奥羽*温故知新

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岩手県域
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河村四郎秀清
「河村千鶴丸」は十三歳でしたが、文治五年(1190)の奥州藤原氏の討伐「奥州合戦」に参陣を許され、阿津賀志山の戦に功をたて、頼朝の命で「加々美長清」を烏帽子親として元服し「河村四郎秀清」と称しました。

阿津賀志山の防塁跡
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戦後の論功行賞で、「秀清」は岩手郡・斯波郡の北上川東岸一帯と茂庭の地、そして摩耶郡の三ヶ所に所領を賜ったとされていますが、「秀清」はこの三ヶ所の内どこに居を定めたかについてははっきりしていませんが、斯波郡の大巻に大巻城を築いた伝えられ、この遺構の規模の大きさから、河村氏の本拠は大巻館であったものと推測されています。

大巻館は、河村館・館平とも呼ばれ、眼下に北上川が流れ、背後には北上山地の連山をひかえる要害の地であり、館山に残る大巻館の跡は、三重の堀と土塁がめぐらされた戦国期の遺構が現在でも残されています。
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堀と土塁跡
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以後、河村氏は北条執権政治のもとでは、北条氏に従い、「秀清」は「承久の乱」に武家方として功をたてるなど活躍をしていることから奥州の所領には長く留まらなかったのかも知れません。。

しかし、奥州の地には、その子や一族の「時秀」の子「貞秀」らが配置され、その子孫が河村氏の分流として北上川東岸一帯に広まり、大萱生・栃内・江柄・手代森・日戸・渋民・川口・沼宮内などの諸氏となっています。

南北朝時代の河村氏は北畠顕家・顕信に従い南朝方として活動したようです。
興国二年(1341)四月
[北畠顕信]は北奥の南朝方である南部・滴石・和賀・河村の諸氏とともに稗貫党等の北朝方と栗谷川で合戦となっています。

その後も何度か北朝方と衝突を繰り返すが、結局、戦いは南朝「北畠顕信」方の敗北で終ります。

こうして奥州北朝方の勢力が北奥へと伸長し、高水寺城の斯波氏の隣に位置する大巻館河村氏への圧力は驚異となっていきます。

北上川を挟んで高水寺城が見えます。
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その後、正平十年(1355)
大巻の河村氏は「顕信」の次男「北畠守親」に属して、田村庄司氏らの挙兵に参加したともいいますが、紫波郡高水寺城に斯波氏一門の直持(斯波氏に関しては異説あり、斯波氏を参照。)が探題となって入ってくると、ついに河村氏は斯波氏に服するようになりました。

斯波氏の配下に入った河村氏は大巻から左比内へと居を移していますが、この後数代の河村氏の動向は詳らかではなく、系図も不明となっています。


その後、戦国時代も後期になった元亀・天正の頃(1570~)に「河村飛弾秀定」の名が登場しています。

「秀定」は「斯波安芸守詮愛」に仕え、その剛勇さを買われて「鷲内」の姓を与えられていたと伝えられ、 この「鷲内飛弾秀定」の養継子「秀重{秀親?}」は大萱生の北に住んで「大萱生秀重」と改めています。

天文六年(1537)南部氏の南下が開始され、斯波・稗貫・和賀氏らは連合して南部氏に対抗します。
同九年、「南部(石川)高信」をが総大将となって岩手郡 滴石城を攻略、斯波氏は敗れて滴石城は陥落し、同十四年、「斯波左兵衛尉詮高」の嫡男、「治部少輔経詮」が岩手郡に軍を出したものの、利あらず引きあげている。

このように、繰り返される南部氏の南下に対して斯波氏は防戦に努めますが、元亀三年(1572)、南部氏は「南部(石川)高信」を総大将として、ふたたび志和郡に侵入してきて、斯波氏は見前舘で防戦につとめますが敗北し、 結局、「稗貫大和守」の調停で南部氏と和睦しました。

この和睦は斯波氏にとって屈辱的なもので、斯波氏は南部氏に見前舘を割譲。さらに、娘婿に「九戸政実」の弟の「弥五郎」(のちに高田吉兵衛を名乗る)を迎えるというものでした。

しかし、天正十四年(1587)、斯波氏の女婿になっていた「高田吉兵衛」と「斯波民部大輔」との間に不和が生じて、「吉兵衛」は斯波を出奔し、三戸に帰ります、「高田吉兵衛」を「南部信直」は庇護し、斯波方の目と鼻の先の岩手郡中野舘(盛岡市)に配置しました。

以後、「高田吉兵衛」は「中野修理助直康」を称して、斯波氏に対する南部氏の最前線を守ることになります。

斯波氏の没落と河村氏
南部氏の措置に憤った「斯波民部大輔」は中野舘を攻撃しましたが反撃に遭い敗退、 斯波家家臣の間に動揺が拡がって「中野修理」に内応する者が出て、かくして天正十六年、斯波方の「岩清水右京」が叛乱をおこす事態となります。

これを鎮圧に行った斯波軍は逆に敗退したため、「斯波詮直」自らが出陣して舘を奪回しその余勢を駆って見前舘も攻撃、この斯波勢の動きをみた「南部信直」は、ただちに南部軍を南下させてきた。

これを聞いた斯波氏は、たまらず瓦解してしまい、これが命取りとなって滅亡の運命となりました

戦国末期の斯波氏家臣に大巻館の河村氏、江柄館の江柄民部、栃内館の栃内源蔵、佐比内館の川村喜助らがいたことが知られていますが斯波氏滅亡のとき、河村一族は分裂したようです。

