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【歴史の黒幕】暗躍した歴史上のキングメーカー13人(前編)

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 歴史を支えた影の実力者「キングメーカー」

「キングメーカー」という言葉を辞書で引くと

(総理大臣などの)要職の人選を左右する実力者。

とありました。政権のトップではないものの、トップに比する力を持ち、政局を変える力を持つ影の実力者を指します。

あまり歴史の表舞台に出てくる人物ではないものの、歴史の変換点の要所要所には必ずキングメーカーの活躍・暗躍がありました。

 今回は前後編で、歴史を動かしたキングメーカーたちを紹介していきます。


1. アトッサ 紀元前550-紀元前475(ペルシャ帝国)

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Photo from Flickr

 アケメネス朝ペルシアの血の継承を支えた女

アトッサはアケメネス朝ペルシア初代国王キュロス2世の長女。

キュロス2世は現在のイラン、イラク、シリア、アナトリア、バクトリア、ソグディアナを統一し大帝国を築いたどえらい男です。

キュロス2世の死後、二代目には息子のカンビュセス2世が継ぎます。カンビュセス2世の妻に選ばれたのは、なんと妹のアトッサ。

偉大すぎる父王亡き後、動揺する帝国をまとめあげるためにアトッサは夫となった兄と協力。政権を安定させたカンビュセス2世はエジプトをも征服し、大帝国をさらに拡大させました

ところがカンビュセス2世が死亡すると帝国は混乱状態に。メディア人のマゴスやガウマータという男が帝国の実権を握り、キュロス2世家の王権は実力者であるダレイオスらペルシア人貴族たちによって打倒されてしまいました。

しかし、王位に就いたダレイオスはキュロス2世の血をひくアトッサと結婚。キュロス王朝の王位を継ぐものという大義名分を得てダレイオス1世として王位に就きました。

ダレイオスとアトッサとの間には何人か子どもが生まれ、二代目には次男であるクセルクス1世が就きました。彼の就任にあたってはアトッサの政治的影響力が強く働いており、通常ペルシアの王は長男が継ぐのが慣例でしたが、アトッサの強い後押しのおかげでペルシア貴族たちは誰も歯向かうことはできなかったのでした。

 

2.  カウティリヤ 紀元前350-紀元前283(グプタ朝)

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Image from "Chanakya Neeti – Practical Lessons of Ethics for Everyone" clearIAS.com

マウリヤ朝成立に寄与した「インドのマキアヴェリ」

カウティリヤは古代インドの大哲学者。

当時のインド亜大陸は、北部にマガダ国ナンダ朝が支配する以外は、マハジャナパダス(Mahajanapadas)と呼ばれる小さな藩王国がいくつも林立する状態でした。

カウティリヤにはいくつも伝説めいたお話があるので、何が事実で何が創作かよく分かっていないのですが、ある時ナンダ朝の王ダーナ・ナンダによって侮辱を受け、怒りのあまりナンダ朝の滅亡を志すようになったということです。哲学者にしてはえらく短気ですね…。たぶんこれだけじゃないとは思うのですが。

カウティリヤは若くカリスマ性があり、かつ高貴な血のチャンドラグプタに接近し、2人で反ナンダ朝の軍勢を集めたといいます。紀元前321年、チャンドラグプタの軍勢はナンダ朝を倒し、マウリヤ朝を創設。初代国王となりました。カウティリヤはマウリヤ朝の宰相となり、国王チャンドラグプタを支え帝国の基礎を築きました。チャンドラグプタはガンジス川流域、インダス川流域、インド中部を征服し、インド史上初の巨大な大帝国を成立させました。

 

3. プラエトリアニ(ローマ帝国)

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皇帝の擁立に暗躍した皇帝親衛隊 

初代皇帝アウグストゥスは帝政を確立するにあたって、皇帝の身辺を警護する親衛隊の必要性を感じており、徐々に信用できる人物を集め、プラエトリアニと呼ばれる皇帝親衛隊を組織しました。

イタリア半島内に駐留できる唯一の軍事組織ということもあり、プラエトリアニは徐々に力をつけ、自らの利権を脅かす皇帝の排除を行うようになっていきます。コンモドゥス、カリグラ、アウレリアンを始めプラエトリアニの手によって殺害された皇帝は数多く

2世紀の内乱時代、その後の軍人皇帝時代にはプラエトリアニは独自に皇帝を擁立し、意のままにならない場合は殺害するなど、帝国の政治を操るようになっていきます。

プラエトリアニ出身の皇帝ディオクレティアヌスは、プラエトリアニの危険性を熟知し、プラエトリアニの役割を大幅に縮小しますが完全に廃止にはできず。312年にプラエトリアニはマクセンティウス帝を擁立してコンスタンティヌス帝と戦い敗北。コンスタンティヌスはプラエトリアニを解散し、他のローマ軍団の部隊に吸収させました。

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4. フラビウス・リキメル 405-472(西ローマ帝国)

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Photo by Panairjdde

 4名の皇帝を傀儡に擁立したゲルマン人将軍

フラヴィウス・リキメルはスエビ族の父と西ゴート族の母の間に生まれ、西ローマ帝国の皇帝警護の任に当たりました。
454年~455年に皇帝ヴァレンティニアヌス3世の暗殺によって皇帝が空席となり、その間にヴァンダル族がローマ略奪をするなど帝国は混迷を極めていきました。そんな中、西ゴート王テオドリック2世の推挙で軍務長官アエティウスが皇帝に就任。彼の部下だったリキメルも軍の要職に就きました。リキメルは軍を率いて蛮族との戦いに明け暮れ成果を出し、友人で将軍のマヨリアヌスに次いで、軍の二番目の地位にまで出世します。
皇帝アエティウスは次第に政務を疎かにし贅沢な日々を送るようになり市民の怒りを買ったため、マヨリアヌスとリキメルは軍を興し、皇帝を捕え追放した後に殺害。リキメルは新たな皇帝にマヨリアヌスを推挙しました。
マヨリアヌスは皇帝としては有能でしたが、リキメルと次第に仲たがいをするようになります。リキメルは、マヨリアヌスがヴァンダル族の王ガイセリックとの闘いに行っている間に元老院を工作し、ローマへ帰還中の皇帝を捕獲し処刑

