思います。
最後に赤松さんもひと言お願いします。
(鐘の音)イギリスロンドン。
その中心にある宮殿ロンドン塔には歴代国王にまつわる武具が収められています。
その中に…なぜか立派な日本のよろいが…。
実は徳川家康ゆかりの品。
徳川家からイギリス国王に贈られました。
その仲立ちをしたのが今日の主人公イギリス人の三浦按針。
江戸時代の日本に流れ着き家康の側近を務めるまでになりました。
英語しゃべれる人もほとんどいない時代にやって来てゼロから日本語を勉強してそして家康の側近まで上り詰めた按針さんはほんとにすごいです。
まあ勇者ですよね。
徳川家康の前に彗星のごとく現れた…魔法使いのように家康の望みを次々とかなえます。
なかでも究極の贈りものがこちら西洋式の大型船!見事な船じゃ!気に入ったぞ!そんな家康が最も強くこだわったのが強大なスペインとの金銀をめぐる交渉。
鍵となったのは…繰り広げられた最新技術の争奪戦。
恐るべき策略で家康を翻弄するスペイン。
熾烈な外交戦争の行方は?イギリス大英図書館に残る按針の手紙。
つづられていたのはふるさとへの切なる思いでした。
やがて手紙は国と国を結び付け日本外交の礎となります。
徳川家康と三浦按針。
日本の大航海時代を共に乗り切った2人の苦難と友情の物語です。
「歴史秘話ヒストリア」。
今夜もどうぞおつきあい下さい。
今日ご紹介するのは徳川家康に仕えたイギリス人の侍です。
名前は…日本での名は…「按針」とは…実際按針は家康と共にいわゆる「鎖国」や「オランダ貿易」に代表される江戸時代の外交政策を導く事になります。
時は1600年3月。
関ヶ原の戦い直前の頃から話は始まります。
ここに三浦按針の足跡を伝える貴重な史料が残っています。
これはエラスムスというオランダの思想家の木像ですね。
手元の巻物をよ〜く見るとこの像と按針の関係が分かるそうなんですが…。
(浅見)まあこの下ここには「R」と読めると。
それからこの辺がちょっと消えてますけども「T」「E」。
でここに「M」と。
恐らく「ROTTERDAM」というふうに書かれていたんだろう。
更にその下には「1598」とあります。
実はこの像オランダロッテルダムを1598年に出航した船に飾られていたもの。
船の名は愛を意味する「リーフデ号」といいました。
そしてこの船の行く先を定め導く「航海士」を務めていたのが…江戸時代の日本の行く先を定めた按針と家康。
どう出会ったのでしょう。
関ヶ原の戦いの半年前。
大坂城に当時政治の実権を握っていた徳川家康がいました。
そこへ…。
(家臣)申し上げます!
(家康)何じゃ?豊後国にて異国の船が流れ着いたと知らせが!異国の?400年前ここにオランダ船・リーフデ号が流れ着いたとされています。
長く厳しい航海。
3週間後。
家康のもとに船の代表者が連れてこられました。
病気の船長に代わってやって来た…この偶然が後に大きな幸運を家康へもたらす事になります。
ア…アダムスとやらそなたはいずこから参ったのじゃ?
(ポルトガル語)それまで外国船の多くは陸伝いに日本まで来ていました。
ところがリーフデ号は南米大陸の南端を抜け広大な太平洋を横断。
日本にたどりついたというのです。
とてもまこととは思えぬ…。
家康は話に強く引き込まれていきます。
ところが通訳を務める…この者は悪い海賊でございます!直ちに死罪にすべきです!なぜ宣教師はこんな事を言うのか。
このころ世界は大航海時代。
キリスト教カトリックの国であるポルトガルやスペインが世界中に進出し植民地をつくっていました。
そこへプロテスタントの国であるオランダやイギリスが食い込み拠点を設けます。
両者は各地で戦争を引き起こしました。
(砲声)もともと日本にはポルトガルやスペインが進出していました。
そんな時に現れたオランダ船とその乗組員。
ポルトガル人にとってアダムスはまさに敵だったのです。
しかし家康は…。
心の声確かにこの者の話は初めて聞く事ばかりじゃ。
ただ理にかなっておる。
家康が得たものは情報だけではありません。
リーフデ号に積まれていた500丁の銃や西洋の甲冑。
更に最新型の大砲19門も手に入れます。
(兵のおたけび)そして半年後。
家康は関ヶ原の戦いにアダムスたちを参加させました。
この時リーフデ号の大砲が決定的な役割を果たしたと考える専門家もいます。
戦いの終盤敵の小早川秀秋に裏切りを催促した家康。
通説では「鉄砲」を撃ちかけ決断を迫ったと言われています。
家康の陣から小早川の陣までの距離が約2,000mなんですよね。
そこで考えられるのが……と私は思ってます。