それは、大萱生氏・江柄氏・手代森氏・乙部氏・長岡氏・大巻氏らは主家滅亡に際しても、参陣した形跡はないことからも推察されています。

そのなかで、佐比内の「河村秀政」は高水寺から逃げてきた「斯波詮直」を守って山王海へと落ち延びさせ、「秀政」自身は戦傷を負い、結局武士を捨てて帰農したそうです。

一方、「大萱生玄蕃」は主家に弓を引いたが、その妻が「斯波詮直」の伯母であった関係から、敗れた「詮直」は大萱生家を頼ってきました。

「玄蕃」は「詮直」を大萱生城に匿ったものの、これを察知した南部氏は天正十七年十月大萱生城を包囲、結果、「大萱生玄蕃」は「詮直」とともに上大萱生まで逃れたといいます、こうして、斯波氏の滅亡と期を一つにして河村氏も没落したようですが、 河村氏・大萱生氏の後裔は帰農したり、南部家や伊達家に仕官したりしてそれぞれ独自の道を歩んだようです。


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秋田市の河村ですが。大巻城に出てくる河村一族を祖であると思われますが、岩手から秋田へと繋がりません。
何か情報がありましたら、よろしく願います。 削除

2010/1/24(日) 午後 10:50 [ 秋田市河村です ] 返信する

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河村さん、はじめまして、こんばんは。

しばらくぶりの歴史に関してのお問い合わせですが、相模国を本拠としていたとされる、河村氏…。
一時、頼朝討伐に動いたともされていますが、奥州合戦において河村千鶴丸(後の秀清)の獅子奮迅の働きによって、頼朝自ら烏帽子親になって元服させ「秀清」を称させたと伝えられています。

その後、河村氏一族は岩手郡(今の盛岡市)から紫波郡まで、勢力を伸ばし、記事のように発展したと、思われます。
そこで本題ですが、私が知る限りでは秋田方面に勢力を伸ばした河村一族がいたとは、知りませんでした。
斯波氏が高清水城に入ってからは、その勢力の下に入らねばならず、
(これは、斯波氏を参照して下さい。)斯波氏滅亡後、ともに倒れた河村氏もいたと思いますが、南部氏に仕えた河村氏が多く、現在も紫波町・矢巾町には、流れを汲む「川村」姓がたくさんいらっしゃいます。

2010/1/24(日) 午後 11:11 ビナヤカ 返信する

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何度も申し訳ありません。系図には、元祖河村太郎秀時 藤原姓河村
とあり、小野寺遠江守義道に仕へ。とあり梅津家松組下となっております。紋は左三つ巴です。 削除

2010/1/25(月) 午後 2:19 [ 秋田市河村です ] 返信する

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河村さん、こんばんは、遅くなりました。

確かに藤原姓河村氏の中に、斯波氏滅亡時に「秀時」なる人物がいます、しかし、河村太郎秀時と同一人物かどうかはわかりません、当時の当主は「秀政」と伝えられており、その弟とされています。
つまり、太郎を称することが、絶対無いとは言い切れませんが、腑に落ちません。
当主秀政はその後、帰農しています。
弟秀時のことは判らずじまいでした。
家紋は相模宗家波多野氏からの直交紋、他に下り藤、三引などで、三つどもえ紋はちょっとわかりません。
あと、梅津家とは、佐竹氏重臣の梅津氏でしょうか。

2010/1/29(金) 午後 5:48 ビナヤカ 返信する

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ありがとうございました。また何か情報がありましたら
よろしくです。梅津氏は佐竹藩の家老と思われます。 削除

2010/2/3(水) 午後 10:12 [ 河村です ] 返信する

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河村さん、こんばんは。

そうですね、こちらこそ宜しくお願いします。
小野寺氏家臣団のなかには、滅亡後佐竹氏に仕えた者も多かったと聞いていますが、重臣梅津氏に仕えることが出来たということは、それなりの武士だったと思われますね。

2010/2/5(金) 午後 6:12 ビナヤカ 返信する

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河村さん、初めまして。大巻とは、 人名・地名・ について教えてください。

2016/9/2(金) 午前 8:08 [ バルピス ] 返信する

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> バルピスさん、大巻という地名は現在でもあります。
「 岩手県紫波郡紫波町大巻」

2016/9/2(金) 午後 7:09 ビナヤカ 返信する

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河村さん、ありがとうございます。人名については如何でしょうか。

2016/9/3(土) 午後 1:06 [ バルピス ] 返信する

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> バルピスさん
私が知る限りでは、紫波町でお一人、大巻氏を称していますが、本姓河村氏かどうかはわかりません。

2016/9/3(土) 午後 5:26 ビナヤカ 返信する

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> 河村さんありがとうございます。紫波町に遊びに行きたいと思います。 大巻です。 削除

2016/9/3(土) 午後 8:14 [ バルぴス ] 返信する

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はじめまして。

以前から気になっていたご先祖様の事を苗字や家紋を頼りに調べていてたどり着きました。

今は東京在住ですが、私のルーツは岩手県です。(父の出身が岩手県です。)

家紋が丸に☓なので、河村氏の流れの大巻一族で間違いないと思っています。
岩手県にある父方の本家の墓参りなどに行った際も八割がた同じ大巻(苗字)に家紋です。

ちなみに東京で家族以外で同じ苗字の方にお会いしたことは未だにないです…

ご参考まで。 削除

2017/7/5(水) 午前 2:19 [ 大巻みさき ] 返信する

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大巻みさきさんおばんでございます。

貴重な情報ありがとうございます。
確かに奥州河村氏一族の大巻氏なのでしょうね。
この次の記事「大萱生氏の菩提寺龍源寺の寺紋も丸に直違いの紋」でやはり河村氏一族絡みです。この様に岩手県各地に末裔が散らばりそれぞれ土地名を姓として、戦乱の世を生き抜いて来たのでしょうね。

2017/7/5(水) 午後 9:03 ビナヤカ 返信する

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