鈴木涼美(社会学者)

 週刊誌的洗礼、というのがあって、誰しも初めてはなかなか度肝を抜かれる。それは、それなりに慎重でそれなりに脇の甘い、フツウの一般社会人が「そんなことはさすがにしないであろう」とごくフツウの感覚で考えることをいとも簡単に飛び越え、少しでも見えた脇の甘さからこぼれ出るものを、サラッと攫っていく根性にある。

(瀧誠四郎撮影)
(瀧誠四郎撮影)
 以前、週刊文春出身の勝谷誠彦氏が週刊朝日の橋下徹氏に関する記事に対する意見を求められ「週刊誌記者としての訓練」という言葉を使っておられた。要は新聞記者になくて、週刊誌記者にあるものについて示唆していたのだと思うのだが、当時、大手新聞社記者というある意味では温室育ちの立場にあった私は、何故か甚くその言葉に感化され、それは一体何であるのか考えた。

 当時の私のぬるい脳みそでは、危険なこともちょっと飛ばして書くくらいの度胸や、危険すれすれを見極める眼力くらいにしか想像力が及ばなかったが、今から再考するに、おそらくそれは一部に、或いは多くに嫌われることへの尋常ではない腹積もりなのではないかと思っている。これ、別に罵詈雑言めいた記事を書いて公人に嫌われるとか、書かないで欲しいプライベートに踏み込んで芸能人に嫌われるとかいうことだけじゃなく。

 私が自分の身体をもって週刊誌的洗礼を受けたといえば、新聞社を退社した直後、週刊文春に「日経新聞記者はAV女優だった!」との見出しで経歴を書かれた時であろうか。私は雑誌発売のつい数日前に(というかもう明日校了です、という状態の時に)、同誌編集者と記者から直接電話がかかってきて、逃げ惑うに逃げられず取材を受けたのだが、当時はその強引な取材方法に、品のいい新聞記者としてはちょっと驚きもした。

 まず、文春の文芸誌にいる付き合いのある編集者から、「文藝春秋」誌の編集に連絡先を教えていいか、という連絡があり(後で分かったのだが、その編集者さん自体もちょっとハメられていたようで)、月刊誌から連絡があると思い込んでいたところに週刊誌記者より電話。まるでフツウの日常会話のように「そういえば日経やめたんですね〜」「元AVだったんですよね?たしか」と会話が進み、気づけば掴まれていた事実の裏とり作業につきあっていた。