更にこの大砲。
それまでポルトガルから手に入れたものに比べ3倍も遠くに砲弾を飛ばしました。
3年後江戸幕府を開いた家康はかねてからの夢を実現するためアダムスを呼び出しました。
そなたは船を造れるか?船…でございますか?家康が望んだのは西洋式の船。
日本の船よりスピードが速く遠洋航海に向いています。
家康は西洋式の船で外国と貿易をしたいと考えていました。
しかしスペイン人に造り方を聞いても…。
日本人が遠くまで船で行けるようになったら我々の植民地に攻め込んでくるかもしれない。
教えるのはやめておこう。
良い答えは返ってきません。
家康は夢の実現をアダムスに託そうと考えます。
一方アダムスは…。
心の声船など造った事はないがこの方に認めてもらうためには…。
承知いたしました。
やってみまする。
(家康)おおさようか。
しかと頼んだぞ。
早速アダムスはリーフデ号を参考に設計図を作成。
同時に場所を探します。
選んだのは温泉地として知られる静岡県の伊東。
実は…当時は幕府の直轄地で腕の良い船大工が大勢いました。
近年按針が船を造った場所が具体的に分かってきました。
専門家に映像を見ながら教えてもらいましょう。
(金子)河口が見えるようにもう少し高い位置でお願いします。
手がかりは「慶長見聞集」という江戸時代の記録。
船を造るため「河尻」で「砂を掘った」とあります。
(金子)右岸は砂ではなくて泥がたまってるような状況なんですね。
それに対して左岸は砂で出来上がってる地形なものですから記録のとおり造船してる途中で掘りくぼめる事が可能なんですね。
これらの事から按針が船を造った場所は「河口近くの左岸」と推定されました。
僕もドキドキだった初めての船造り。
ほんとに砂が大事だったんです!まず砂浜に並べた丸太の上で船の骨組みを組み立てます。
作業しながら砂を少〜しずつ掘り下げて…。
完成したら川の流れを変えて海へ押し出しま〜す。
大きな西洋式の船を造る工夫。
我ながらWonderful!アダムスが造った船は全長およそ30m。
当時とても珍しい大型船でしたが見事大海原へ乗り出しました。
見事な船じゃ!気に入ったぞ!実際に船に乗った家康はとても喜んだといいます。
アダムスの場合は…後日。
こたびの働き大儀であった。
褒美を取らす。
家康はアダムスに与える領地が記された「書付」を渡しました。
外国人として初めて家康の家臣である「旗本」に取り立てられたアダムス。
はっ。
「イギリス人の侍」三浦按針が誕生した瞬間でした。
更に外交顧問として家康に自由に会える特別待遇を与えられます。
「私はイギリス貴族にも匹敵するような身分と暮らしを与えられました。
これは神が与えたもうた大いなる恵みです」。
奇跡的に出会った按針と家康。
この後共に「外交」という名の荒海に乗り出す事になります。
外国人が天下人の側近となるのは極めて異例の事でした。
三浦按針の評価がいかに高かったか分かります。
彼の働きに報いようと家康が按針に与えた領地は現在の神奈川県横須賀市の逸見。
今でも按針の暮らしぶりが語り継がれています。
按針の屋敷は村の中心にある浄土寺の南側にあったと言われます。
江戸時代の記録によりますと…按針は日本人女性と結婚。
ジョセフとスザンナという2人の子供にも恵まれ幸せな家庭を築きます。
また地元の人々にワインやパンのつくり方を教えるなど親しく触れ合いました。
一方逸見の人々は…。
…という事が読み取れるんではないかなとこう思っております。
このころには按針も日本を第2のふるさとのように思っていたのかもしれません。
新たなふるさとを守るため按針は一層家康の外交政策に力を尽くしていきます。
按針が日本に来て4年。
家康はいよいよ…そのころスペイン船は九州までしか来ませんでした。
家康は江戸近くまで呼び寄せようと考えますが…。
江戸の周りには良い港がありません。
それでは船で行くのは無理です。
いや実は江戸の手前に浦賀という港があるのです。
そこなら船を着けられるはずです。
浦賀は江戸湾の入り口にある良港。
幕末ペリーが来航した事でも有名です。
按針は自らスペイン船を操って商人を浦賀に案内。
交渉をまとめました。
その結果…。
…というふうに言われてるんですね。
しかし家康の本当のねらいは貿易の「次」の一手でした。
ある時スペインの総督に話を持ちかけます。
そなたの国の…その者たちの技ならば銀をより多く取り出せると聞いておる。
そのころ…家康は鉱山技術者を招きその技を取り入れようと考えたのです。
なぜスペインの技術を欲しがったのか。
その答えが新潟・佐渡にあります。