その後、元老院出身のリウィウス・セウェルスを皇帝に擁立。しかし東ローマ帝国はリキメルの傀儡であるリウィウス・セウェルスを認めず、蛮族の侵入にも援軍を出さず資金援助もストップさせたため帝国の財政は破綻。打開策として、リキメルはリウィウス・セウェルスを殺害し、東ローマ皇帝レオ1世によって西ローマ皇帝が指名されるのを待つことにしました。

467年にイリュリクム軍区司令官アンテミウス将軍がレオ1世によって西ローマ皇帝に指名されます。東西の和解が成ったことで、468年に東西ローマ軍合同でヴァンアル族討伐の遠征軍を出しますがこれに大敗してしまう。これに呼応する形で帝国各地で蛮族が蜂起。アンテミウスとリキメルは互いをなじりあい、とうとう国を二分する内戦が勃発。リキメルは傭兵隊長オドアケルの兵を含む軍を率いてローマに進軍し、アンテミウスを捕え殺害。オリビリオスという男を皇帝に擁立するも472年に死去

カリスマ・リキメル亡き後、帝国はますます混乱し、476年のオドアケルによる西ローマ帝国の簒奪へと進んでいきます。

 

5. ウェセックス伯ゴドウィン 1001-1053(イングランド)

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Image from medievalhistory.net

2人のイングランド王を擁立した腹黒い貴族

1016年デンマーク王クヌートが、現在のイングランド、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン南部を征服し「北海帝国」を建設しました。大王の死後、有力な指導者は現れずに帝国は各地の諸侯が割拠し、北海帝国は分裂してしまいます。

デンマークとイングランドの継承権は、デンマーク王クヌートとイングランド王妃エマの息子ハーデクヌーズにありましたが、イングランドの有力諸侯はクヌートとスウェーデン王妃エルギスの息子ハロルドを国王に擁立。イングランドの有力貴族であったウェセックス伯ゴドウィンもハロルドを支持し、1035年にハロルドはハロルド1世としてイングランド王に即位。これはイングランド王妃を母に持つ、前々国王のエゼルレッド2世の息子たちと、前国王のクヌートの息子たちを激怒させました。

1036年、前々国王エゼルレッド2世とエマの息子、兄エドワードと弟アルフレッドが亡命先よりイングランドに帰国。かつての父の重臣であるウェセックス伯ゴドウィンを兄弟は頼ったのですが、アルフレッドはゴドウィンの命令で捕らえられ目を潰され、その後死んでしまいます。兄エドワードは再び亡命しました。

ハロルド1世は1040年に死亡し、イングランド貴族たちはデンマークにいたハーデクヌーズにイングランド国王になるように要請。ハーデクヌーズはイングランド国王となりました。「王位簒奪者」ハロルド1世を支持したゴドウィンも誹りを免れないところでしたが、ゴドウィンは豪華な船をハーデクヌーズに献上し、罪を許されたのでした。

1042年、ハーデクヌーズは死亡し、前々国王の息子エドワードがイングランド国王に就任(エドワード懺悔王)。エドワードはゴドウィンの娘エディスを娶っており、ゴドウィンはイングランドのNo.2の有力者になっていました。エドワード懺悔王の死後、ゴドウィンの息子ハロルド・ゴドウィンソンが、貴族らの支持を受けてイングランド国王に就任したのでした。

 

6. リチャード・ネヴィル 1428-1471(イングランド)

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2人の国王の即位を支えた大貴族

ヨーク家とランカスター家がイングランドの覇権を巡って戦った薔薇戦争において、リチャード・ネヴィルは主要な役割を演じた人物です。

ネヴィルの父は第5代ソールベリー伯で、20代で既にイングランドで大きな影響力を持つ大貴族でした。当初ネヴィルはランカスター家出身のヘンリー6世を支持していましたが、同じく有力貴族のサマセット公との領土を巡る対立から、ヘンリー6世の政敵のヨーク公リチャードと協力関係になります。

ヨーク家とランカスター家の戦いは全面戦争に突入し、戦いの中でソールベリー伯もヨーク公リチャードも死亡しますが、子のヨーク公エドワードはネヴィルの支援を受けてとうとう勝利しヘンリー6世を追い落とし、イングランド国王エドワード4世として即位

しかし エドワード4世とネヴィルは反りが合わず対立が深まり、ネヴィルはとうとうランカスター家のヘンリー6世を再度担ぎ国王に復権させます。

しかし最終的1471年のバーネットの戦いでエドワード4世に敗れ死亡しました。

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つなぎ

 皇帝や国王の名前は注目されますが、彼らが権力を握るには強い権力を持った人間の後押しが必要です。

必ずそのような人物はいるのですが、影に隠れてなかなか見えづらいものです。

キングメーカーに注目してみることで、歴史も少し変わった風に見えてくるかもしれません。こちら後編に続きます。

 

 

参考サイト

"Top 10 Kingmakers Who Shaped The Course Of History" LISTVERSE

Enceclopedia Iranica