念のため指摘すれば、問題当時、佐川氏は理財局長であり「国税庁長官」ではない。本来なら書くまでもないが、「アタマ」は財務大臣であり、総理大臣である。総理や大臣の明示的な関与があったとは思わないが、いわゆる忖度(そんたく)はあったのではないか。現に文書から、安倍総理夫人の名前と彼女の発言も削除された。そこには忖度があったと判断せざるを得ない。

 だが、安倍政権と「安倍マンセー保守」はその可能性すら否定してきた。みな「モリカケ」と呼び、問題を矮小(わいしょう)化した。朝日報道を「捏造(ねつぞう)」と断じた者もいる。政府が14件の文書で「書き換え」を認めざるを得なくなった3月12日現在も、「改ざんではなく訂正」と強弁したり、「たいした問題ではない」と嘘ぶいたり…。

 厚顔無恥(こうがんむち)も甚だしい。立憲民主党らが主張する通り、政府は「国権の最高機関」たる国会を愚弄(ぐろう)し、民主主義の根幹を揺るがした。加えて歴史を改ざんした。決して些細(ささい)な問題ではない。断じて許されない。保守派こそ、そう非難すべきではないのか。
演説会を終え、支持者らと握手を交わす安倍晋三首相=2017年9月、京都府舞鶴市
演説会を終え、支持者らと握手を交わす安倍晋三首相=2017年9月、京都府舞鶴市
 仮に書き換えが許されるなら、文書番号や日付の明記を求める公文書様式はすべて無意味になってしまう。既出拙稿も内容を書き換えれば済む。公文書それも決裁文書でそれが許されるなら、国会審議も、議会制民主主義も、あらゆる行政手続が意味を失う。

 公文書管理法は「行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、(中略)現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする」。同法が明記する通り、公文書は「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」である。

 上記の「説明(する責務)」は、「最後の審判」における神への申し開きを意味する言葉に由来する。『新約聖書』にこうある。「やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」。この「申し開き」が「説明」であり、原語(ギリシャ語)は同じ「ロゴス」。「言葉」や「理性」に加え、「神(ないし神の言葉)」も意味する。「ヨハネによる福音書」の冒頭「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった」の「言」も、この「ロゴス」である。

 いわゆる説明責任は、政府にとって法的義務であると同時に、神聖な倫理的義務でもある。だが、政府はその責任を果たすどころか、「廃棄した」「価格交渉はなかった」など虚偽答弁を重ねた。答弁との辻褄(つじつま)を合わせるべく決裁文書を改ざんし、あげく担当者を自殺に追い込んだ。実に罪深い。