家康が開発した金銀山。
山が2つになるほど金銀が掘り出されました。
当時の膨大な産出量をうかがわせます。
ところが家康の時代佐渡は大きな問題を抱えていました。
これは「金銀山絵巻」です。
佐渡金銀山の鉱石から主に金銀を取り出す「製錬」の様子を描いたものです。
この「製錬」の時佐渡では鉛を入れて加熱しました。
しかし大量の木炭が必要で莫大な経費がかかりました。
一方スペインが営むメキシコの銀山。
鉛の代わりに水銀を使い加熱の必要もない。
最新技術「アマルガム法」です。
家康はスペインの技術で効率的に金銀を手に入れ幕府の支配を確かなものにしようと考えました。
ところが…。
技術を提供する代わりに日本での布教をお許し下さい。
また今後発見される鉱山の利益はその半分をスペイン国王に頂きたい。
外交巧者・スペインの厚かましい要求。
しかし家康は…。
よかろう。
大筋で要求を受け入れます。
満足した総督はスペイン本国へ報告するため帰国。
一方…翌年。
待ちに待ったスペインの使節が来日し家康と会見しました。
この時家康に贈られた品が残っています。
日本最古の洋時計です。
横の扉は中が見えるよう家康のためにわざわざ付けられたといいます。
更にこんな機能まで。
(時打ち音)しかし和やかだったのはここまで。
返書の翻訳を読んだ家康はたちまち不機嫌になります。
これはいかなる事じゃ。
銀山の者を送る事など一言も書いておらぬが?技術者の件はいま少しお待ち下さい。
その前に貿易のため海岸線の測量をお許し下さい。
技術者の事は先送り。
しかも新たな要求まで。
按針は不信を抱きました。
心の声本当にスペインは技術者を送る気があるのか?しかも測量?まさか…。
しかし家康はまたも要求をのみます。
すぐに日本各地で測量を始めたスペイン船。
やはりそこにはたくらみが隠されていました。
「日本は金銀が豊富で植民地とするには最適です。
しかし戦争が得意なので武力制圧は難しいでしょう。
そこで宣教師を送り信者がたくさん増えれば喜んでスペイン国王に従うようになるはずです」。
なんとスペインは布教を足がかりに日本を支配しようと考えていたのです。
さすがに家康も強い疑いを抱きました。
按針どう思う?恐れながら上様私の国やその近隣諸国では海辺を異国人に好き勝手に測らせるなど決してありえませぬ。
許せぬ!怒った家康は交渉の打ち切りを決断。
教会の破壊と布教の禁止を命じます。
日本が初めて経験したヨーロッパの脅威。
家康は際どいところで切り抜けました。
その難しいかじ取りをそばで支えたのが三浦按針だったのです。
実は家康公按針の他にオランダ船・リーフデ号の船員をもう一人外交顧問としていました。
それがこちら…ヨーステンは東京駅と深い関わりがあります。
「八重洲口」の「八重洲」はヨーステンの日本名「耶楊子」が由来です。
東京駅の近くにあったと言われるヨーステンの屋敷。
この事から周辺を「八代洲」と呼ぶようになりやがて今の「八重洲」になりました。
地下街にはそれを記念する像もあります。
按針とは違う形で徳川家康に用いられました。
さて按針が日本にやって来て13年。
数奇な運命によって出会った徳川家康との別れの時が訪れます。
その後も外国との厳しい交渉を担った按針。
家康を支えます。
しかし活躍の一方である思いが募ってゆきました。
その思いをうかがわせる史料がイギリス大英図書館に残っています。
按針が書いた9通の手紙。
そこにつづられていたのは…。
按針は外国船に手紙を託します。
誰でもいいからイギリス人に渡してほしい。
「思い切って手紙を送ります」。
「船を送って下さい」。
いつか日本に祖国の船が来れば帰れるかもしれない。
僅かな希望にかけたのです。
その思いを家康に伝えた事もありました。
大御所様何とぞ私の国に帰る事をお許し下さい。
ところが…。
按針は他に代わりのいない存在。
帰国など認められません。
その後も按針は家康のために働き続けました。
長崎県平戸は按針が最大の功績をあげた場所です。
その活躍の証しが残されていました。
こちらが1609年に徳川家康がオランダの使節宛てに発給した朱印状になります。
オランダの船がどこの日本の港にでも停泊していいっていう事が許可された内容になっております。
家康は按針の仲介でオランダとの貿易を始めました。
カトリックの国スペインは布教と貿易が一体だったのに対しプロテスタントの国オランダは布教と貿易は別物。
そうした違いを説明し関係樹立に大きな役割を果たした按針に家康は…。
心の声この者は帰国を許さぬわしに変わらず尽くしてくれる…。
そして4年。
待ちに待った知らせが…。
ついに!イギリスの船が平戸に入港したのです。
手紙は祖国に届いていました。
按針は同胞のもとに駆けつけました。
(按針)皆さんようこそ日本へ。
長い間あなた方をお待ちしておりました。
君がアダムスか。
会えてうれしいよ。
ところが…。
按針と対面したイギリス人司令官は首をかしげました。
心の声まるで日本の侍のような服装と振る舞いだ。
奇妙なやつだ!Joinus.来日して13年。
日本になじもうと重ねてきた努力が同胞に不信の念を抱かせてしまったのです。
2か月後。
貿易の約束を取り交わすためでした。
ところが会見の直前。
私はイギリス国王の代理人だ。
国王陛下の手紙は私が直接渡す。
どんな手紙でも側近が取り次ぐのが日本のしきたりです。
どうか従って下さい。
No!しかし司令官は承知しません。
いよいよ家康と対面。
司令官は忠告を無視して家康に近づきます。
周りが息をのんだ瞬間…。
確かに親書お預かりいたした。
按針に事情を聞いていた側近の機転で手紙は作法どおり渡されました。
按針この者に伝えよ。
長旅大儀であった。
はっ。
対面は無事終了。
両国は正式に貿易を始めます。
按針はオランダに続きイギリスとの貿易も実現させました。
そしてイギリス人たちが帰国する直前。
按針は家康のもとを訪ねました。
大御所様お願いがございます。
(家康)何じゃ。
取り出したのは旗本に取り立てられた時の書付でした。
(按針)大御所様何とぞ帰国をお許し下さい。
この時家康の表情は穏やかでした。
そなたは遠い異国の者でありながらわしによう仕えてくれた。
ここでそなたを引き止めてはそなたのこれまでの働きを無にする事になるであろうな。
ありがたき仰せ…。
(按針)「家康様は他にも多くの褒め言葉を私にかけ長年の努力に報いて下さった。
私は大きな喜びに満たされた」。
江戸時代の初め。
外交で世界と渡り合った家康と按針の二人三脚はこうして終わりを告げたのです。
その後江戸時代の日本ではオランダが長崎の出島で貿易を続ける一方イギリスは撤退します。
ここにいわゆる「鎖国」と「オランダ貿易」に代表される江戸の外交が確立。
按針のその後の消息を伝えるものがあります。
これが按針の墓ではないかという事で伝えられている石碑になります。
祖国に帰りたい。
按針の願いはかないませんでした。
帰国直前…家康に別れを告げた7年後。
按針は世を去りました。
それからおよそ400年。
平戸市による発掘調査が行われました。
骨よ骨骨!見つかったのは人間の太ももや頭の骨の一部。
すぐに専門家に送られ詳しく調査されました。
その結果当時の平均的な日本人の骨より1割ほど大きい事が分かりました。
按針がワインやパンづくりを伝えた…按針の死後ここに供養塔が建てられました。
三浦家は息子・ジョセフの代で絶えますが逸見の人々は按針を忘れませんでした。
今も年に一度イギリスやオランダから関係者を招き慰霊祭が行われています。
そこで歌われる歌があります。
・「三浦按針アダムスの故郷はイギリスケント州」按針の生涯をしのぶ歌。
逸見に住む岩澤さんも子供の頃から歌い継いできました。
400年前日本にたどりついた三浦按針。
ふるさとへの思いを秘めながら遠い異国で精いっぱい力を尽くしたその生き方は今も私たち日本人の心を震わせています。
2018/04/18(水) 22:25〜23:10
NHK総合1・神戸
歴史秘話ヒストリア「家康 大航海時代に出会う! イギリスの侍 按針の大冒険」[解][字]

徳川家康の側近にイギリス人の侍がいた!日本名は三浦按針。大航海時代に諸外国と渡り合い、鎖国やオランダ貿易など「江戸の外交」を導いた家康と按針の苦難と友情の物語。

詳細情報
番組内容
徳川家康の側近に、なんとイギリス人の侍がいた。日本名は三浦按針。最新型の大砲や西洋式の大型船など家康の願いを次々とかなえた按針は、家康から強国スペインとの外交交渉を任される。黄金の技術をめぐるしれつな外交戦争の行方は?さらにイギリス大英図書館に残された按針の手紙につづられていた切ない思いとは?大航海時代の世界と渡り合い、鎖国やオランダ貿易など「江戸の外交」を導いた家康と按針。その苦難と友情の物語。
出演者
【出演】パトリック・ハーラン,【キャスター】井上あさひ

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化

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